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BLコンテスト・グランプリ作品
「見えない臓器の名前は」
- ナノ -

Cinderella Syndrome

十分な休息を取ってから、白野はひとまず生徒会室に足を運ぶ。ブリーフィングはないとのことだったが、皆を労わるのも生徒会長の役目である。
戸を開ければ凛もラニも疲れた顔ひとつ見せずに手を動かしている。桜もいつも通り穏やかな表情を浮かべていた。

「おはよう、白野。フィジカルメンタル、共に問題なさそうね」

「お陰様で」

「いよいよ最後ね。三つ目のSGは何かしら。私の考えだと、アンタを嫌ってることに関係ありそうなんだけど」

「自分と?」

突然関係があると言われ、白野は眉をひそめる。前にも凛は湊が白野を嫌っている理由に心当たりがあると口にしていた。SGに関係があると言うのなら教えて欲しい。

「ミス遠坂。以前もそう言っていましたね。考えがまとまっているなら、伝えた方がよいのでは?」

「私もそう思います。早くSGが解放できるなら、それにこしたことはないですし……」

ラニと桜が白野の心を代弁する。白野は二人に便乗して頷いておく。
白野とラニ、桜に求められ、凛が言葉を選ぶように視線を泳がせた。

「んー、なんていうか……白野、アンタそのものを嫌ってるってわけじゃないと思うのよね、私」

「うん……?」

白野を嫌ってはいるが、嫌っているのは岸波白野そのものではない。なるほど、わからん。
アンデルセンも、湊が白野を嫌う理由について、大抵の人間なら一度は考えたことのあることかもしれんなと笑っていた。白野自身にそこまで言われるような大層なものはないはずだ。アンデルセン、凛と助言をもらったところで、ますます首をひねるだけだった。

「それでは答えになっていないように思いますが……貴女の考えを明確にしてください」

「喉に出かかってるんだけど、こう、上手くまとまらないのよ! そういうときあるでしょ!」

突っ込むラニに凛が逆ギレする。アンデルセンは答えを与えないだけだが、凛は上手く言葉にできないようだ。それなら仕方ない。

「会長。そろそろ迷宮に行かれてはどうでしょう。ミス遠坂の言う通りなのかどうか、確かめてみては?」

「そ、そうね。時間をあまり無駄にもしてられないわ。タイムイズマネー、よ、会長」

凛とラニが話題を変えて急かす。こういうとき呼吸を合わせると強すぎるので、やめてほしい。あと都合よく会長と言わないでほしい。そんなことを言っても意味がないのは分かっているので、大人しく白野は引き戸に手をかけた。

「白野さん」

可憐な声がそれを止める。白野は振り向りむいて、声の主を見た。

「黒瀬さん、刺激されて攻撃的になってますから。気を付けてくださいね」

桜が去り際に忠告をしてくれる。不安で揺れながらも優しい紫の瞳に、唇がほころぶ。微笑みを返事にして、白野は生徒会室を出た。



セイバーと共にサクラ迷宮の最下層へ潜っていく。階段を下りていくたび、穏やかな濃紺というよりも、すべてを包み込む漆黒の夜が白野たちを覆う。かろうじて白野にはセイバーが見えるものの、数メートル先は何もないかのように感じてしまう。何が飛び出してきてもおかしくない空気。見えない脅威、聞こえない恐怖。うっすらと寒さまで感じてくるほどだ。

「だが、光がないわけではないな。奏者は見える」

いつもと様子の違う迷宮に少し怖気づいてしまっていた白野へ、セイバーのはつらつとした声が勇気づけてくれる。薔薇の皇帝の笑顔は、暗闇さえも照らす輝きを持っていた。つられて白野も目を細めた。

「しかし、もう少し前が見えなかったら奏者と手を繋ぐチャンスだったというのに……」

柔らかな唇を尖らせ、セイバーがぼやいた。
前言撤回。この非常事態にそんなことを考えていたのか、このサーヴァントは。白野はじとり非難の目を向ける。気付いたセイバーが慌てて武器を構え直す。

「いや、こんな戯言を言っている場合ではないな。余は分かっておるぞ」

分かってないな。そう思いつつ、白野もそれ以上追求するのを止める。しかし、同時に白野は部屋に帰ったらセイバーの手でも握ってあげようかと考えてしまった。

少しセイバーと離れると闇に吸い込まれてしまいそうで、道も分かりづらい。だが何もかも分からないというほどではないし、エネミーの気配は感じられない。まずは奥に進んでみることにした。

試行錯誤で迷宮の中を歩く。途中で道から落ちそうになったりもしたが、エネミーやアーチャーの罠もないだけ明らかにマシだ。
しかし、それでも音もないのが白野の不安を誘う。セイバーがいなければ、黒の圧迫感で押し潰されそうだ。

黒瀬湊は魔術師というより陰陽師だ。ふと、ラニとアンデルセンの言葉が白野の頭をよぎる。サクラ迷宮は今まで主である少女の嗜好や経験、本音がちりばめられていた。もしかしたら、毎度こんな悪夢に遭遇していたのかもしれない。そのとき、今の白野のように湊にはサーヴァントもいなかったはずだ。たった一人、体も意識が溶け込んでしまいそうな夜に居ること。それがどれだけ心細く寂しく恐ろしいものであることか。考えるだけで胸が苦しい。
白野は頭を振り、何もない前を見据えた。



しばらくして、暗闇が晴れていく。同時にラニからの通信があった。

『大きな生体反応があります。おそらく黒瀬湊です。気を付けてください』

唾を飲み込む。今度は何を仕掛けてくるのか。
抜けた先は、今までの暗闇が嘘のように明るく感じられる広い空間だった。その中で湊が一人、椅子に腰を落とし、本を手にして読んでいる。侵入者たちに視線を投げる素振りもない。

「湊?」

白野が呼びかけても反応はない。ひたすら曇った瞳で本を眺めている。貧乏ゆすりをしながら、座に体育座りしながら。目は本を向きながらも、心をどこかに置いてきてしまっていた。前の階層で、剥き出しの憤怒と悪意を白野に吐き出した少女と同一人物には到底思えない。

『何読んでるんでしょう……』

『一昔前の少女漫画のようですね』

少女漫画。今まで少女たちの心の中を見てきたが、一度も出ることはなかった代物だ。湊はページをめくることもせず、ただ少女漫画を見つめている。
湊から口火を切ることはない。白野から物申すべきか、少女の出方を見るべきか、考えを逡巡しているとき、


「属性持ちってずるいよね」


突如、湊がこぼした。ようやく白野とセイバーに顔を向けた。どこにも視点を合わせないガラス玉のままで。
属性持ち。何の話だ。白野たちが問いかける前に、淡々と湊が答えをくれる。

「たとえば、あんたは世界救っちゃう自称平凡系主人公」

「え?」

何も映さない目をしながら湊は言い放つ。白野の次はセイバーに目を滑らす。

「そこのセイバーはワンコ系暴君」

「ワンコ系とはなんだ、ワンコ系とは! せめて獅子に例えるが良い!」

「遠坂凛は猫かぶりツンデレ優等生。ラニ=[はエキゾチッククール系。BBはおしゃまで実は真面目な後輩。レオ・B・ハーウェイはムカつく天才肌美少年。アーチャーはチャラ優男系苦労人、とか」

『だからツンデレとかやめてくれる!? 何なの!?』

セイバーと凛の苦情にも意に介さないで続けていく。湊の言葉は分かりやすくそれぞれの特徴を捉えていた。そして納得する。属性持ち、なるほど。わかる。とてもわかる。敵ながらうんうんと素直に白野は頷いてしまう。


しかし。白野自身が自称平凡であることに納得がいかない。本当にそうだから。諦めの悪さだけは右に出る者はいないとレオや凛、BBにさえも言われているが、本当にそれだけだ。前に進むことだけが、岸波白野にできること。黒瀬湊のように、まともに己の身を守る術などありはしない。
虚ろな瞳の少女が誰に言いきかせるわけでもなく言葉を紡ぐ。

「あるアニメでね、すごく共感できる台詞があったんだよね。――――世の中には特別な人々がいます。突出した個性や魅力を持って生まれ、常に注目されている。そう、例えばあなたのように」

何の感情も込めずに語りかける。あなた、の部分で、ちらりと湊が白野を見た。
自分が特別。そんな風に言われたって白野にはどうしようもない。白野は特別などではないのだから。
どう行動すればいいか判断がつかない白野へ、湊がのっぺりとしていた顔に不気味なほどうすら寒い笑みを浮かべた。

「ほら、あなたにはそんな自覚はないでしょう? それはあなたが生まれつき特別だからですよ。って台詞」

口元に嘲りをつくって湊は目を細める。白野は喉から何も出てこない。

「同じやつでこれも好きなんだ。――――お前もその女も生徒会の連中も、皆私を見下しているんだ!」

平淡な声が一気に火花が散った激しいものに変わる。ぴりぴりと空気を揺らすほどの勢い。
椅子から乱暴に立ち上がり、憎悪に染まった声音で叫ぶ。立ち上がった瞬間、手にしていたはずの少女漫画は遠くへ投げられた。それを気にも留めず、湊は拳を握って声が掠れるほど怒鳴り散らす。


「何の苦労もなく、持って生まれた力を誇ってな! だからお前たちは平然と……人を踏みつけにできるんだあっ!!」


ぎらぎら燃えた瞳に荒れた声。先ほどまで抜け殻のようだった少女とは違う。嫌いだと吐き捨てたときと同じだ。人の台詞を奪ってはいるものの、きっと、これは黒瀬湊の本音だった。
無理矢理喉から声を出したのか、咳をして息を整える。それからすっと冷静に、自嘲するように、湊は小さく呟いた。

「ま、何が言いたいかっていうと、愛想も悪くて、顔も特別いいわけじゃなくて、天才でもない私は、所詮モブってこと」

呟いた後、湊の分身はそのまま姿を消してしまった。
少女の言葉に面食らう白野へ凛から通信が入る。

『私の予測、アタリだわ。白野、今回は分かりやすいんじゃない? 今までのSGも踏まえてみたら、余計』

「なるほど。あの童話作家めも口にしていたな。黒瀬湊は夢見る少女と」

今まで黒瀬湊のSGをすぐに予想できなかった。どうして岸波白野を忌み嫌うのかも。だが、凛とアンデルセンの言いたいことがここで分かってきた。否定しかできないけれど、それでも少女にとって、自分はそんな存在に――――憧れたものに、見えたのかもしれない。



湊がいた広い空間を抜ける。再び暗闇が白野とセイバーを襲う。それもさすがに多少慣れてきた。恐怖もセイバーがいるおかげでほぼない。
少し歩くと、硬い音が耳を刺激する。何かが床とこすれる音。

「あちらに向かうとしよう」

音がする方へ向かう。だんだん大きくなっていくそれの行き止まりに、目的の人物がいた。
今度はくるくる踊っている。特に決まったステップはない。軽快なステップというわけでもなかった。適当に回っているだけのようだ。それだけかと見落としそうになったが、足元が違っていた。ガラスの靴を履いている。そのせいか、湊は時折痛みに顔を歪めていた。


「シンデレラってずるいよね」


再び湊が言い放つ。羽のように両手を伸ばし、くるくる回り続ける。

「いじめられてたから可哀想って錯覚するけど、全然そんなことないの。生まれたときから金持ちの家に生まれて、舞踏会に行く資格を持ってて、運よく魔女に助けられて、綺麗だからドレス着たくらいで王子に見初められて、何故か綺麗に踊れて、何故か同じ足のサイズの女が一人もいなくて、グリム童話だと継母や姉は死んじゃうの」

ため息混じりの独り言。やはり少女は白野とセイバーに目を合わせることはない。

「他の童話だってそう。最初から勝ち組確定なの」

そこで足を止め、踊るのも回るのもやめる。美しく輝く透明なガラスの靴を、そのまま冷えた目で見つめた。

「人魚姫くらいかな、そういう勝確お姫様系で好きなの。人魚姫そんなことないし」

ガラスの靴に視線を注ぎながら、ぽつぽつ呟く。

人魚姫。アンデルセンの童話だ。恋した人魚姫が、美しい声を捨ててまで王子へ会いに行ったものの、魔女に先を越され、姉たちに王子を刺せば元に戻れると言われても、恋した相手を刺すことなどできず、そのまま泡になった。そんな悲劇。作者は面白く書いたと笑っていたが。
幸せの象徴を見続ける少女の瞳は、少し前の激昂した態度が嘘のように静かだ。

「だってどれだけ美人でも金持ちでも、王子様を好きでも、結局悪い魔女には負けて泡になってしまいましたとさ、だもん。現実の前にはどんな恋も儚く破れるって、そういう話」

夜の瞳が憂いを帯びた。湊の声には感情の起伏はないのに、その言葉に白野は妙に胸が締め付けられる。
そうして少女の姿が薄れて見えなくなっていく。残ったガラスの靴が音を立てて、虚しくその場で転がった。

『……』

誰もが黙っている中、通信でも聞こえたかすかな桜の吐息。AIである桜にも悲劇の恋物語に思うところがあるのかもしれない。

『サクラ? どうしたのですか?』

『あ、いえ! 何でもありません』

『そう? 体調悪くなったらすぐ言いなさいよね』

『はい!』

通信であっても桜の笑顔が瞼の裏に浮かぶ。桜のことも気にかかるが、サクラ迷宮を探索することを続けなければならない。白野は再び歩き出した。



一本道を抜け、暗闇に染まったサクラ迷宮を歩く。先ほどよりもすぐに終着点が見えた。
同じ広さの空間。まっすぐそびえ立つ最後のシールド。おそらくその向こうに黒瀬湊のレリーフがあり、本体が眠っている。

迷宮の主は床へ直に座り、テレビゲームをしていた。今度はアーチャーも一緒だ。コントローラーを手にゲームに奮闘する湊とは裏腹に、少し呆れた目をしている。やって来た白野たちへは視線を寄越しただけだった。
湊は指を動かしてテレビ画面を睨みつける。今度こそ話しかけるべきか。白野が迷っていると、湊が多少の熱を持ってアーチャーへ投げかける。

「最近の漫画も小説もゲームも、異世界にぽんぽん行きすぎじゃない? そんで適応しすぎじゃない? 普通とは、モテないとは一体なんだったのか。……あっ」

こぼれた声と同時に画面が真っ暗になり、哀愁こもった音楽がテレビから流れる。悔しそうに口を結ぶ湊へ、アーチャーが言う。

「……お嬢、ゲームヘタっすね」

「うっさいなあ、もう! 好きイコール上手いじゃないから」

「で? つまり、何が言いたいんです?」

アーチャーの問いに、握っていたコントローラーを再び手にし、湊は大きなため息をついた。どこか芝居がかっていてわざとらしさすら感じる。

「天下の少年雑誌も結局は友情努力勝利! じゃなくて、才能血筋勝利! なんだよね。俺TSUEEEってやってて楽しいもんね。まあ分かるけど」

「はあ」

文句をつらつら並べる湊にアーチャーはどうでもよさそうな相槌を打つ。
俺TSUEEE。はてさて、似たような単語をどこかで聞いたような気がする。白野が思い出そうとしていると、凛の必死な声が聞こえた。

『ら、ラニ、あれはあんたのことじゃないから!』

『そうです! あくまで漫画雑誌のことですから! だから何か危ないものを作ろうとするのはやめてくださいっ!!』

そうだ。ラニのSG、最強厨。名付けたのは白野ではなくジナコだが、どことなく俺TSUEEEに似たものを感じる。ラニは未だに最強厨に対して根深い怨みを持っているようだ。

『私は至って冷静です。なので離してください、ミス遠坂、サクラ。私は黒瀬湊をどうにかしなければなりません』

オートロック式の扉の見た目もパクられているし、最強厨を彷彿とさせる単語は口にするし、ラニは湊に怒りを抱き始めているらしい。
危険な会話ではあるが、どこか楽しげでもある生徒会室の通信をよそに、湊はアーチャーへ、いや、一人で勝手に喋り続ける。

「まあ世界救っても、ファンタジーな世界から突然東京に落ちて自衛隊に殺されるとかいう悲惨なゲームもあるけどさ。トゥルーじゃないとはいえ」

「何だよそりゃ……あ、また死んだ」

「いちいち言わなくていいから!」

湊の頬が風船のように膨らむ。頬杖をついて湊のお粗末なプレイを見るアーチャーに目を尖らせた。もう一度コンティニューボタンを押して、架空の世界へ冒険に出かける。

「このゲームだって世界が危ないから旅に出ようとか頭おかしいわ。勇者だの何だのってメンタルが意味分かんないよね」

言葉では馬鹿にしているはずなのに、声色には羨望があった。ゲーム画面を映しているはずの湊の目はどこか別の世界を見ている。青年は少女の独り言に何も答えない。少女の方を見向きもせず、再び暗くなった画面を見つめていた。

「でも、そんな風に強ければ。私の夢は、叶ったのかな……」

そう呟いた人形のような少女の顔には、切なさと淋しさでいっぱいの声は不釣り合いだった。
私の夢はもう叶わない。冷えた瞳には諦めの影が落ちていく。

湊も聖杯戦争に参加したからには何かしらの願いがある。だが、レオに負けたと言った。聖杯戦争での敗北は死を意味する。もう少女の夢が叶うことはない。BBの配下であってもそれは変わらないだろう。知っていてなお、少女は長く生き続けようとする。それがたとえ刹那の生で、うたかたの幻であろうとも。

一体。そこまで生にしがみつく黒瀬湊の夢は、何なのだろう。

白野の左手が疼く。今までよりも痛みは訴えるように強く、苦しい。
一つ目、二つ目は何も分からなかったが、今回ははっきりと少女の秘密が何であるかが理解できる。

湊の胸が輝き出す。それに気付いても、湊はただ床に座ったままだ。近づいてく白野を見る湊の瞳には、以前のように羞恥と怯えの色もない。見ているこちらが熱が引いていくほどにひたすら空虚な目。

「――――っ!」

声にならない声を上げて、湊が崩れ込む。


黒瀬湊の最後のSG。「主人公願望」。ヒロインではない。少女漫画や童話の話を一人語っていただけなら、ヒロイン願望だったかもしれない。だが、白野に対する並々ならぬ憎しみ。それはきっと、湊が白野を「主人公」だと感じたから。嫌いだけどそうなりたかった。その羨望と憧憬が嫌悪になった。
初めの階層でNPCを助けたときも言った。私にはそんなことはできない。あの言葉も湊の思い描く「主人公」像に、白野が重なったからだろう。アンデルセンが大抵の人間は一度は考えたことはあるかもしれんと笑っていたことも、凛が白野そのものを嫌っているわけではないと思ったことも。今なら納得がいく。

主役になりたい。特別になりたい。大半の人間が思うことだ。だが、それは誰しもなれることではない。それを少女もきっと知っている。だから特別な人々を憧れ、羨み、妬むのだ。

アーチャーが駆け寄ってマスターの肩に手を添える。アーチャーの手を借りて湊が立ち上がった。

「あーあ。もう終わっちゃった。つーかこれ、公開処刑すぎるわ」

そう自らをせせら笑って白野を直視した。

「こうなったら生かしちゃおけないよね。秘密を知られたとしても、最後殺しちゃえば真実は闇の中」

湊の鋭い殺気と敵意に、つい後ずさりしてしまいそうになる。先ほどの空虚さは微塵もない。挑戦的な笑みは別人のようだ。

「かかってきなよ、主人公。世界救うためにさ。私(モブ)の矜持、見せてあげる。アーチャーの毒で苦しんでもらった後、私の炎で塵も残さず死ね」

苛烈な殺意に満ちた目が白野を追い詰める。堂々と宣言した後、少女の分身は消えていった。

「だってよ。お嬢の地雷源踏み抜きまくってこれだ。前みたいに簡単にはいかねえと思いな」

取り残されたアーチャーが不敵に笑う。アーチャーの言う通りだ。前のようにマスターとサーヴァントで険悪な空気もなく、マスターが怒り狂っているわけでもない。簡単にいくとは白野も思ってはいない。
セイバーはどこか楽しげに見えるアーチャーへ言った。

「貴様、なかなかあの少女に心を許しているようではないか。絆されたか?」

「あ? 何言ってんだよ、オレとお嬢はあくまで月の裏側だけのマスターとサーヴァントだ。そこんとこ忘れてもらっちゃあ困る」

あくまでここだけの関係。そう言い切ったアーチャーに嘘はない。この緑の弓兵も、ダン・ブラックモアのことを少なからず思っている。文句を言いながらもマスターのために戦っていたのだから。だが、今でもそれは変わらないように白野には感じた。

「お嬢殺る気満々みてえだし、オレも手ぇ抜かずに仕込みの準備でもしますかねえ」

それからアーチャーも姿をくらました。

『……最後は、今までに比べたら冷静でしたね。敵意はむしろ前よりひどくなってますけど……』

『白野、きちんと準備しておいた方がいいわよ。相手は四回戦まで進んでるんだから』

『こちらも殺生院キアラを呼んでおきます。準備が出来次第、声をかけてください』

生徒会の通信に頷く。

「……一旦戻って、対策を練ろう」

「あのアーチャーめの毒は厄介だからな。購買に行くのを忘れるでないぞ」

「ああ」

散々アーチャーの毒には苦しめられてきた。手を抜かず準備をすると口にしていたし、今回もきっと毒を使用してくる。
購買での買い物リストに毒消しを加えておく。いくらになるのか考え出す白野へ、セイバーが尋ねた。

「奏者よ。もう平気か?」

これまで白野は黒瀬湊の秘密を奪っていくことに少し躊躇いがあった。SGを抜かれていくたび、湊の顔は怯えと恥ずかしさでいっぱいだった。ずっと必死に周りへ隠していた感情が暴かれていったのだ。それを嫌いで、羨んでいた特別な人間たちに、白野に知られた。本来なら穴に入りたくてたまらないはずだ。
SGを晒された湊の表情。思い出すだけで痛ましい気持ちになる。セイバーが平気かと投げかけるのも当然だ。

けれど、

「……大丈夫。立ち向かえる。それに」

「うん?」

「言われっぱなしは性に合わない」

セイバーの問いかけに白野は自信に満ち溢れた顔で答える。
あれだけ嫌いだ妬ましいだのとと言われてばかりで何とも思わないわけがない。きつく言い返してやらねば。
そんな力強い白野の返事に、セイバーも破顔した。

「その通りだ!」



ついに最後の花びらをむしり取られてしまった少女は、これまでのようにふて寝せず、驚くほど落ち着き払った顔つきで何やら思案していた。

「お嬢」

「……何?」

アーチャーが呼びかけると、初めて会ったときのような不愛想な表情でサーヴァントを視認した。アーチャーを映す瞳には、揺らぐことのない殺意を秘めている。年頃の少女にはあまりにも不釣り合いで、どこか無理をしているようにも見えた。

「オレの真名、教えてあげますよ。どうせ微妙に分かってないっしょ?」

「……いいの?」

少女が素に戻る。見開かれた目は人間を殺すことを決意した者のものではなく、本当にどこにでもいそうな十代の少女のものだった。

それなりの時間をこの少女と過ごしてきたものの、アーチャーは未だに真名を教えていなかった。最初はどうせそこまで付き合わないだろうとタカをくくっていたし、聞かれなかったからだ。実は組まされてすぐにアーチャーは少女のことを調べたが、顔の無い王という宝具を知っても、少女はアーチャーのことを調べていないだろう。アーチャーの夢を見ても、「ごめんね」と謝って、私は見られたくないと言っていたから。

セイバーのにやにやとした笑いが頭に浮かぶ。余は分かっているぞと言わんばかりの、腹が立つ表情。あの少女に絆されたか、と。
ああそうだとも。アーチャーは心の中であのとき返さなかった問いに答えた。
この、すぐにキレて、いじけて、他人を嫌って、憎んで、妬んで、自己嫌悪して、変に真面目で、強がりで。決して特別美しいわけではないけれど、青年をあたたかな気持ちにさせる笑顔をする、そんなありふれた少女の味方をしてやりたくなったのだ。

「いいの? じゃねーだろ。負けたくないんだろ、あいつらに。ならオレの宝具なくてどうすんだよ」

「顔の無い王じゃないの?」

「アレだけなわけねえでしょ! ……で、知りたいのか、知りたくないのか、どっちなんだ?」

こんなときに天然をかまされてしまった。少々苛立ちを込めて聞くと、少女は唇に一瞬躊躇いをつくった。

「……知りたい。貴方のこと、知りたい」

少女は絞り出すように言った。それを確認して、アーチャーは自らの真名を、月の裏側に来て初めて口にした。

「オレの真名はロビンフッド。シャーウッドの森で死んだ、顔の無い英霊だ」

「ロビン、フッド」

少女がアーチャーの名を繰り返す。その響きを忘れないためのように。

「つっても、オレは伝説のロビンフッドそのものじゃない。ただ数年間それらしく振舞った一般人さ」

だからここにいるアーチャーはどこの誰でもない。あの伝説のロビンフットを、村人の望む理想の英雄を演じ続けた青年だ。
アーチャーの正体を明かされ、少女は違うのかと落胆するでもなく、ふうんと平然とした相槌を打つでもなく、どことなく悲しげな目をした。

「……じゃあ、貴方の本当の名前は?」

「…………さあ、どうだったかね」

名前なんていらないものだ。自分にはもったいない。隠れた生き方をして、逃げ続けた自分に、個人として認めてもらえるほどの価値などないのだから。
はぐらかす青年に少女はひどく切ない表情をした。同情ではないことを青年は分かっている。自分のために、そんな顔をしなくていい。

しばし目を伏せて、少女はまっすぐに青年を見つめて呼んだ。


「――――ねえ、名前の無いひと」


それは青年が聞いたことのない優しい声音だった。じんわり胸に光が灯りそうなほど優しいもの。

「……何スか、それ」

「だってロビンフッドだとアーチャー自身を呼んでることにならないでしょ。だから、名前の無いひと。いいでしょ」

「……あ、そ。まあ、お嬢の好きに呼んでくれ」

さっきまで虚しさが体現したような顔だったくせに、急に無邪気で無垢な笑みを形作るものだから、青年は承諾するしかなかった。

それから会話が止まる。青年は少女が何かを言うのを待った。少し考え込んだ後、少女は潤んだ目を青年へ向けた。

「私、夢があるの。笑わないで聞いてくれる?」

「……もちろん」

透明な雫が夜空のごとき瞳で輝く。あふれようとするのを必死で抑えている。青年は頷いた。そう口にしないと夜空から雨が振りそうだった。
少女はそれに笑ってから、震えた唇で夢を語る。聖杯戦争に参加してまで、人類の敵に味方してまで叶えようとした夢を。


「――――私ね、幸せになりたいんだ。好きな人と結婚して、家族になって、子供をつくって……ずっと、ずっと、それだけを夢見てきたの」


幸せになりたい。好きな人と結婚したい。家族をつくりたい。
聖杯なんて願望機にすら縋りついて、生にしがみついて、どうやっても特別になれないのを知っても足掻いてきた少女の夢は、あまりにも平凡な夢だった。
少女には家族がいない。家族がいないから家族をつくろうとしているのかもしれない。家族の分まで生きようとしているのかもしれない。何にしろ合点がいく。少女の生への異常さは、なんてことない願望から来ていた。

「……変かな?」

「そんなわけねえだろ」

聖杯戦争に参加するほど少女が渇望していた夢は他の人物に比べて小さなものかもしれない。幸せになりたいまではあるだろうが、家族をつくりたいなんてそんな夢を胸に参加した魔術師など、きっと百二十八人中一人だけだ。
けれど似た夢を持った人物をアーチャーは知っている。だからなおのこと、悲痛な顔でこちらを見つめる少女を肯定した。

「人間として当たり前の夢だ。そんな夢、オレには笑えねえし、誰にだって笑わせない」

幸せになりたい、家族をつくりたい。ああ、人間なら抱いていい夢だ。
好きな人と結婚したい。もちろん、少女なら憧れていい夢だ。
そんな夢を、顔の無い青年が笑えるわけもない。眩しいくらいだ。そんな当たり前の夢を誰が笑えるだろう。笑わせてやるものか。

「……ありがとう」

即答し、力強く言う青年に、少女はようやく感謝の気持ちを口にした。ごめんね。そればかりを繰り返していた少女の口から出た言葉はひどくあたたかい。

「もう叶わないけど。絶対にありえないけど。でも、もう少しだけ。私の夢に、付き合ってくれる?」

少女は死んでしまった。ずっと嫌いで羨んできた特別な人物に負けてしまった。だから叶うことは決してない。
だけど夢見ることだけはできるからと。悲しく、同時に明るくも見える少女に、青年は軽い調子で言った。

「ここまで来たら付き合ってやるしかねえでしょ。ここでオレがいなくなったらお嬢は泣いちまうだろうし? あ、もう泣いてるか」

「な、泣かないってば! 泣いてもないし!」

アーチャーにそう言われた少女は頬を真っ赤に染めて語気を荒立てる。むっすりとアーチャーを一瞬睨んだ後、

「ううん。やっぱり、アーチャーがいなくなったら、泣いちゃうかも」

小声で本音を漏らしてから、しおらしく俯いた。美しい雫がきらめく。

「……ありがとう。名前の無いひと」

そして、少女が顔を上げてもう一度微笑んだ。夜空に浮かぶ月の微笑みを向けられた青年は、それを少し見つめてから視線を逸らす。

「別に。今のオレは、お嬢のサーヴァントですからね」

そう。今は、月の裏側にいる今だけは。ありふれた可哀想な過去を持つ、どこにでもいる少女のサーヴァントだから。
誰も少女の味方をしないなら。顔の無い自分だけは味方をしてやろう。そう思ったのだ。