――――ああ、私、死ぬんだなあ。
体に痛みはない。目に見えて湊のアバターが崩れていくだけだ。RPGでドットが消えていくように。
不思議と涙は浮かんでこなかった。死にたくない、という当たり前の感情も、本当の終わりには無に還るだけだった。今まで散々死を間近に経験してきたときには「死にたくない」と足掻いていたというのに、おかしな話だ。抗えない死の前には脳も抵抗することも忘れてしまったようだ。
黒瀬湊という少女は、ここで死んでいくのだ。何も叶えられないまま、何も守れないまま。ただ一人、名前を知られない脇役の一人として。
湊は隣で同じように立ち尽くすアーチャーを見た。唇を噛みしめる姿さえ美しい少女。四回戦までマスターとサーヴァントとして運命を共にした狩人。湊は目を細めてアーチャー――――アタランテに言った。
「ごめんね。アタランテ。私が弱かったから、貴方の願いを叶えてあげられなくて」
「そんなことはない。私こそ、汝の力になれなかった。最後に……不甲斐ないところを、見せてしまった」
共に戦った純潔の狩人は本当に申し訳なさそうに眉を八の字にしている。いつも凛々しい顔をしていた彼女が初めて湊に見せた表情だった。そんな顔、しなくていいのに。アタランテは強い眼差しをして、まっすぐに前を見つめている方が似合う。
力になれなかったなんてとんでもない。むしろ、湊が実力不足だっただけだ。これでもアタランテと共に前へ進んできたつもりだった。それでも、凡人ができる限りしてきた努力も天賦の才にはただひれ伏すだけだと、こんな最期で思い知らされるなんて、最悪だった。
湊はそっと彼女の手を取った。
「ごめんね」
ごめんね。私のワガママな夢のために戦ってくれて。貴方の夢を叶えてあげられなくて。湊がもう一度謝罪の言葉を口にすれば、アタランテはますます柔らかな唇を噛みしめた。
アタランテが口を動かしたが、湊にはもう聞き取れなかった。ありがとう、か、すまない、か、さよなら、か。どれだっていい。もう返す気力さえない。
湊の薄れる思考には、いつかの夢がちらつく。もう現実になることのないそれも、すぐに泡沫のように消えた。
聖杯戦争。
聖杯「ムーンセル・オートマトン」。月で発見された、太陽系最古の遺物。神の自動書記装置。元々は異星の文明が地球の生物を記録する為に設置した観測機だったが、「地球の全てを余す所なく観測するには、地球の全てを掌握出来る程の性能が要る」という考えによって、情報だけで宇宙の物理法則を書き換えられる程に収束された光を中枢に蓄えた、万能の器と化した。
それを巡って百二十八人の魔術師(ヴィザード)と呼ばれる電子ハッカーが、聖杯の所有権を奪い合う戦いである。
予選を突破し、黒瀬湊という一人の魔術師も願いを叶えるために参加した。それが死を伴うものだと知っていても。湊は参加しなければいけなかった。罠であってもいい。もし嘘であったとしても、何かしらはある。そう信じて、痛くても苦しくても這い上がって来た。
もう叶うことは、ないのだけれど。
闇、闇、闇。気が遠くなるほどの黒。
少女だったものが闇でまどろんでいく。自らが何であったかすら分からなくなって、考える力すらなくなって、自我が消えて、感じることすらできなくなって。
SE.RA.PHでは、いらないもの(データ)はゴミ箱に捨てられる。単純だが合理的で論理的だ。
このままゴミとして捨てられていく。凡人で、敗者で、脇役にはお似合いの末路だ。笑うこともできない。
悠久にも似た時が流れていく。一瞬、あるいは数時間、あるいは数万年。そんなとき、ただ月を漂うだけの一ドットよりも小さな存在が、認識できるはずのない声を拾った。
「――――んー。どうしましょう?」
闇に女の声が響いた。甘美で邪悪な女の声。
「凛さんやラニさんほどじゃないですけど、結構使えそうですし。予備として捕獲しとくくらいはいいかもしれませんね。えいっ!」
黒瀬湊だったものは、掛け声と共に全てを再生されていく。再び黒瀬湊が構築されていく。
自我を取り戻す。嘘をつき続けて我慢をし続けて、ぼろぼろになった自我を。
記憶を引き出す。あたたかさと優しさが溢れた、愛おしく美しい記憶を。
夢を思い出す。手を伸ばしても届かない、何よりも代え難い輝かしい夢を。
生きなければ。守らなければ。叶えなければ。決意が黒瀬湊の心を形作っていく。
「アナタの夢を叶えてあげましょう。ええ、わたしの言うことを聞いていれば、何だって――――」
ねっとり囁く声音は淫靡だった。砂糖をどろどろに溶かした誘惑はひどく魅惑的だ。
何でも? 長らく使っていなかった喉が掠れた声を出す。ええ、何でも。姿知らぬ声の主は艶めかしく答える。
「さあ、夢のために散っていった惨めな人。少しはわたしの役に立ってくださいね?」
その言葉を最後に、また、眠りについた。
湊が目を覚ますと、そこは見知らぬ虚数空間だった。何もかもが曖昧で、自分の存在すら認識できなくなりそうな空間。
「お目覚めですか、黒瀬湊さん?」
甘くふくよかで、それでいて毒を孕んだ声音が聞こえる。それを湊はついさっき、あるいははるか遠くで耳にしたことがあった。
そちらへ視線をやれば、紫の女が爽やかに嘲笑っていた。
少女らしい初々しさを兼ね備えながら、女性としての色気を身に纏う女だった。髪は身長と同じほど。豊かな体を黒の服に身に包み、スカートの下が丸見えの不思議な少女。どこかで見たことあるような。湊に既視感が襲う。けれど彼女とは雰囲気が全く違うような。同じような。記憶を辿ろうとする湊に少女は続けた。
「よぉく寝ていましたねえ、さながら自宅警備員みたいに」
皮肉には何も言い返せない。先ほどまで時間の概念がなかったのにそんなことを言われても。心の中で文句を言って、湊は眉をひそめた。
そこで湊は少女の少し遠くに青年がいることに気付く。聖杯戦争に参加する前はやたら美形の人物たちと交流していたものだが、彼ら彼女らに負けず劣らず顔の整った青年だった。湊に耐性がなければ、ここで胸が高鳴ってしまいそうなほどには。
明るい髪色。垂れ目なのに凍りつくほど視線は鋭い。緑を主とした恰好をしている。張り詰めた空気。人間とは違う魔力の流れ。サーヴァントだ。軽装のためアサシンかアーチャーだろうか。同じ緑から連想して、アタランテと同じアーチャーかなと、湊は勝手に推測した。
少女は長い髪を揺らして湊の返答を待っているようだった。ようやく湊は視線をBBへ戻し、当たり前の疑問を彼女へ投げる。
「……誰?」
「わたしですか?アナタの夢を叶える素敵なAI――――BBちゃんですよ」
くるくる回ってから、大きな胸を張る少女――――BB。湊に向けられた愛らしい笑顔に反し、薄っぺらい言葉は全く信用できるものではなかった。そもそもAIはムーンセルの支配下であり、上級AIであっても人格に見合うある程度の行動範囲しか許可されていない。アナタの夢を叶える、など、それこそムーンセルでなければできない芸当だ。
湊はさらに顔をしかめて問う。
「……そんなこと上級AIであってもできるわけないでしょ。そりゃ、死んだ私を生き返らせたのはすごいけど……あんたじゃないかもしれないし」
「あれ? 湊さん、覚えてるんですか?」
BBは大きな目を丸くした。覚えてるわけないのに。そんな含みを感じられる言葉だった。
「当たり前じゃん。私は四回戦で負けたんだよ」
体の痛みはなくとも、そのときに感じた心の痛みが鮮明に蘇ってくる。絶対的な敗北、逃れることのできない死、襲い掛かる絶望。すでに崩れかかった心に深く突き刺さった。
正直な話。組み合わせが決定した瞬間に湊の敗北が確定した戦いだった。四回戦で湊が戦ったのは、財閥の御曹司レオ・B・ハーウェイと、円卓の騎士ガウェイン。天才魔術師と最強のサーヴァントなんて、努力で今まで補ってきた特別な才能もない凡人が敵うわけがない。アタランテも湊の実力にそぐわぬ十分強力なサーヴァントだったが、使役する側の性能の問題だった。たとえ彼女より強いサーヴァントであろうと結果は目に見えていた。
「なのに……なんでこうして立ってるの?まさか、本当にあんたがやったの?」
彼方で耳にした声。アナタの夢を叶えてあげる。そんなことを言ってのけていた。
BBは湊の疑念の視線に大きな瞳を丸くした。
「むむ、まさか湊さんみたいな平凡魔術師さんがそこまで覚えているなんて……もしかしてわたしったら、記憶取るの忘れちゃいました? んー、めんどくさいんですけど、記憶取らせてくだ、」
「待って」
湊は慌ててBBのセリフを遮る。
記憶を取るのを忘れた。さらりと口にされたが、ひどく恐ろしいことをBBは言った。記憶を取る、といっても「黒瀬湊は四回戦で負けた」という事実を消去することくらいだろう。そしてこの少女に利用されるのだ。そうでなければ、面識がなく死んだ湊を蘇生させるメリットなど何ひとつ存在しない。知識があるだけで頭の回転は速くない湊だが、それくらいは容易に想像がつく。
それなら。
湊はBBを冷然と見つめた。
「記憶取らなくても利用されてあげるから、記憶取るのやめてくれる?」
黒瀬湊の死が変わることがないのなら。夢はもう叶わないとまた絶望してしまうのなら。何の目的か分からなくても、誰かすら知らなくても。それなら、利用されたっていい。
「……まさか、そんなことを言ってのけるなんて。さすがのわたしもちょっとびっくりです。でもそれはそれでありがたいので、ま、アリかもですねー」
大きな独り言をしながらBBがいつの間にか手にしていた教鞭で遊ぶ。湊の方を向いてBBはにっこり笑った。容姿に似合わぬ欺瞞だらけの笑み。
「それでは、湊さん。これからわたしのためにいろいろ働いてもらいますよ?」
「……私のできる範囲ならきちんとやるよ」
「なんて頼もしい言葉なんでしょう……!!では、やる気ある湊さんに、さっそく組んでもらうサーヴァントも紹介しちゃいましょう。ミドチャさん、お待たせしました〜」
それはわざとらしく、感動したように目を潤ませ手を組んだ後、後ろを向いてBBが声をかける。今まで気怠そうに佇んでいたサーヴァントがため息をつき、湊とBBとの距離を詰めた。
しかしミドチャとは何か。湊はそっちの方が気になってしまった。
「あー、終わったか?ってか、そこのお嬢さんと組むとか初めて聞いたんですけどねえ?」
「それはそうですよ。初めて言いましたから」
「は?つーか、マジで言ってんのかよ」
「マジです。アーチャーさんには、この黒瀬湊さんと組んでもらいます。何だかんだ四回戦まで生き残ったマスターですし、結構強いと思いますよ?まあ、レオさんに負けちゃいましたけど」
「一言余計なんだけど」
湊は声を荒げてBBを睨んだ。だが、BBは事実を言っているだけだ。結局、生まれたときから王であるレオには負けたのだから。
緑の青年、もとい湊の予測通りだったサーヴァント・アーチャーが、少し驚いたように湊を見た。
「へえ。めんどくさそうな女だと思ったが、実力はあるわけか」
「は?」
湊の眉が怒りで釣り上がる。あまりにも包み隠さない本音。初対面、しかも組まされるとはいえパートナーになる者へ言う言葉なのか。
アーチャーはやれやれと肩をすくめ笑った。
「そう怒んなよ」
「怒るに決まってるでしょ。本音を隠すってこと知らないわけ?」
「あー、めんどくさそうなとこは予想通りだな。他人の評価を受け入れられない短気な女は嫌われるぜ」
「うっさい」
湊はそっぽを向いてアーチャーとの会話を終了させた。顔がいいから、ついでに声が湊好みとはいえ、何でも言っていいわけではない。やはり顔がいい奴は大抵性格に欠点があることを湊は再確認するのだった。
拗ねた子供のようにツンとした湊と、飄々と笑うアーチャーを見比べ、BBが桃色の潤った唇に指をあてる。
「んー。あんまり相性よくなさそうですねえ。これから一緒にお仕事してもらうんですから、ちょっとは我慢してくださいね?」
「へーへー」
「……善処する」
アーチャーの軽い返事と湊の嫌そうな返事。BBがあからさまなため息をついて湊へ向き直った。
「湊さん、紹介が遅れましたけど、この軽薄そうで皮肉で嫌味ったらしい人は、二回戦で無様に負けちゃったアーチャーさんです。仲良くとまではいかなくていいので、一緒に頑張ってください。はい、えい、えい、おー!」
BBが明るく声を張り、拳を握って突き上げた。だが湊もアーチャーも真似をせず、侮蔑すら入った目でBBを見ている。二人の冷たい反応に、BBが愛らしく媚びるように頬を膨らませた。
「ノリが悪い人たちですねー。……まあ、いいです。湊さん、アーチャーさん。これからびしばしコキ使いますから、よろしくお願いしますね?」
BBの温度のない笑顔が湊とアーチャーを牽制する。ふざけたトーンの丁寧な口調だが、動けないほどの圧力があった。湊は息を呑み、改めてBBというAIを見た。淫靡な空気を身に纏い、挑発的な表情を浮かべる少女はまさしく誰かを利用するのに相応しい存在だった。
しかし。同時に無理をしているようにも湊には見えた。
彼女が何をしようとしているのか。湊には全く予想がつかない。ありきたりに、地球を滅ぼすなどと言うのかもしれない。もっと違うことかもしれない。それもどうでもいい。もう黒瀬湊は死んだから。あの月の海で消えてしまう寸前だったから。夢を叶えることができないなら、世界が滅んだっていい。
かくして。黒瀬湊は、もう少しだけ、生きることを許されたのだった。