それは唐突に、だがとても自然に行われた。
慣れてきた学園生活の放課後。今日はロビンと一緒に寮まで帰っていった。ジャンヌオルタが漫画に興味を持ち始めた、今日の白野はBBに謎の注射をされそうだった、ネロが自分の石像を作っていた、エミヤが食堂の給仕を始めて面白い。他愛ない会話をしているとすぐに寮に着く。湊は別れの挨拶をして部屋のドアを開ける。
その途端、ロビンも部屋に入ってきた。湊へ向ける眼差しはどこか甘い。どうしたのと尋ねる前に、唇が塞がれた。
わざとらしいリップ音。驚きながらも湊は目をつむった。そのままロビンの制服を握る。幾度か軽いキスを繰り返す。
少し息苦しくなったところで、何かが湊の口の中に侵入した。それは無遠慮に、だが丁寧に湊の舌を絡めとる。その正体がロビンの舌だと気付くのに十秒かかった。
――――これ、薄い本でよくあるディープキス?
湊は翻弄されながらようやく思い至った。
好きな人と手を繋ぐのもデートも初めてなのだから、当然ディープキスなんてあるわけがない。完全に知識のみである。少し過激な少女漫画や、本来ならしてはいけない十八禁ものの薄い本とかでしか見たことのないそれ。
「ん、ん……」
少し粘ついた水音と、聞いたことのない甘い声音が耳に入る。
キス自体はもう何度かしていて、少し慣れてきていた。でもそれは本当に少しで、した後は頭がふわふわする。そんな湊がディープキスをされてついていけるわけがなかった。動揺して余計息もうまくできない。
ロビンの胸を何回か叩くと、ようやく唇が離れた。
「お嬢には刺激が強すぎましたかねえ」
息を整える湊へロビンはいたずらに笑う。口の端に軽くついた唾液を拭う舌に目がいく。それがひどく色っぽく、どきどきした。
「し、仕方ないでしょ!そんな、突然……」
「舌入れてもいいですかなんて聞くもんでもねえだろ?お嬢のことだから絶対ガチガチに緊張するし」
「そ、そう、だけど……」
湊だって頭の隅で考えたことはある。もしされたらと妄想し、ベッドで恥ずかしさに悶えていたら、壁に思い切り額をぶつけて今度は痛みに悶えたくらいだ。
でも、そんなことはまるきり抜け落ちていたときに、こんなことをされたら。羞恥よりも困惑と狼狽が脳内を支配するのは、仕方ないことだと思う。
耳まで焼けたように真っ赤になっている湊を見て、ロビンが苦笑した。
「オレが悪かった。初心な湊には早かったな」
皮肉でも嫌味でもなく、純粋な謝罪の声だった。ロビンが湊の頭を撫でる。幼子をあやすような手つき。それにお嬢ではなく湊と呼んだ。嘘偽りのない言葉に、湊はますます自分が情けなくなる
湊も素直に嬉しいとか恥ずかしいとか出てくるはずだった。だが、今は感情が言葉にならない。そんな湊のことを分かっているかのようにロビンが目を細めた。
「また明日な」
「……うん。また、明日」
かろうじて出た挨拶を受け止め、ロビンは部屋から出ていった。
残った湊はそっと自らの唇に触れた。少し硬い男の唇。唇の隙間を縫って入ってきた舌。舌を弄ばれながら感じた熱い吐息。ひどく大きく聞こえた心臓の音。さらに上昇していく体温。まだ体中にくちづけの余韻が残っている。
明日、ロビンへいつも通りの顔を向けられるなんて、湊にはできそうになかった。
翌朝、湊が教室に入って席に座ると、ジャンヌオルタが言った。
「あんた、どうしたわけ?いつもよりひどい顔してるわよ」
「いつも変な顔してるみたいな言い方やめてくれる?」
開口一番辛辣な言葉を投げられ、湊はすでに刻まれていた眉間の皺をさらに深くさせる。
キスのことが頭から離れず昨夜はまともに眠れなかった。さらに頭を締め付けられているような痛みが襲っているせいで、普段の湊より数倍目つきが悪い。自分でも鏡を見て知っているものの、改めて言葉にされると傷つく。
「何?あんたの彼氏となんかあったわけ?」
教科書やノートを机に入れながら、力のない目でジャンヌオルタを見る。正解なのだが、素直に反応して「は〜鬱陶しいわね本当に」とねちねち言われるのは分かり切っている。
「……ジャネットも結構恋愛脳だよね……」
どうにか肯定も否定もせず言葉を返した。湊の返事にジャンヌオルタは眉を吊り上げた。
「は!?違うけど!?あの女と一緒にしないでくれる!?」
「いや、別に誰とも比べてないし一緒にもしてないんだけど。……単に漫画一気見しちゃっただけ。ジャネットも読む?」
「…………どういうやつよ」
「あのねー」
ジャンヌオルタが前の席から少し身を乗り出す。湊の影響か別のものかは知らないが、ジャンヌオルタは漫画やアニメに興味を持ちつつあった。そののめりようといったら、湊が貸した漫画を一日で読み終えてくるほどだ。
――――よかった、ジャネットが突っ込んでこなくて。玉藻とかBBだったらこうはいかないや。
湊は話題が逸れたことに安堵し、おすすめの作品を紹介するのだった。
学校も無事に終わり、まっすぐ帰ることにする。湊にはやるべきことがあるのだ。
誰にも捕まらぬよう早足で寮へ直行。扉を開けて厳重に鍵を掛ける。制服のままベッドに寝転び、携帯である言葉を検索した。
「う……」
検索結果が表示され、並んだ言葉の数々に湊の顔がかあっと熱くなる。
『ディープキスの仕方 彼女・彼氏をメロメロにしよう!』、『ディープキスの上手なやり方とは?これで相手もエッチな気分に!』、『男を虜にさせるディープキス・テクニック3選』、……。
湊もまさか「ディープキス」で検索する日が来ようとは想像すらしなかった。この調子でいくと、際どいどころか直球の単語を検索してしまうのではないか。そう思ったところで頭を振り、思いつかなかったことにする。
改めて画面と向き合う。しかし、すごい言葉ばかり並んでいて見るのをやめたくなってくる。
湊はロビンをメロメロにとかエッチな気分だとかにさせるつもりはない。というか無理だ。(かなり二次元寄りの)知識だけはあって経験が皆無な湊は、これからもロビンに振り回されるに決まっている。
サイトには「相手の下唇を自分の唇で挟んで舐める」だの、「唇全体を舌で這わせたり、相手の唇を舐める」だの、「相手の舌を軽く吸う」だのと書いてあった。これがソフトなディープキスというのだから、矛盾しすぎて意味が分からない。扇情的な言葉たちに湊はもう倒れそうだった。
「無理!!」
耐え切れずにサイトを閉じた。枕に顔を埋め、足をばたばたさせる。それもすぐに疲れ、体をベッドに預けた。
もう寝てしまおうかと思った瞬間。ある考えが思いついた。
今日はロビンを見かけることもなかったが、明日か明後日からきっと何事もなく声をかけてきてくれるだろう。でも、湊はあのキスをなかったことにしたくなかった。せっかくしてくれたのに。そんなのロビンに失礼だ。ちゃんと気持ちに応えなければ。
湊は名前のない青年が大好きだ。月の裏側でもらった気持ちや言葉を思い出すたびに、心が揺れ、透明な感情が目に浮かぶ。
湊はゆっくりと起き上がり、乱れた制服を整えて部屋を出た。
「お、お嬢。どうしたんスか」
ロビンの部屋の扉を叩くと、運良く部屋の主がいた。すでに学ランではなく部屋着に着替えている。
拳を握って息を吸う。そして綺麗な緑の瞳を見つめた。
「あ、あのさ。部屋、入ってもいい?」
「おー、オレはいつでも大歓迎ですよ。ちっと散らかってますが、適当に座ってください」
中に招待してもらうと、部屋は少しだけ荷物が広がっているだけで清潔だった。壁に掛けられていたり、プランターに植えられていたりする草花の香りが漂っている。湊が知らないだけで危ない薬草もあるのかと、つい机の上に視線をやってしまう。
寮の部屋は生前縁深いものがベースになっているというから、緑豊かなこの部屋が名前のない青年の家の一部だったのだろうか。
「なんか淹れます?」
「ううん、大丈夫」
そっと湊が床に座ると、目の前にロビンも座った。湊は唾を呑んでロビンの隣に移動する。
「どうした?」
「……習うより慣れよって、よく言うじゃん」
「そうだな。それが?」
そう返されるのは何度も脳内でシミュレーションして分かっていたはずなのに、言葉に詰まった。目を泳がせる。このまま黙っていても進展しない。観念したように、湊はロビンの服を軽く握った。
「だから、その…………また、キス、して」
この学園生活も、キスするのも慣れてきたのだから。深いくちづけだって、少しだけ慣れるんじゃないか。そんな単純な思考でここに来たのだった。
口にした途端に頬が赤らむ。くちづけをねだることもあった。だがそれは慣れたいなんて理由ではなかった。今だってそれだけではない。
俯く湊に、ロビンが艶めかしく微笑んだ。
「そんな素敵な誘惑をされたら、しないわけにはいかねえな」
くい、と顎を持ち上げられる。垂れた緑の瞳は蠱惑的で、胸の奥を掴んで離さない。心音がうるさい。逃れるように湊は目を閉じた。同時に唇と唇が触れる。
くっついては離れて、そのうち感覚が分からなくなりそうな頃、下唇を舐められた。すぐ軽く吸われる。何度かそれを繰り返されると、舌と舌が絡む。
「ん、ふ……っ」
文字通り息をつく暇もない。全身の神経が唇に集中する。火傷しそうな熱さが体に広がっていく。
目眩がしそうになるところでキスが終わる。二人の口から糸が垂れ、服に落ちてシミになった。酸素が足りない湊はそれにすら気付かない。
「こりゃ、慣れるまで時間がかかりそうだな」
ロビンは何だかひどく楽しそうに目を和らげた。
「い、いつか、やり返すから!」
うっすら涙が滲んだ目で湊が睨む。
「そりゃあ楽しみだ」
それすらも愛おしそうに見つめてくるものだから、それ以上湊は何も言えなくなってしまった。それからもう一度ロビンの服を握り、濡れた唇でぼそぼそと呟く。
「……毎回は、疲れちゃうからダメだけど……また、してね」
「――――ああ。もちろん」
一瞬だけ目を丸くしたが、すぐ名前のない青年は涼やかに微笑む。その微笑みに、湊はまた胸が高鳴るのを感じるのだった。
はじめてのディープキス。次から裏になりますが、違う話を書きたくなって裏ではないかもしれません。とりあえず裏が増えます。
ジャンヌオルタとは同じクラスで前の席だから仲良くなりました(ジャンヌオルタはあまりそう思ってない)。
ちなみに「ディープキス」で検索した結果は実際にやったので大体同じです。