――――長い、夢を見た。
ひどく胸が痛む夢。どうして今笑っていられるか不思議なくらいに。それがたとえ、偽りの笑みであったとしても。
始まりは、小さな村。慎ましく、決して豊かとはいえないけれど、あたたかな暮らし。その集団から離れて、どこかの誰かに似た子供が居た。
「妖精が見える」「魔術が使える」と陰口を叩かれた。殴られることも、蹴られることもあった。家ですすり泣くことも少なくない。だが、子供は生きることを選んだ。
そんな風だから、森の中一人きりで生活していた。ドルイド僧であった父から譲り受けた知識が助けになった。動物を射るために弓も引けたし、草木には詳しかったし、生きることに困ることはない。
青年になった頃には、笑みを被って人の輪に入ることを覚えた。楽しげな集団に混ざって人恋しさを埋める。群れはしない。女性を誘惑することだってあったけれど、大切なものはつくらなかった。
そうして過ごしていると、村に軍がやって来た。
偶然だった。まさかたった一人で、少ないながらも軍を追い払ってしまうなんて。けれど村人たちは喜んだ。
青年は村人を好きにはなれないけれど、憎んで捨てるほど嫌いにもなれなかった。青年は村人が紡ぐあたたかな暮らしを愛していたから。
彼は奔走する。食糧に毒を盛り、拠点に火を放ち、陰で殺し、仲間同士を疑わせ、罠を張り。一対一で戦えという兵の誇りも、戦って死にたいという願いも踏みにじって。
吐く日もあったし、眠れない日もあった。人を殺す。非人道的な行為は回数をこなせば慣れていく。苦しみを紛らさせて、自分を捨て、愛しい日常のために守った。
守ったものに裏切られるけれど。努力は報われなかったけれど。
――――それでも、青年はきっとそれでよかった。
最期。草木生い茂る森の、陽の当たる中。青年は血を流して臥している。
夢が終わる瞬間、名前の無い青年が笑ったような気がした。
そこで湊は目が覚めた。胸が、痛い。抑えるように心臓を握りしめた。
ジナコ=カリギリが衛士になり、BBが協力を得ていたはずのユリウスに裏切られ、レオとガウェインに一瞬してやられた後。湊たちは呆れられてまた待機を命じられた。その後、少し精神的に疲れてベッドに横になっていたら、夢を見てしまった。
どこにもふらつかずに部屋にいたアーチャーと目が合う。湊は気まずそうに、アーチャーはそっけなく目をそらした。一応はマスターとサーヴァントという関係にいるため、夢という形で過去を見ることを危惧していなかったわけではない。アタランテのときにもそういうことがあった。言いたくないこと―――過去を、やむなしとはいえ覗き見してしまった。湊なら耐えられない。自分の生き方に誇りなんてあるわけがなく、みっともなくて、汚くて、情けなくて、恥ずかしいから。
長い沈黙の中、アーチャーが口を開いた。
「何つー顔してんですか。別に俺は気にしてねえですよ」
「……でもさ、」
「オレが死んだ理由とか、過去とか、お嬢にはどうでもいいでしょ。そんなもんかくらいで。同情なんかすんなよ? いらねえし」
「……いや、話したくなかったろうに、悪いなって」
心底鬱陶しそうに、同時にやけになったように吐き捨てるアーチャー。湊がなおも暗い面持ちで返す。アーチャーは湊の言葉に目を丸くした。
「どういう視点だよ、そりゃ」
「同情とか、アーチャーみたいな人は嫌がるだろうし。あの生き方で満足とまではいかないけど、まあ、納得はしてたんだろうから、私はどうこう言えないし」
後悔しているのなら、もっと普段から攻撃的な態度で、人を憎むような物言いであるはずだ。納得していたから、きっと夢の中の青年は笑ったのだろう。
「それに、人の過去勝手に見るのは気持ちよくないし。……私は、あんな風に見られたくないから」
アタランテは湊の夢を見なかった。だが、誠実な女狩人を信頼して、湊は過去を吐露した。自分から話す分にはいい。夢という形で見られるなんて最悪だ。勝手に自分の過去を覗かれるのだから。それでも、どんな反応が返ってくるか、怖くてたまらなかった。
心情をこぼしながらも視線を定めない湊を、アーチャーは温度を感じさせない翡翠の瞳に映していた。
間を置いて、アーチャーが無表情のまま口を開く。
「……やっぱお嬢って真面目っつーか、なんかズレてるよな」
「な、何それ!?」
人が誠実に謝罪しているというのに、このサーヴァントは。顔をしかめたが、すぐにやめた。アーチャーは小馬鹿にして笑っているわけではなく、初めて湊に対して柔らかい笑みを浮かべていたから。ダン卿のことを考えて、ではない。起きたばかりとはまた別の痛みが襲ってくる。顔が、熱い。湊は熱を振り払うように頭を振った。
立ち上がり、床に腰を下ろしていたアーチャーの隣に座る。
「あのさあ。アーチャーの前のマスターって、どんな感じだったの?」
「は? 何だよ突然」
「何となく」
マスターがダン・ブラックモアであることしか知らない。二回戦までとはいえ、それなりに積もる思いもあるだろう。それに、以前、真面目で寡黙な爺さんでしたよ、と悪態をついていた割に、表情は優しげで。この捻くれた彼をそんな顔をさせる人は、どんな人なのだろうと気になったのだ。アーチャーが信頼していたマスターはどんな人物なのか。
アーチャーは湊から顔をそらして、ぽつりぽつりと話し始めた。
一回戦、自分がマスターを殺して不戦勝になり、清廉な老練の戦士はそれを禁止した。卑怯な手を嫌ってはいたものの、軍人としてそれを良しともした。二回戦、それを無視して相手マスターを殺そうとしたら令呪を使ってまで禁止させた。自分は同席しなかったが、教会によく足を運ぶ敬虔なキリスト教徒だった。生前の自分を知って、ただまっすぐに人として生きろと言った。
聞けば聞くほど高潔な人で、けれど同時にそれだけの人物ではなかった。皮肉を口にしながら、文句を垂れながら、それでもアーチャーの瞳は澄んでいた。今でも慕って、信頼している。
素敵な人と出会えたんだ。今まで見たことのない彼の朗らかな表情。つられて湊も頬が緩む。けれど、すぐにアーチャーの横顔を見る湊の目が揺れる。罪悪感が胸を占めていく。
「……どうしたんスか、辛気臭いツラして」
「ごめんね」
呟いた声はかき消えそうなほど脆い。いつになく沈んだ湊にアーチャーが訝しむ。
「は?」
「私みたいなのがマスターでさ」
拗ねているわけではない。湊はそんな風に美しい生き方をしたわけでもないから。魔術師としても、武人としても、特別強いわけでもない。年頃の少女らしい、可愛らしい性格なんてもっての他。そんなマスターと以前組んでいたのでは、湊のような少女など霞んでしまう。BBに命じられたからとはいえ、彼に申し訳なかった。今までの態度と言動から鬱陶しいと思われたって仕方ない。
夜が溶けていくように、透明な雫がうっすら浮かぶ。溢れるのをこらえた。泣いてはいけないのだ。アーチャーは顔を思い切り歪めた後、隣に座る湊を見て開いた口をすぐにつぐんだ。
「基本的に、サーヴァントなんてマスターを選べねえんだよ。月の聖杯戦争が特別なだけで」
そう言って、アーチャーは湊の丸い頭を雑に撫でた。撫でるというよりは手を頭に押し付けるようだったが、言葉にできない優しさを感じる。
「つーか、まあ、何? そもそも年も違うし、考え方もそれぞれだろ。旦那と比べんなよ。お嬢がマスターでも、俺はまー、楽しいしな」
「……?」
ようやく視線だけアーチャーを向けた。それに気付いて彼は悪戯に歯を見せた。
「からえるし」
「そっち!?」
湊は声を荒げてアーチャーを睨む。はっきりと正面でアーチャーはにやりと笑う。
「そーいうとこ」
一瞬、小さく胸が音を立てる。顔立ちがいいからか。それは違う。周りには同じ人間かと疑うくらい美しかったから、慣れている。気遣いが嬉しかったからか。それはある。けれど、それだけでは済まされないような胸の痺れが湊を襲う。ちりちりと何かが心の奥で燃え始めた。熱い先ほど感じた熱さと同じ。感じたことのないそれは、決して不快なものではなかった。
顔をまた膝に埋める。小さく、だが感謝と喜びを精一杯唇に乗せた。
「…………ありがと」
アーチャーはそれには応えない。ただ肩をすくめただけだった。そして、話題を変える。
「つーか、オレばっかり不公平っしょ。せめてお嬢が表の聖杯戦争で誰と組んでたとかくらい、いい加減教えてくれてもいいんじゃねーの? 四回戦まで行ったんだし」
「まぐれ勝ちだけどね」
「まぐれでも勝ちは勝ちだろうが。なんでそう素直に自分を褒められないかねえ」
「だって、本当のことだから」
湊の喉から出てきたのは、温度を感じさせない声音。アーチャーの顔に焦りが浮かぶ。湊はすぐに柔らかな口調で冷えた空気を取り払う。
「前にも言ったけど、私が組んでたサーヴァントもアーチャーだったの」
綺麗なアーチャーだった。神話に登場するとだけあって、美人には慣れていた湊も見惚れるほど。少女の形を取りながら、男よりも凛々しく戦う女狩人。聖杯にかける願いはひどく難しく、壮大だったが、彼女は真剣だった。真摯に向き合う姿に湊もそうあってほしいと同意した。そうして気難しい彼女の信頼を得、お互いを認めて戦い始めた四回戦で――――円卓の騎士と未来の王に、なす術なく負けてしまったのだ。
湊にはもったいないサーヴァントだった。私でなければ、あの二人にだって勝って、もしかして優勝したかもしれないのに。少しだけ脳に余裕ができたらいつもいつも、彼女へ申し訳なさが募り、そんなたらればを考えてしまう。
膝を抱える腕の力を強める。湊の瞳は彼女との別れを描いていた。
「ほんと、申し訳なかったな」
「そいつだってそう思ってんじゃねーの」
黙っていたアーチャーが言う。そっけなさそうな言葉とは裏腹に冷たさはなく、どこか穏やかですらあった。
「残念ながら、オレはそいつみたいに誇り高き狩人じゃねえが――――ま、狩人としての腕は負けちゃいませんぜ」
軽快に、けれど自信に溢れた笑い。湊はそれがなんだかおかしくて、苦笑した後、誠実さをたたえた笑みを浮かべた。
「何張り合ってんの? そんなの、ちょっとだけど、一緒にいて知ってるってば。アーチャーは、強いよ」
皮肉でも何でもない。純粋な賛辞だった。
正々堂々だけが強さではない。隣に居るアーチャーは狩人なのだ。罠を使ったって、毒を使ったって、いいじゃないか。自分を褒められないと言ったが、アーチャーだって同じだ。自分に正当な評価なんてできない。静かな夜の微笑みがゆるりと広がっていく。
アーチャーがそっぽを向く。
「そりゃ、光栄なことで」
「――――なぁに役立たず同士で仲良くなっちゃってるんですか?」
静謐な時間は、苛立ちを含んだ少女の声によって、終わりを告げた。
BBが音もなく現れ、二人と距離を縮める。長い紫の髪が逆立っているように見えた。レオとガウェインにしてやられたのもあるのか、ジナコ=カリギリを衛士にしても負けたこともあるのか、それとも別のことが絡んでいるのか。この理性的なようでいて、そうでもないようなAIのことなんて、どうせ教えてくれないのだから考えたって仕方がない。
教鞭を弄びながら湊とアーチャーを憤りと焦りを隠さない目で冷ややかに見つめる。湊たちは慣れたもので、それを受け流す。
「悪かったな、役立たずで。これでも雇い主のために少ないどころかないにも等しい賃金で頑張ってるんですけどねえ?」
「むしろギャラなんてなくても構わないくらいなんですけど。まあ、いいです。……羽虫以下のくせに、瀕死の蝉以下のくせに、センパイったらまだ余力があるみたいです。サーヴァントの宝具も解放されてしまいましたし」
BBが深いようで軽いため息をつく。そして夜桜色の瞳を一気に恐ろしく機械的な赤の瞳に変えて言い放つ。
「さて。わたしの言いたいこと、分かりますよね? 湊さん」
「……拒否権なんか、ないんでしょ」
衛士になれ。頭の回転が特別速くない湊だって辿りつく答えだ。それなりに働いているので役立たずと言われる筋合いはないが、かといって大きな功績を残したわけでもない。だが、もうそれくらいしか湊の価値はないとでも言われているようで。和らいできていたはずの痛みが疼きだす。
「さっすが湊さん、お話が早くて助かります」
「おい、いいのかよ、お嬢」
「いいよ。心なんて見られたくないけど……あいつらを倒せばいい話だし」
心を見られたくないのなら、秘密を知られたくないのなら。さっさと倒せばいい。自分の心の中を覗く不届き者なんて、清めの炎で燃やされて死んでしまえばいいのだ。
湊の目が無感情になる。先ほどの微笑みはどこにもない。アーチャーはまだ何か言いたそうにしていたが、そんな湊を見て口を閉じた。
そして、BBが空気を読まずに明るく声を張り上げた。
「さあ、湊さん。アナタの心にずかずか入ってこようとするおバカさんを、容赦なく殺っちゃってくださいね☆」
BBの無邪気で残酷な笑顔を最後に、湊の視界も思考も真っ暗になった。