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ティアラにさよなら

準備は整った。白野は黒瀬湊が眠るレリーフを見つめた。レリーフの湊は体を横にしつつほぼ背を向けている。だが目ではこちらを窺っている。何かを訴えかけるような、弱々しい瞳。

「準備はよろしいですか?」

キアラが穏やかに言う。それに白野が首を縦に振って返事をすると、キアラは目を細めた。

「目を閉じて、心を穏やかに。ええ、そうです。少女の夢を覚ますことなく、苦しみから解放してあげてください」

意識が白く霞んでいく。耳朶から流れこむキアラの声。温かさにゆるみきった思考が、一秒を千秒に、千秒を一日に変えていく。
自らの内に際限なく沈んでいく感覚。
いずれ意識(はくの)は本来触れあう事のない、他人の心に落ちていく――――。


白野とセイバーの自我はいつの間にか闇の中を下っていた。恐怖を煽る暗闇ではない。冬の夜空のごとき静けさ。ただし、共に流れる炎はそれとは正反対だ。好きな人たちを羨む嫉妬の炎、認めてくれない他人への憎しみの炎、そして湊自身を責めるための自己嫌悪の炎。

『今でも思い出すのは、真っ赤な景色。慣れた生活感なんてどこにもなかった。鼻をつく異臭、ぐちゃぐちゃな何か、追いかけてくる真っ赤な人。怖くて怖くてたまらなくて、死ぬんだなって幼心に分かった。だけど私はどうにか助かった』

感情のない、いや、無理矢理抑えつけている湊の独り言が始まった。
家族を殺人鬼に殺されたという彼女の回想。淡々と話していて、同時にその声は震えている。荒い呼吸でさえも聞こえてくるようだ。

『それから助けてくれた神父さん、綺麗で女神みたいな菜保子さん、その男前でかっこいい彼氏さん、その周りの大人の人たちがいてくれた。みんな変だけど優しくて優しくて、ずっとこのままいられればいいって思った』

本心からの言葉。明るく言うそれに、本当にその人たちと過ごしてきた日々が幸福であったのだと感じられる。
今まで同様、白野たちから湊に口出しをすることはできない。あくまで湊の中で思っていることを自分の中で反芻しているだけだ。

『私はその人たちだけでいいの。優しくされたから好きになったわけじゃないけれど、でも、自分だけじゃなく、私のことを考えていろいろなことを教えてくれた人を好きになったっていいじゃない』

自らを納得させるように、言い聞かせるように。湊は言葉を重ねる。

『そうだ。何にも残らなかった私には、自分だけでも精一杯だけど、その人たちは守りたいって、その人たちがいたらいいって。そう思うのは悪いことなの? いいじゃない。狭くたって、これが私のセカイ。知見を広げようとか知らない。もう生きるだけでいっぱいいっぱいなんだから』

ぎりぎり、歯軋りの音がする。心なしか、共に暗闇にたゆたう炎も苛烈さを増したような気がした。

『――――でも、私はそのセカイに見合うだけの美貌も才能もなかった。それなりに幸せだった家族を取られたら、私には何にもないの』

「何にもない、な。持っているからこそ見えぬものということか? まるで童話の青い鳥のようではないか。生まれながらの美も才もないかもしれん。それでも何もないということは、なかったろうに」

セイバーが少女の独り言に憐れみの言葉を投げる。それも少女に届きはしない。まだ湊の恨み言は続いていく。

『だから頑張った。同い年の子と遊ぶことなんかしなかった。身を守るために、好きな人たちと釣り合うために、努力した。家族もいないし、美貌もない、才能もない、そんな私は何にもないから頑張るしかなかった。頑張れば報われるって、ずっと思ってた』

湊の声がしぼんでいく。崩れ落ちてしまいそうなほど脆いそれに、白野の胸が痛む。

『でも、現実は違った』

何かが割れる。ガラスのような、金属のようなものが割れる音。白野には何故か、それが湊の分身が履いていたガラスの靴のように思えた。

『どれだけ頑張ったって私は普通だった。頑張れば頑張るほど、周りがうるさくなっていって、惨めになっていくだけだった。だから、特別じゃない私は暗闇に閉じ込められたって誰も助けに来なかったし、認められないし、普通の私は何にもなれなかった』

だんだん必死に耐えていた悲しみの声が笑いに変わっていく。


『そう、特別じゃないから、何にもなれなかった』


努力は無駄だったのだと自らを嘲る。

『誰かに誇れる生き方も、高潔な考え方もない。だから余計主人公にもヒロインにもなれなかった。現実は凡人に夢を見させてもくれやしない』

どんな恋でも現実に破れる話。湊は人魚姫のことをそう評していた。結局努力しようが、大切な何かを捨てても、現実は残酷なのだと。
自暴自棄に乾いた笑いが溢れていく。

『生きれば、頑張れば、私を特別に扱ってくれる人が、現れるって思ってたのに』

「特別か。そういう思考に陥ったのは周囲のせいかもしれぬが、それは貴様のせいでもあるだろうに」

長いまつ毛を揺らしてセイバーが目を閉じる。厳しい言い方ではない。呆れも混じっているが、幼子に言い聞かせるような優しさもある声音。
そんなセイバーの声に反応したかのように少女が喚く。

『もう嫌い、みんな嫌い、大嫌い! 何でも持ってる奴も、同じように平凡な奴も、――――可哀想ぶってる私も、普通って思いたくない私も、みっともない私も、みんな、みんな大嫌い!!』

嫌いと言うたびに湊が傷ついていくのが白野には分かった。どうでもいい他人からの心もとない一言で傷ついて、優しい人たちの一言で差異を感じて勝手に傷ついて、それに気付いてさらに自分で傷つける。痛みには慣れてもいつしか限界が来る。もう湊の心も傷が塞がらなくなって、こうして大嫌いな存在のはずの白野へ本音をぶちまけていたのだ。

『独りの私が泣いたって誰も助けてくれない。迷惑だ。好きな人に迷惑かけたくない。でも気付いてほしい。ああ、それすらもうっとうしくて迷惑だ』

声が小さくなっていく。流れる炎も縮んでいったように思う。

『もうやだ。誰もこんな私を好きになんかなってくれない。そんなの知ってるのに。分かってるのに。でも、望んでしまう。生きていれば、好きになってくれるのかなって――――』

悲哀と切なさに満ちた少女の声。祈りのようなそれは涙でいっぱいだった。
他人への拒絶と自分への拒絶。それは自分へ×をつけていたジナコと同じで、違っている。延々と連鎖していくそれは終わりがない。

無限とも錯覚する心の旅路。一瞬か、あるいは永劫の時間の後、湊の心の中が見えてきた――――。



気付いたときにはいつもの舞台。心の主とその守り手が佇んでいる。

「ここまで来たら逃げないわな。そら、お嬢の大嫌いな奴らが来たぜ」

緑衣のアーチャーが鋭い目で侵入者を見てから、マスターへ目配せする。

「……来たね。律儀に、堂々と」

声をかけられた少女の視線は凍えきっており、同時に怒りで燃えた敵意で溢れていて、白野に痛いほど突き刺さる。白野は歓迎されぬ態度をまっすぐ受け止める。

「君の夢を、覚ましに……いや、誤解を解きに来た」

「は? 誤解? 誤解なんかしてないですけど? 要は私のこと倒しに来たんでしょ」

湊は眉間に皺を刻み、不快感を露わにする。それもすぐに元に戻り、夜に妖しくらんらんと加虐の光を灯した。BBに似たそれに、白野の背筋が凍る。何にもない、平凡だという少女がするものではない。人ならぬ迫力と執念に押されてしまいそうになる。

「私も夢を叶えるためなら、人だって殺してやる。秘密を暴かれたらなおさら殺すしかないよね」

「夢、夢、夢。貴様は何度もそう口にしているが……その夢はなんだ? 予測がつかないことはないが」

ぎらつく湊に口を閉ざしていたセイバーが尋ねた。

少女が追い求める夢。他人も殺してまで叶えたい夢。BBに縋ってまで叶えようとした夢。「セカイ主義」なんてSGを持つ少女が、まさかレオのように聖杯を手に入れて次世代へ繋げようなんて思っているわけもない。予測だけはあれこれつくものの、はっきりとした答えには至らない。

鼻を鳴らして湊は笑った。

「やだよ。話すわけないでしょ。特にあんたみたいな尊大すぎる王様だか皇帝だか系のサーヴァントに」

白野もだが、セイバーのことも嫌っているらしい。自らを嫌いと言う湊にとって、自信に満ち溢れたセイバーは奇異のものに映るのかもしれない。どうしてそんなに顔のいい奴は自信があるんだか、と邪険に言っていたくらいなのだから。
黙ったままの白野とセイバーの心を読んだかのように、湊が悲痛な声で言う。

「どうしてそこまでって言われるかもしれないけど。でも、私にとっては大事な、大事な夢だよ」

決意に握りしめた拳。殺意が消えた淀みのないすっきりした瞳。初めて会ったときから揺れることのない意志。湊ははっきりと白野へ伝えた。

でも、BBは。それを叶えてくれるわけではない。その本音が白野の唇からこぼれた。

「……でも、BBは……」

「BBが叶えてくれるわけないって分かってる。人類の敵だろうが、一応恩人だし。仕事はしなくちゃ。貸し作りっぱなしとか嫌なんだよね」

ため息をつくその姿は年頃の少女だった。頑固な友人に付き合ってあげているのだとでも言うように肩をすくめる。
ここまできて今更説得はできないようだ。湊の意志は固い。それに湊からすれば必死になって隠してきた秘密を大嫌いな他人に晒した犯人だ。結局ここで敵対するのは変わらない。

しかし、いつもなら湊や白野たちを茶化すアーチャーが前以上に会話に入って来ない。じっと腕を組んだまま、マスターを見守っているだけだ。そんなアーチャーへセイバーが呼びかけた。

「アーチャー。貴様はどうなのだ。貴様もBBの企てを知っているのだろう?」

「オレ程度がどうこうできるレベルじゃねーし。一応雇われ兵なんでね、仕事はしますよ。それに」

また少女へと視線をやった。どこか優しささえ感じるそれに少女は気付かない。ただきょとんとした目でアーチャーを見つめ返して首を横にやった。

「ここでトンズラしたら、このお嬢さん一人だろ? 魔術師一人対マスターとサーヴァントなんてオチ見えてるでしょ。だからこっちにいるワケ」

「う、うっさいなあ。勝てる……とは思わないけど! それでも今更降伏するくらいなら、立ち向かって死んだ方がいいに決まってる」

「だ、そうなんでね」

頬を少し赤らめた少女をにやにや笑って白野たちを見やる。
湊をからかうアーチャーは楽しげで、鋭い目はいくぶんか柔らかくなっていた。湊も声は荒立っているものの、刺々しい気配は薄れている。白野が隣のセイバーを見ると、そんな二人を微笑ましそうに、楽しそうに笑っていた。それに気付いてアーチャーが顔をしかめた。

「……おい、何笑ってんだ。前から思ってたけどよ、その全部余は分かってるっていう顔、マジうぜえんだよ」

「ふ。そう怒るな。余はどちらにせよ、忠義深いと感心しておるのだ」

「あー、はいはい、もうめんどくせえからそういうことにしてやるよ」

「前置きはもういいでしょ」

アーチャーの言葉を皮切りに、湊が纏う空気が豹変する。冷えた暗闇の中、劫火の炎が舞うかのごとく。湊はすっと目を細め、こちらを睨みつける。もう先ほどの年頃の少女の顔つきはどこにもない。
セイバーは湊の痛烈な敵意に剣を構え、アーチャーもマスターに応じて弓を構える。二人の間に火花が散る。

「さあ、かかってきなよ、岸波白野(しゅじんこう)。ここでデットエンド迎えさせてあげる!」

憎悪に、嫉妬に、羨望に燃える少女が宣言した。



そして――――勝負が、ついた。

アーチャーの腹にセイバーの一閃が入る。霊核が破壊されるほどではないが、かなりの致命傷であることには間違いない。ふらつくアーチャーは歯を食いしばり、顔を歪ませて痛みに耐えている。マスターである湊も息も絶え絶えで、顔が青白いほどだ。

アーチャーの毒は今まで以上に厄介だったし、湊のコードキャストもかなりのものだったし、二人の息も合っていた。今までにない厳しい戦いだった。勝てたのは運もあったろう。ただ少女にとって屈辱だったのは、湊の憎しみが白野の思いに打ちのめされたことかもしれない。

「あはは。まあ、こんな展開、分かり切ってましたけど」

そう呟く少女の声は痛い。湊が涙を浮かべそうな笑いを浮かべる。肉体は消えないまでも傷だらけで喋ることすらつらいだろうアーチャーが自嘲するマスターを見た。

「……悪いな、お嬢。ああ言っておいて、こんなザマで」

「ううん。いいの。むしろアーチャーがこんなところまで一緒でいてくれなかったら、すぐ死んだし……ありがとう」

ふ、と。疲弊しきった顔に浮かべた湊の表情はひどくあたたかで、向けられていないはずの白野がどきりとしてしまうほどに。猛烈な怒りの顔、悲しみに耐える必死な顔、湊自身を馬鹿にする顔、無感情な顔、恥ずかしさでぐちゃぐちゃの顔……。負の感情しかなかった。精一杯の感謝と、別の感情が入り混じった、その表情はまるで――――。
そんな二人を見つめていると、湊と目が合った。顔つきが一気に元の険悪なものに変わる。

「ちょっと。何、その顔。めちゃくちゃムカつくんですけど。元からムカつくけど。こんだけ暴れたんならとっとと出てってくんない?」

「え、ええ……?」

あまりにも意外な言葉に、つい白野の口から戸惑いの声がこぼれた。初めての対応だ。今までの少女たちは負けを認めずに白野を心の中心へ無理矢理閉じ込めていこうとした。そう言われるなら、白野たちも出て行くのだが。白野は面食らいながらもセイバーとアイコンタクトを交わす。セイバーも少し呆然としているようだ。

湊は大きな諦めと意地のこもったため息を吐く。それから白野を強く睨みつけた。


「その前に――――ここまで人の心に土足で入り込んで来た大馬鹿クソ野郎、ただで返すわけないけど!」


周りが夜で覆われていく。本当の少女の心の中に監禁されていく感覚。それでも不思議と恐怖はない。もう何度も通った道だ。

「マスター、任せるぞ。今ならきっとそなたの言葉が少女に届くであろう」

セイバーの激励も遠くから聞こえた。

そうだ。今なら、きっと。少女の気持ちを知った今なら。少女の感情に気付いた今なら。湊が大嫌いな岸波白野の声だって、届くだろう。根拠はない。だが白野は何故だかそんな気がした。



揺らいだ意識が蘇る。毎度変わらぬ少女の心の中心。そんな夜の暗闇は白野の心を押し潰そうとしているかのようだ。
目の前にはけだるげな湊の姿があった。軽蔑と苛立ちと見下しの瞳で白野を見つめている。

「……起きた? もう何度もやってるから分かってるだろうけど、ここが私の中心部分。正直マジで出てってほしいんだけどね」

心の中に入るなと叫び、拒絶していた湊からすれば、心の中心に入らせることなどもっての外だったろう。何も言わずに見つめ返す白野へもう一度ため息をついた。

「まあボコボコにされて何にもできませんでしたーとか、嫌すぎるし。人類滅亡するまでここに閉じ込めてあげる」

湊が腕を組んで目を閉じる。やる気が感じられない、というよりかは、小さな子供のように拗ねている。それでも観念したわけではない。そこは湊も凛たちと同様、いやむしろ、それ以上に負けず嫌いのようだった。努力して認められなくても、やめずに努力を続けたのはそのせいだ。

白野は一呼吸置いて、湊と向き合った。

「……ひとまず、言いたいことはたくさんある」

「そりゃそうでしょうね。言いたいだけ言ったもんね、私」

わざとらしくけらけらと湊は笑う。それもすぐに真顔に戻る。能面のようなそれはひどく冷たい。

「でも反省も後悔もしません。だって私本当のこと言っただけだし。つーか人の秘密暴露する方がありえないでしょ」

痛いところを突かれ、白野が押し黙る。

そんなことを言われても。BBが迷宮の核に少女を組み込んだりなどしなければ、白野だって秘密を暴きまくることをしなかった。そうでなければこんな風に罵詈雑言をまくしたてられることもなかった。白野は少女に罵られて喜ぶ性癖の持ち主ではない。

「それはシステム上というか……自分も致し方なく……」

「はいはい、御託はいらないから。つーか喋りたくないし、黙ってて」

冷や汗をかいて言う白野へ、手をひらひら振って湊が眉間に皺を寄せる。

喋りたくないとは言うものの、湊はこちらが投げかければ口を出してしまうことは分かっている。人間が嫌いというほどでもないのだ。つまり、言葉で湊を打ち負かす――――いや、尖った心を和らげることができるのだ。もうこれ以上自分自身を傷つけさせないように。キアラが微笑んでいた通り、少女の夢を覚まさせぬように。

挑発的にも面倒くさそうにも疲れたようにも見える湊へ、白野は真っ向から言葉をぶつける。

「湊は本当にBBが世界を、人類を滅亡させてもいいのか? その中に、君の好きな人だっているのに。それは君のセカイ主義に反しているはずだ」

湊が口をつぐむ。強い光を放つ白野の目をそらした。視線をさまよわせ、切なげに呟く。

「……そう、だね。私も、そう思う。本当ならあの人たちを守るために、そっちにいるべきなんだ」

「なら」

「それでも、私は死んじゃった。私の夢は叶わない。だったら私は少しでも生きて、夢を叶えようとするよ。生きてるって分かってたなら、生きてるって思い込んでたなら、私もあんたら側にいたかもしれないけどね」

そう吐き捨てて、白野が何度も見てきた自嘲の笑みを見せた。

初めて会ったときにも、白野の存在自体が疎ましいと言わんばかりに睨まれた。それはまだ白野たちが記憶を取り戻す前のことだ。湊はあのときすでに自らがレオに敗北していたことを知っていた。生きていると思い込んでいたならという口ぶりから、BBから記憶を取られておらず、最初から覚えていたのかもしれない。
白野は息を吸う。虚無感と悲哀が混ざった瞳から目をそらさない。

「君の夢は、一体何?」

セイバーもずっと疑問にしていたことを湊へ尋ねる。白野が尋ねたところで答えてくれるとは到底思わない。けれど、白野はもう一度聞かねばならぬ気がした。
一瞬だけ。迷ったように湊の唇が開かれた。

「やだよ。さっきも言ったでしょ。絶対言わないから。笑わないでくれるような人にしか言わない」

だが、それもそっけなく拒否される。言葉の節々から切なさがひしひしと伝わってきた。そして湊がどれほどその夢を叶えたいかを改めて思い知る。

――――少女は顔の無い青年に夢を語ったのだろうか。きっと、語ったのだろう。理由はない。しかし、白野にはその確信があった。

「……ま、ずっと生きてても、叶わないかもしれないけど。私、顔よくないし」

「そんな風に顔面劣等感を抱えて苦しめて決めつけているのは、自分だ」

「うるさいっ!」

白野の言葉に湊はかっと目を見開き、炎を吐き出す。

「全部、全部本当のことだもん! 私の顔がよくないから、どんなに努力したってみんな認めてくれないんだ! ああもううるっさいなあ、ほんと黙っててよ! 私裁縫得意じゃないけど、その口縫い付けてやろうか!?」

湊の不満は、不平は、憎悪は、嫌悪は、留まることを知らない。見たものを呪い殺すような、燃やすような呪詛を白野はまっすぐ受け止める。

「君の好きな人たちはどうだった? 君を一度でも否定した?」

息を呑む音が聞こえた。途端に眼の奥の炎がしぼんでいく。ぎゅっと固く結ばれた後、弱々しく唇が動いた。

「…………そんなことは、なかった、けど」

間が開く。力が抜けていくように、どんどん湊が俯いていく。白野は畳みかけることをしない。じっと少女の次の本音を待つ。


「でも、だから、私は、私は……あんたみたいに、特別に、なれなかったんだよ」


掠れて、無理矢理出した声は悲しい。けれど、それは違う。

湊は生まれつき特別だから白野に自覚がないのだと言った。そもそも自分が特別だと思いながら生きている人間など少ない。レオだって凛だってラニだって、己を特別だと感じて生きているのではなかった。
それに、白野は。本当に、特別などではないのだ。サーヴァントがいなければ、皆がいなければ、こうして迷宮にやってくることさえできない。立ち向かうことさえできない。

「自分は特別じゃない。君が思っているような主人公でもない。だから、自分に主人公願望をぶつけるのは違う」

「嘘。嘘だよ」

それも湊の否定ですぐにかき消される。揺らめく瞳が白野を嘘つきと言わんばかりに責めたてる。

「だって、BBに閉じ込められたって諦めないで出てきたじゃない。ありえない。私なら、途中で諦めちゃう。そんな風に、輝けない」

――――それも違う。岸波白野という人物は。きっと、本当は、黒瀬湊以上に、何もないのだ。
そう返したところで湊が否定し続けるのは目に見えていた。言い返さない白野をよそに、湊の顔が悲しみと怒りでごちゃまぜになっていく。

「いつもいつも、自分に嘘ついて、大丈夫、まだ大丈夫って強がってただけの私とは違うよ。皆を助けられちゃう人とは、違うよ」

何をどう感じて、湊の「理想の主人公」に重ねたかは知らない。それでも否定ばかりされるのはいい加減白野も怒りが溜まっていくというものだ。
すう、と深く息を吸う。それから湊へ言ってやった。


「特別になりたい、誰だって思うことだ。だけどそれを何も言わず気付いてほしいなんて、ただの甘えだ!」


唐突に電撃が湊へ当たる。体は傷つかない。ただ服が破れるだけだ。

「ひゃ……!? 何、何で服破けるの? 意味わかんないんだけど!?」

湊は突然の出来事に顔を赤らめている。
ふふ。そうなのだ。これが心の中心に閉じ込めるということである。BBから話を聞いただけだったろうが、実際にはこんな風にやられていったとは教わらなかったらしい。今まで散々言われたい放題だった白野も悪どい顔になってしまう。

いや、それはいけない。白野はいつものノリになりそうなところを踏みとどまる。湊を責めてはいけない。
叱られた湊はバツが悪そうに白野の真剣な表情から逃げる。

「……分かってる、けど。でも、私は、そんな風に、言えない……」

「顔がよくないから? だけど美少女だとか美形とか、そんなの一握りしかいないんだ。コンプレックスがありながら整形しなかったのは、ありのままの自分を認めてほしかったからだ」

「うる、さいっ!」

指摘されてさらに湊の顔が赤くなる。図星だったようだ。
整形なんてしても意味がない。だってそれは努力した黒瀬湊を肯定したことにならないから。整形したのねと笑われるのがオチなことを少女も知っている。


「でもそれでいいんだ」


だから、白野は意地っ張りな少女を肯定する。
肯定された湊は虚を突かれた顔をした。白野の真摯な瞳に、怒りの言葉がひっこめられる。きっと湊が今まで通りであったなら、すぐにまたうるさいと叫ばれていた。湊が白野のことを受け入れているわけではないだろう。白野がサクラ迷宮で湊と接していったからでもない。それは白野だって分かる。


「だから、君は、君を認めるべきなんだ」


再び電撃が湊を襲う。さらに服だけが破けていく。二度目は衝撃が大きかったのか、湊は軽く悲鳴を上げて地へと膝をついた。

「い、いた……っ!? やだ、何これ……下着見えそう、」

「好きになることは難しいかもしれない。でも、ほんの少しでいいから自分を認めないと、他人の言葉が聞こえなくなってしまう」

「……でも、でも、私は、何にもないから、」

何にもない。何度少女はそれを言われて傷ついたろう。何度少女はそれを繰り返して自分を傷つけたろう。でも、白野たちへ何度も言っていたことが他にもある。


「本当に何もないわけない。だって――――君には、君が好きになったセカイがある」


容姿、才能、家柄。生まれたときから持っている特別なものはなかったかもしれない。それでも人に恵まれない者はたくさんいる。何もなかったなんて、それだけ大事にしていおいて言うセリフではない。
家族がなくなってしまって心寂しかった湊に優しくしてくれた人たち。夢を大切にしても、捨てきれなかった人たち。嫉妬しても、嫌いになりきれなかった人たち。
優しい人たちだったと口にしていた少女の声に、表情も、目に、一切の悪意はなかった。純粋無垢な愛がそこにはあった。

「……あ……」

三度目の電撃。痛みより、服が破けていくことより、白野の言葉が強く胸に落ちたのだろう。湊の目にようやく明るい光が宿る。

湊はいつだって湊のセカイのことを綺麗で優しいひとたちだと笑っていた。嫉妬してしまうほどできてしまうけれど、いつだって優しくしてくれたひとたち。そんな人たちがいて、どうして何もないと言えるのだろう。セイバーの言う通り、湊は周りのことばかり気にして、すぐ近くにあるものを見ていなかっただけだ。

「それに、主人公にはなれなくても」

白野はそこで名前の無い青年を思い浮かべる。青年が少女を見る目は優しく、また少女が青年を見る目も穏やかだった。二人で話しているときは剣呑な空気はどこにもなかった。青年が少女をどう思っているかは分からないし、少女が青年をどう思っているかも分からない。それでも、ただのサーヴァントとマスターとして認識しているのではないことは明白だった。
潤んだ瞳が救いを求めるかのように白野を見つめている。


「少なくとも、君は、誰かのヒロインになれたよ」


白野は唇をほころばせた。その途端に、湊の頬に涙がつたった。抑えきれない涙がこぼれていく。きらきら輝くそれを、白野は夜空に浮かぶ星のように美しいとさえ思う。不満も、不平も、憎悪も、嫌悪も、汚くどろどろとした感情すべてが涙で流れ落ちていく。
震えている薄桃の唇がゆっくりと動いた。

「…………そう、なのかな。なれてる、のかな。本当に。そうだったら、いいな……」

白野の言葉を信じ切ってはいない。けれど信じようとしている。ずっと頭ごなしに否定してきた湊が、ほんの少しだけ、変わったのだ。

周囲の闇が晴れていく。――――夜明けのときが来た。



次に白野が目を覚ましたときには、元いたサクラ迷宮へと戻っていた。少しだけ頭が朦朧とした白野をセイバーとキアラが出迎えてくれる。

「奏者よ、よくやったな」

太陽のような笑顔に白野の頬が緩む。
しかし、そこでここにいるべきはずの人物がいないことに気付いた。

「……む、湊とアーチャーめはどこだ。アーチャーは特に瀕死状態のはずだが」

「私もずっとこちらにおりましたが、ずっと現れませんでした。何故でしょうか……」

湊とアーチャーがいない。白野は周りを見渡してみるが、どこにもその姿はなかった。顔の無い王で一瞬にして逃げてしまったのだろうか。

『何にせよ、今までみたいにもう手出しできないでしょ。白野、お疲れ。一旦帰還してちょうだい』

『まだサクラ迷宮はあります。探索を続けるためにも、休息してください』

ラニの言葉で白野は緩んだ気を引き締める。そうだ。まだサクラ迷宮は続く。今はひとまず旧校舎に帰って眠ることにしよう。湊とアーチャーがどこに去ったのかは、それから考えればいい。
少女の彫像が消え、サクラ迷宮の奥が見える。一瞬見つめてから、白野たちは旧校舎へ戻った。



「アーチャー。ごめんね。痛いでしょ」

アーチャーは痛む傷をどうにかこらえて歩く。顔の無い王で即座に逃げたはいいものの、正直かなりきつい。湊の少し腫れた目を見て、アーチャーは普段通りの調子で返す。

「あーそりゃもういてえいてえ、いやほんとマジで。……お嬢は?」

「痛いけど大丈夫。……最高にムカつくことに、ちょっとすっきりしてるし」

「そっすか」

そりゃあよかった。アーチャーは続きそうになる言葉を飲み込む。
あの少年が少女へ何を言ったのか。アーチャーには何となく想像がつく。少女が嫌いな岸波白野(しゅじんこう)だったからこそ届いた言葉たちだろう。だから根掘り葉掘り聞くような無粋な真似はしない。

「帰ったら、応急処置するね」

「そりゃありがてえ」

BBはやって来ない。呆れたのだろうか。何でもいい。アーチャーはひとまず休みたかった。まだこの身が動くなら、調べたいことも調べ切るつもりでいた。

「アーチャー」

湊がもう一度呼びかける。声を出さないでも痛むこの身の力を振り絞ってそれに応じる。

「何すか。喋るのも結構つらいんですが」

「……ありがとう」

少女が浮かぶ笑みは、優しい日のにおいがする。妙に懐かしく、同時に痛みが和らぐようで。青年はなんだか照れくさくなってしまった。

「……だから、いいっつってんだろ」

ありがとうなんて、当然のことをしたまでなのだから。青年はサーヴァントで、少女はマスターで。だから、ありがとうなんて言われてむず痒くなってしまったりなどしてはいけないのだ。
それなのにどうにも顔が少し熱く感じられる。アーチャーは、それを痛みのせいにすることにした。