ここは、月の裏側らしい。
湊はBBから一通りの説明を聞いた。旧校舎と呼ばれる場所にNPCや数人のマスターたちがいること、彼らはここから出ようとしていること、サクラ迷宮というものの存在、SGというもの、BBがムーンセルを取り込もうとしていることなど。
月の裏側は、ムーンセルが不要だと判断したものを保管している廃棄場だという。不要。まさに敗者となった湊はムーンセルにとっていらない存在だ。そんな場所にいたとしても何の違和感もない。
これからびしばしコキ使いますからね。BBはそう言ったが、最初からそんなことはなかった。
短いスカートから丸見えの純白を見せつけ、BBが嘘くさい笑みを張り付けて言う。
「今ラニさんとエリちゃんが頑張ってくれてるので、それまでは待機でお願いします」
待機を命じられた湊には、エリちゃんというのは誰だか全く見当がつかない。しかしラニさんが誰かは分かった。
ラニ=[。レオ・B・ハーウェイ、遠坂凛と並んで有名なマスターの一人だ。アトラス院の少女。褐色の肌に白い服、薄紫の髪と眼鏡。整った顔には感情が乏しいどころかない。以前遠目で見たことがある。機械仕掛けの人形のように美しかった。湊としては、服装だけいかがなものかと思わなくもないが。
彼女ほどのマスターでもBBに捕えられて利用されているのか。ということは、BBがやけに馴れ馴れしく呼んでいる「エリちゃん」はサーヴァントなのだろう。クラス名ではない。ちゃん付けするくらいなのだから、少女なのだろう。
「りょーかい」
「分かった」
「返事がなんかすっごく適当で、なんかもーBBちゃん心配です。数少ないメモリで適当に部屋を作ってあげたので、ちょーっと待っててくださいね」
BBが湊とアーチャーの返事にむくれる。そして「数少ないメモリ」を強調し、BBが教鞭を一振りした。その瞬間、何もなかったその場に、聖杯戦争で見たままのマイルームが現れた。それはまるきり部屋を切り取って置いたようであり、見栄えはとても悪い。
BBの能力については何も説明もされていない。どのような原理で叶えているのか、湊には想像すらできなかった。ただのAIがこんなことをできるわけがない。違法改造(チート)の本来の意味通りなのか。しかし、それを知っても何もできるわけではない。利用されるだけのコマはそんなことを考えなくていい。
湊はすぐに思考を巡らせることをやめ、素直に感嘆の声を漏らした。
「ではわたしはこれで」
湊の反応に満足そうに首を上下させ、BBは消えた。
残された湊とアーチャーはお互い目線だけ合わせる。だがそれだけで会話はない。
しばらくして、先に沈黙を破ったのはアーチャーだった。
「で、どうするよ、お嬢さん」
「……何、そのお嬢さんっていうの」
お嬢さん。当然ながらそんな風に呼ばれたことなど一度もない。お嬢さんという呼称で思い浮かんだのは甘い声で紳士が囁いているシーンだ。しかし、彼はまったく紳士ではない。しかし、彼はまったく紳士ではない。紳士は開口一番少女に失礼な言葉を投げかけない。アーチャーの言うお嬢さんには馬鹿にした含みがあるように湊は感じた。
湊の刃物の切っ先のような目をアーチャーは物ともせず言う。
「そういう年頃だろ、あんた」
「似合わないし恥ずかしいし、やめてくれない?マスターが嫌なら黒瀬でも湊でもいいから」
心底嫌そうにため息をつきながらマイルームのベッドに腰かけた。上か下か認識できなくなりそうな場所で立ちっぱなしでいると、また意識が曖昧になりそうだった。
この軽薄そうなアーチャーも、実は前のマスターのことを忘れられなかったりするのかもしれない。そう慮っての事だったが、
「じゃあお嬢とかどうっすか」
などと、マイルームの椅子に座ってからアーチャーが返した。湊の顔が不満でいっぱいになる。
「……なんかヤクザの娘みたい……」
「お嬢さんよりはマシだろ」
「……もうそれでいいよ」
湊はしかめっ面で諦めた。全力で拒否をするほどとんでもない呼び方ではない。
「でも、ま、沈黙ばっかじゃなさそうで何よりだ。オレの前のマスターは、真面目で寡黙な爺さんだったんでね」
「爺さん?もしかして、あんたの元マスターって、ダン・ブラックモア卿とか?」
真面目で寡黙な爺さん。そう言われて思いつく人物はダン・ブラックモアしかいなかった。齧った知識しかないが、英国の元軍人、騎士の名を持つ老兵だとか。
アーチャーは湊の口から発せられた名前に、初めて飄々とした顔を崩した。
「知ってんのか」
「名前とすごい軍人だったってことだけ。一度見かけたことあるけど、誠実な人ってのは分かった」
一回戦のあるとき、羽休めに教会へ行って彼を見かけた。纏う空気はすっきりしていて、それでいて威厳のある老人だった。湊が保護者に世界中連れ回されていた頃、軍人を何人か見たことあるのだが、彼らとは全く違っていた。あれこそ誇り高き騎士と言えるのだろう。
マスターは基本的にサーヴァントを実体化させて連れ歩くことなどしない。よほど腕に自信があるのか、ただの愚か者か。湊が見かけたときには、ダンも例外なくサーヴァントを目に見えて隣に置いてはいなかった。そのため、隣にいるアーチャーだと連想することができなかった。アーチャーは単独行動のクラススキルを持つので、単純にいなかっただけなのかもしれない。
「へえ」
アーチャーが相槌を打つ。どこか嬉しそうな音をしていた。
「で、オタクのサーヴァントは?」
「え?」
「いたんでしょ。どんな奴だったんスか」
「別に……私にはもったいない、女性っていうか、女の子なのにすごく凛としたアーチャーだったよ」
湊は遠くを見た。ついこの間、あるいは気が遠くなるほど前のことを思い返す。
今傍にいる緑衣のアーチャーとは違う、深緑の女アーチャー。獣のたてがみのような美しい髪がなびくたびに綺麗だと思った。女性にしては長身の肢体はすらりとしていて、一緒に居ると自分の体と見比べてはため息をついた。きりりとした目は時折優しく湊を見つめ、何度もダメだと自分を卑下する湊を落ち着いた声で叱咤してくれた。
本当に、私にはもったいなかった。四回戦のことを思い出し、湊は目を伏せた。
アーチャーは何も言わない。
「そうっすか」
この話はやめようと言うように、淡々とした返事をするだけだった。それからアーチャーがトーンを変えて湊へ話しかける。
「しっかし、お嬢も変な人間だな」
「え……私、自分をそんな変だと思ったことないんだけど……」
湊は自身をかなりの常識人だとは思わない。とはいえ、変と言われて喜ぶ人間などいない。知人が変人のオンパレードだったので、アーチャーの評価に地味にショックを受けた。
「一回死んでるのに慌てないわ、利用されてやるなんて言うわ、変以外ないでしょうが」
「そうかな」
人間、生きていれば誰だって死ぬ。湊の場合、月の聖杯戦争で負けたから死んだのだ。その事実は変わらない。「なかった」ことにできない。それこそムーンセルに侵入でもして、死を「なかった」ことに上書きするくらいしなければ。BBがそれを成し遂げようとしているが、どうせ達成されたらポイ捨てされるのが丸分かりだ。でもそのときまでゾンビとして、幽霊として生きている。
再び死ぬのなら。もう夢が、叶わないのなら。誰かに利用されてもいいと思ったのだ。
「夢がもう叶わなくなったなら。でももう少しだけ生きられるのなら、生き返らせた奴のこと手伝ってもいいかなって」
「生き返ったからもう一度聖杯戦争に参加する、とかねえのかよ」
「今更そんなこと言ったってBBに殺されるか、記憶取られてNPCたちがいる旧校舎行きでしょ。サーヴァントもいないのにBBに立ち向かえるわけないし」
「……そりゃそうか」
「そういうあんたはなんでBBに付き合おうと思ったの?」
「あの女に変に逆らってもいいことねえしな。ビジネスですよ、ビジネス」
「ふうん」
考え方が傭兵らしいサーヴァントだ。その考えを否定する気はない。湊だって生きるか死ぬなら、生きる方を選ぶ。彼はサーヴァントなので生死にあまり関係はないはずではあるが。
再び沈黙が下りる。湊は会話が特別嫌いなわけでもないが好きというわけでもない。特にファーストコンタクトでアーチャーへの心象はかなり悪い。湊から話しかけようとは思わなかった。
それから一言も交わさないまま時が流れる。湊は自分の能力が縛られていないか確認を始め、アーチャーは弓矢の整備をし出した。
一通りのことを試したが制限はされていないようだった。大魔術が使えるというわけでもないが、ただでさえ湊は普通の魔術師だというのに、能力制限されても役立たなさに拍車がかかるだけだ。
しかし。湊はアーチャーを見た。単独行動のスキルを持っているはずなのでどこか消えると思ったが、アーチャーは未だにマイルームに座り込んでいる。BBに待機と命じられたため、探索なども勝手にするわけにはいかないのだろうか。湊も不用意な行動をして怒られたくはない。が、いかんせん暇になってきた。
「……お腹すいた」
マイルームで座り込むこと何時間か何日か。湊はついに小さく不満を漏らした。耳ざとくアーチャーがその声を拾った。
「あぁ、そういや腹減っても仕方ない頃合いっすね」
「ちょっといい加減何か作って食べたい。暇だし」
「料理なんてできるんスか?」
心底意外そうにアーチャーが目を丸くした。馬鹿にされているように感じてしまい、湊は声を荒げる。
「できるけど?プロ級だけど?」
「自分で言うか、フツー」
「うっさい」
「料理、できますよ?します?」
「ぅわっ」
ぬるり。突然音もなく、BBが湊とアーチャーの間に現れる。びっくりして湊は変な声を上げてしまった。
「えいっ!」
驚きで呆然とする湊と不可解そうなアーチャーをよそに、BBが教鞭を振るう。刹那、マイルームの目の前にキッチンと呼べる空間と必要なものが一通り揃っていた。
「BBちゃんの手にかかれば、ちょーっとしたメモリでキッチンや材料なんて、ちょちょいのちょい!です!」
どうです?褒めてもいいんですよ?と言わんばかりの態度。面倒な上司のご機嫌を取っておこうと、湊が手を叩いて褒めた。
「うん、どういう原理か全然分かんないけどすごい」
「ふふん。そうでしょうそうでしょう。そういうわけで、わたしにも料理を作ってくれていいんですよ、湊さん」
BBはいつの間にか新たに作ったらしい家庭用の椅子に腰かけていた。テーブルの上にはナイフやフォーク、あるいは箸が既に用意されている。
ほら早く。BBはそんな風に、綺麗な笑みから圧力を発している。アーチャーはBBへ呆れた目を向けていた。湊も小さくため息をつき、BBへ尋ねた。
「……用意してくれたから、作るけどさ。嫌いなものとかある?」
「特にないですよ。アーチャーさんも森育ちだから雑食ですし、基本的に何でも食べるんじゃないんですか?」
「適当なこと言うのやめてくれますかねえ……つーか、オレの分とかあんのかよ」
「さすがに作るよ。っていうか、料理できるってのを認めさせるために」
「へーへー。期待してますよっと」
まったく期待していないような軽い調子でアーチャーが笑う。さらに湊の苛立ちが募る。眉根を寄せて背を向けた。
キッチンに立ち、湊は軽く長い袖をまくって調理を始めた。
包丁がリズミカルに食材を切る音。炎が燃え上がる音。肉が焼かれていく音。全てが耳に心地いい。調味料の香り、熱の匂いが鼻に来るだけで腹がすいてくる。時計もないというのに少女は正確なタイミングで焼き上げ、無駄のない動きで仕上げていく。
先ほど驚いていたアーチャーも感心したように口笛を吹く。隣に座るBBはというと、幼さが残る顔を何故か歪ませていた。
「なんでしょう……この、襲い掛かる敗北感は……?」
「こりゃ本当に期待していいみてえだな」
湊に二人の言葉は聞こえない。目の前の食材に真剣に向き合っている。
料理だけは自信があった。料理についてある人から教わっていたからだ。その人と、その人の仲間と過ごした日々。それだけは、湊の記憶の中で今でも色褪せず輝いていた。幸福な、ときだった。
――――湊ちゃん。
皿に肉や野菜を盛りつけながら、湊は自分を常に優しく呼びかける、美しい人のことを思い出していた。少し、鼻の奥がツンとなった。
「はい、できたよ」
しばらくして、アーチャーとBBの前に、美しく彩られたサラダ、湯気が立つオニオンスープ、豪勢な鶏肉料理が置かれる。見た目も香りもレストランにあっても遜色なさそうなものだった。
比喩ではなくきらきら光るそれらに、BBは唇を軽く噛んでいる。
「……何だかわたし、女友達の家に行って、軽く『手料理作ってみてよ〜』なんてちょっと品定めするように言ったら、予想を遥かに超えるプロ料理が出てきた、みたいな気分です」
「ちょっとBB」
「こほん、失礼しました。それにしても、本当においしそうでわたしびっくりです。いただきます」
行儀よく手を合わせ、BBが鶏肉を切り込み口へ運ぶ。きちんと咀嚼して飲み込んだ。湊はどきどきしながらBBの言葉を待つ。
「ええ、とても、おいしいです。悔しいことに」
「ねえ、さっきからどういうこと?」
「あ、いえ、本当ですよ?ねえ、アーチャーさん」
「そうだな。こりゃうまい」
アーチャーが食べながら賞賛する。嫌味は含まれておらず、素直にそう思っているようda
った。食べる手が止まっていない。その姿に湊は自然と笑みがこぼれる。そして、どうだとアーチャーへ目線をやった。
「さっきの撤回してもらうからね、アーチャー」
「あー、はいはい。お嬢は料理がすげえ得意です、オレが悪かったです」
「……まあ、いいや」
アーチャーが棒読みで返す。また言い争いになっても体力を使うだけなので、湊も席について食べることにした。
人間、サーヴァント、AI。三人で並んで食べる光景はとても異様だ。けれど、三人が食卓を囲むその姿に、湊はなんとなく地球にいた頃の思い出が蘇るのだった。