解放されている階層まで下りる。白野とセイバーはようやくメルトリリスのサクラ迷宮まで来たらしい。
湊とアーチャーは奥へと向かう。歩くたび、メルトリリスの毒とともに自分が床へと落ちていく。この感覚がいつまで経っても気持ち悪くて慣れない。
「BBのことだからオレらの言ってるだろうけどな」
「謎のテンションのせいでアホに見えるだけど、察し悪いわけじゃないしね」
BBは基本的に根は真面目で聡い。湊とアーチャーが裏切っていることなどとっくのとうにバレているだろう。特にアーチャーなどずいぶん前から単独行動していた。
周囲には二人と同じようにメルトリリスの毒に侵され、消えていくNPCや人間たちがいる。動く湊とアーチャーへ助けを求めているが、どうすることもできない。一瞬浮かんだ罪悪感もすぐに消える。
彼らを横目にひたすらに足を動かす。それもうまくいかない。自分の一部である足ですら言うことを聞かなくなっていた。湊は唇を噛んで堪える。
「……ここかな」
異様な空間を抜けて最奥へやってきた。ここが現時点での最下層ということは、そのうち白野とセイバーも向かってくるだろう。メルトリリスがやってくる前に、毒が回り切る前に、来てほしい。湊は抜け落ちそうな左腕を見て願った。散々なことを言った奴らに期待するなんて滑稽すぎる。湊の唇は自然と薄笑いを浮かべていた。
二人は白野とセイバーが現れるのを待つ。その間会話はない。緊張と切迫した空気が流れている。
体を構成する霊子が完全に消滅しない限り、魂も消えないのはSE.RA.PHのいいところだ。こうしてギリギリのところを生きていられる。生きていると錯覚できる。
湊とアーチャーが一日千秋の思いで待ちわびていると、足音がした。靴音とがしゃがしゃと耳障りな金属音。目的の人物が、息を切らして訪れた。
「湊に、アーチャー……!」
湊とアーチャーの姿を見て白野が目を見開く。
「よう、期待ハズレのお二人さん。どうだ、少しはマシになったかい? そろそろ切り札の一つでも取り戻したか?」
「遅いんですけど。ヒーローは遅れてやってくるとかしなくていいから」
挨拶代わりに皮肉と悪態をつく。だが、湊は内心胸を撫で下ろしていた。何とか間に合った。
「湊にアーチャー! 貴様ら、その姿は何事だ!?」
「だから待たせすぎだっつーの。あれから何時間経ったと思ってんだ。もう少し要領よくできないもんかね。ま、ドジこいたオレらも悪いんだが」
驚愕の表情を浮かべるセイバーにアーチャーは笑う。それから手にしていた二つのデータ。そのうちの一つを投げ渡す。
「……ほい、受け取りな。忘れる前にくれてやるよ」
BBのスキルについてのものだ。アーチャーがかき集めた雇い主の情報。
受け取った白野はアイテムフォルダの重さと、その容量の多さから来る重要さに口を開けたままだ。凛たちからの通信でBBの詳細データだということに気付いたのかもしれない。
白野は信じられないというように懐疑の瞳を湊とアーチャーに向けた。
「……二人は、BBの配下じゃなかったのか?」
「もちろん配下ですよ、そりゃあ。でもまあ、なに? 雇い主の詳細データを渡してはいけない、なんて契約はなかったからねぇ。ちょいと暇してたんで調べてみたワケ。生前のクセってのは抜けないもんだ。我ながら、盗み見(ピーピング)だけは褒められたもんじゃないよな?」
浸食されていく体などないようにアーチャーが笑う。それから湊をちらりと見てさらに笑みを深めた。
「でも渡してやろうって言ったのはお嬢だ。オレは特別オタクらのためじゃねーからな」
「ちょっ、なんで言うの!?」
かあっと湊の顔が熱くなる。あれだけ綺麗だの言っておいて、協力してやっているのだ。湊は冷たくなっている体が恥ずかしさで一瞬火がついたように思った。
そもそもBBの詳細データを見つけたのはアーチャーだ。おそらくらしくないとでも考えているのだろうが、全部湊がやったかのようにするのはどうなのだ。それに湊が言った言葉と少しニュアンスが違う気もする。息苦しいほど物々しい空気の中、湊はアーチャーへ目に角を立てた。
そのうえ白野の嬉しそうな笑みが鬱陶しい。湊は何も言えず、忌々しく睨みつけてそっぽを向いた。
アーチャーが肩をすくめて白野とセイバーへ向き直る。
「元値はタダなんで、格安で譲ってやるよ。お代は――――そうだな。この聖杯戦争を台無しにしたヤツの命でいい」
普段の軽い口調でいて、アーチャーの声には静かな怒りが込められていた。
「敗れたとはいえ、これは旦那の戦いだった。それを、くだらねえ個人の欲でどうにかしていいもんじゃねえんだよ」
アーチャーの鋭い目つきはさらに釣り上がり、まるで刃の切っ先のようだ。ふつふつと煮えたぎる憤りを必死に抑えている。
湊はアーチャーの思いがひしひしと感じられる声に目を伏せた。
アーチャーは一呼吸置いて湊へ言った。
「お嬢はお代どうします?」
唐突に話を振られて面食らう。そんなことは考えていなかった。湊は無償で彼らに情報をやるつもりだったのだ。そもそもBBのスキルについてのものはアーチャーが自ら取って来たものだ。湊がお代など貰う資格はない。
しかし、貰えるなら。貰うことができるのなら。
湊は視線をさまよわせ、わずかに沈黙した。それを誤魔化すように、白野たちを決意と悲哀と期待を込めた瞳でまっすぐに見つめた。
「……後でもらうよ」
セイバーが二人の思いを――――いや、アーチャーのみか――――感じて深く頷き、威風堂々と笑う。
「――――確かに受け取った。礼を言う、湊、アーチャー。まさか二度も貴公らに助けられるとは」
「げ、何だよ気持ち悪い。貴公とかやめてくんない? オレにとっちゃ本気で嫌がらせだから、それ」
「そうか。そうだったな、反逆者よ。BBも人選を誤ったものだ。貴様のような厄介な男を雇用してしまうとは」
「そう言うなよ、あの黒いお嬢さんは愚かだが馬鹿じゃない。薄々は気付いてたっぽいぜ?」
サーヴァント同士の会話が続く。湊はちらりとアーチャーへ視線を送る。どこか咎めるようなそれに気付き、アーチャーが気を引き締めて身構えた。軽薄さを感じながらも鋭利な殺気が際立つ。
「さて、と。んじゃまあ話すことは話したし、殺し合いでも始めますか」
なんてことない口調。どこかに散歩でもしようと言いそうな気軽さ。それなのに並べた言葉はやけに物騒だ。
反転した態度に白野が呆然としている。そりゃそうだと湊も心の中で同意する。こちらの情報を渡しておきながら戦うなど、湊も突然されたら理解ができない。だが、立場は違う。今更一緒の立ち位置になることなんてできない。
それによく聞く話だ。目的が、志が同じでも、敵であれば戦うなんて。
アーチャーが白野の顔を見ても表情を変えず、湊の胸の内を代弁する。
「あぁ? 驚くようなことかぁ? オレら、BBの配下。オタク、BBの敵対者。ごく自然な流れでしょ。目的が一致していても殺し合う。戦場じゃよくある話さ」
「そうそ。あんだけしといていきなり味方展開とかないから。最後まで敵でいるっつーの」
そうだ。最初から敵で現れたとして、味方になるなんてありえない。漫画や小説だと燃える展開だが、そんな馬鹿なことが現実であってたまるか。それに湊が味方になったところで盛り上がるわけがない。
湊はふっと、いたずらげに、茶目っ気たっぷりに微笑んでみせた。
「――――ま、こういうポジションキャラ、好きだしさ。演じるなら悪役のが楽しいって言うけど、なんか分かるかも」
白野は何かを言いたげな目で湊とアーチャーを見ている。そんな白野にセイバーがどこか高揚した声音で制止した。
「奏者よ、そなたの気持ちは分かる。だがこれは避けられぬこと。今はあやつらの挑戦に応じてやりたい」
「おら、かかってきな。……しかし、なるほど。こりゃあたしかにクセになる。サーヴァント同士の戦いは、悪くない。誇りなんて余分なウェイトも、今は微笑ましいもんだ」
アーチャーは目を閉じた。しみじみと、ほんの少し前の記憶を思い起こすような穏やかな顔つき。とても今から殺し合いを始める男の顔でも、死に際の男の顔でもなかった。
「アンタらが間に合って良かったぜ。つい眠りそうになるわ、片手からズルっといきそうになるわ、こっちはこっちで心配だったんでね。これでようやく、派手にいけるってもんだ!」
アーチャーの本当のマスター。ダン・ブラックモア。清廉潔白で騎士の名を賜った女王に仕える軍人。アーチャーとは正反対な人物。それでもダンというマスターは人間だった。人間らしい願いを心の奥底で持っていた。アーチャーの、名前の無い青年の在り方を肯定した。そんなマスターの話をする緑の瞳は明るく朗らかだった。無理矢理正々堂々なんてやらされてさあ、などと言っていた口元は緩んでいた。
いいなあ。一瞬、胸の奥が焼かれたように痛くなる。すぐに湊は似合わない不敵な笑みで白野たちへ忠告した。
「死にぞこないだと思って、油断しないでよね!」
――――当然、メルトリリスの毒を受け、しかも毒を回り切る手前でろくに体も動かせない状態の二人が、白野とセイバーに敵う相手ではなかった。何故かアイテムを使ってこなかったとはいえ、それは手を抜いた理由のうちに入らないだろう。むしろ白野とセイバーは全力で湊とアーチャーへ立ち向かってくれた。
「ぐ……っ!」
アーチャーがセイバーの斬撃に顔を歪ませる。もう弓を構えることすらできない。息を荒げ、ただ立つことしかアーチャーには許されない。
「勝負あったぞ、湊、アーチャー! 貴様らの負けだ!」
「……あー、四回戦って全部負けるとか、笑える」
そう言う湊の顔に自嘲の色はなく、ひたすらに険しい。
アーチャーの体がセイバーの攻撃を受けた影響で急速に自壊していく。
「……なんとか間に合ったか。あのままメルトリリスになるのだけは勘弁だったからなぁ。ったく、自決もできないとか、厄介な毒もあったもんだ」
ほっとしたようなアーチャーの顔に、セイバーが満足げにアーチャーを見つめる。同時に凛々しく、不遜に笑みを形作って問うた。
「よい戦いだった。余もそうだが、貴様も腕をあげたなアーチャー。それで、遺言はあるか?」
「遺言ねぇ。んなもん、いちいち考えてなかったが……ほら、お嬢、あれ」
「……忘れそうになってた」
それは嘘だった。こんなにも誰かの大切な記憶を忘れるものか。湊は大事な記憶のデータをそっと取り出し、切なげに瞳をにじませた。これは最後に白野へ手渡そうと思ったのだ。一人の少女の大切な記憶だから。
理不尽だし、意味不明なほどテンションが高かったりするし、散々人をコケにするし、正直BBという少女のことを好きかと言われれば微妙だ。それでも、湊はあのとき少女の瞳を、感情を、信じたかった。
できるだけ丁寧に白野へ向けて投げた。これはぞんざいに扱うものではない。
上手く受け取った白野にアーチャーが言う。
「他の誰でもない、おまえさんにだけ意味のあるものだ。……そこに、きっと『真実』がある」
その言葉を受けて白野はさらに困惑を深めた。何が真実なのかすらも不明であるような、思い当る節もないような顔。
記憶を抜き取ったのか、なかったことにされたのか。湊には分からないし、分からなくてもいいと思った。白野が正解を見つけ出すことができればそれでいい。
湊の体がまた少しなくなった。そろそろ限界だろう。
「……お代、今もらっていいかな?」
「何?」
セイバーが眉をひそめたが、それもすぐに正された。湊の目が澄み切っていて、それでいて痛々しかったから。
紫の毒が支配しつつある己の体の胸に手を当てて、静かにお代(ねがい)を口にする。
「私を、殺してよ」
メルトリリスの毒では自殺はできない。メルトリリス自身も、アーチャーも先ほど言ったことだ。アーチャーはセイバーの攻撃を受けたため、メルトリリスの毒が巡る前に消滅して座に還れる。だが湊はそうではない。このままだとメルトリリスになってしまう。
アーチャーの体は半分壊れていて、もう弓を射ることもできない。ならば、もうセイバーに頼み込むしかなかった。
「虫がいいのは、分かってるんだけどさ。何もなれなくても、メルトリリスになるのは、他人になるのは、嫌だから……」
自信に満ち溢れ、傲岸不遜な態度でいて、きらきら輝くセイバーだって嫌いだ。サーヴァントなのだから過去に何かしら不幸があるだろうし、思うこともあるだろう。理解してはいるが嫌いだ。
だが、あの妖艶で冷酷で、まさに毒の女に相応しいメルトリリスになるくらいなら。そんなセイバーに頭を下げる方がずっといい。いくら嫌いだろうと、セイバーがすっきりとしていて、晴れやかなサーヴァントであることは素直に認められるから。
アーチャーは何も口を出さない。静かに唇を閉ざし、湊を見守っている。
力なく笑い、物悲しい顔をした湊に、セイバーは白野に視線を投げかけた。白野は頷く。
「あい分かった。貴様の願い、聞き届けよう。行くぞ、夢見る乙女よ!」
力強く皇帝が笑った。今まで苛々するだけだったその笑みに、初めて湊は美しいとすら思えた。
セイバーが剣を振るう。重い一撃が湊を襲った。痛みが強まる。しかし、それ以上にセイバーの、湊への思いやりが感じられる一撃だった。あれだけ罵ったというのに、憎んだというのに。セイバーについては何も知らないが、きっと愛が溢れる、薔薇の似合う皇帝だったに違いないと、湊は顔を歪ませながら感じる。
セイバーの攻撃を受けて湊の体はすぐさま自壊が始まる。これなら、もうすぐに逝ける。
切り裂かれた腹を抑えて湊は今まで通りに笑った。そして最後に白野に発破をかけてやる。
「じゃあね、主人公。岸波白野。私(モブ)の屍越えて、世界救っちゃってよ」
「……もちろん」
真剣な面持ちで白野が答える。それに満足げに口角を上げた。
きっとこの少年ならやってくれるだろう。あの少女の思いにも気付いてくれるはずだ。黒幕が現れても、めげずに立ち向かって倒すだろう。何せ、天下の主人公様だ。白野がそれを否定しようと湊にはそう見えるし、そうであれと思う。世界を救うくらい、やってもらわなければ困る。
「ほら。さっさと行きなよ」
そして二人がアーチャーと湊の間を駆け抜けていく。力強い足音。未来に進む人の足音。引き留める気力も体力もここで消える二人にはない。
残ったアーチャーと湊はただ死と消滅を待つだけ。あとほんの数分だけが、共にいられる最後のときだ。
湊がアーチャーに目をやった。
最初はいけすかなくて、やたらと人の揚げ足を取る嫌な奴だとばかり思っていた。でもかなりの有能だし、軽口は叩くけど強い。本物の伝説の狩人でないというのが不思議なほどだ。そのためにどれくらい努力してきたのか、湊には想像もつかない。
――――オレがただの臆病者ってだけですよ。
強いと評価すれば、臆病者だと卑怯者だと自分を卑下して笑う人。それを恥じる気持ちがあるからこそ言える台詞に、今思うと胸が軋むほど痛い。
――――旦那と比べんなよ。お嬢がマスターでも、俺はまー、楽しいしな。
誇り高き老紳士と比べて鬱屈としていた湊に、いたずらげに笑って慰めてくれた人。湊のことをそれほど知っているわけでも好きなわけでもないだろうに。
――――人間として当たり前の夢だ。そんな夢、オレには笑えねえし、誰にだって笑わせない。
湊の夢も笑わないと、笑えないと、笑わせるかと、言ってくれた優しい人。それが少女にとってどれほど嬉しくて、どうしようもなく泣き出してしまいそうで、ひどく幸福になれたか、名前の無い青年は知らない。
短い間、けれどたくさんの思い出。記憶を辿っていくたび、じわりと目に雫がにじんでく。
少女はそれをこらえ、閉じていた唇に切なさと愛おしさを乗せて、青年へ呼びかける。
「あのね、名前の無いひと」
「……何です?」
青年は口元を緩ませた。もうすぐに消えるその顔を焼き付けるように瞳に映す。
少しくすんだオレンジの髪も、視線は鋭くてもあたたかな色を灯す緑の瞳も、苛立ちを込めながら落ち着き払った低く男らしい声も、細いようでいてしっかりとしていた手や体も、今まさに穏やかで慈しむような笑顔も。全部、全部。
少女は胸に秘めていたありったけの感情を青年に向けた。
「私、貴方のことが好き」
この胸に灯る感情を恋という以外なんて名付ければいいのだろう。憧れでも、信頼でもない。それだけは分かる。
一緒にいると嬉しくて、話すだけで楽しくて、優しくされるのがぎゅっときて。胸がどきどきうるさくて。
アーチャーからの返事はない。なくてもいい。ただ伝えたかっただけだから。困らせると知っていても、告白を覚えることはないと分かっていても。だから伝えたかった。
だが、青年は目を細めてそれに応じた。
「オレも好きだぜ。湊」
初めて青年が少女の名を呼んだ。爽やかな声色に、ぽろぽろと目から喜びが落ちてくる。
名前を呼ばれるだけでこんなにも幸せになれることがあるなんて!
自分を助けてくれた神父にも、料理を教えてくれた美しい女性にも、闇に生き抜く術を教えてくれた陰陽師にも、他の誰にも自分の名前を口にしたことはあるのに。嬉しすぎて、泣いてはいけないと戒めていた分を補うように、今湊の瞳から溢れている。
普段の、以前の湊なら、嘘だろうと、ありえないと、間違っているのかと、誰かにお近づきになりたいのかと、罰ゲームかと、疑いの目で見るのに。あまりにも青年が甘い目をしているものだから、本当にそうなのだと信じられた。
もう悔いはない。だって、白野の言う通り、何か(ヒロイン)になれたから。それがたとえ一瞬でも、それだけで湊は幸せだ。
触れただけで崩れ落ちそうな体で、お互い近寄る。息もかかるほどに体も顔も寄せる。
綺麗な顔。嫉妬はなく、純粋に青年の顔を見て思う。
体温なんて感じられない。だけど、少女は日の光を浴びたように青年の体をあたたかく思う。
額を合わせた。少女と青年は顔をほころばせ合う。少女は唇を開いて最後の言葉を紡ぐ。
「さよなら、名前の無いひと」
さよなら。もうきっと会うことはない、名前の無いひと。
目の縁からきらめく水滴は一瞬の美しさを放って消えていく。静かに振る雨のように涙をこぼし、愛おしさと悲しみでいっぱいの顔で青年を見つめた。
「またな、オレのお嬢さん」
青年が返した言葉は別れではなかった。いつかは分からないけれど、きっと会えるその日を待ち続けると、強く信じた言葉だった。
青年に涙はない。愛おしさと慈しみをした緑の瞳をかすかににじませている。たまらない宝物を見つめるような微笑みで少女を見つめた。
最期を惜しむように、ゆっくりと、けれど早くお互いの唇と唇を合わせた。
ファーストキスはレモンの味だの何だの聞くが、何も分からなかった。ただただひたすらに甘い幸福だけが湊の胸を締め付けていた。
キスをしたまま、二人の体を構成する電子が消えていく。
もうその場には何も残ってはいなかった。最初から何もなかったように。
今度こそ、どこにでもいるありふれた少女は、黒瀬湊は死んでいった。
しがみついてきた生も、掴もうとしてきた夢も、結局泡になったけど。
最初からは何もなかったけど、何もなかったわけじゃないと気付いた。何にもなれないと思っていたけど、誰かの特別になれた。
だから、もうよかった。
少女の最期は、幸福に満ち溢れていた。