六時間の睡眠後、白野は少し気怠い体を起こし、生徒会室に向かった。
いつも通り生徒会のメンバーが休むことなく働いている。しっかりしている凛とラニのこと、休息もとっているだろうが、疲れもたまっているはずだ。しかしそんな素振りはまったく見えない。
「新しい階層に入れるだろうし、さっさと行って来て――――と、言いたいとこだけど。白野、まずもう少し湊と話してみてくれる?」
キーボードを動かす手を止めぬまま凛が言う。彼女を知るため、SGを手に入れるため必要な行為だ。白野は頷いた。
「まあ、彼女、貴方のこと嫌ってるみたいだから、難しいかもしれないけどね」
ぐさり。軽いため息とともに凛のポニーテールが揺れる。
黒瀬湊に嫌われている。以前の迷宮探索休憩中にセイバーと話したことだ。誰にでも好かれたいわけではないが、あからさまな態度をされるのは心地よくはない。だが、セイバーに諭されてからは深く考えないようにすることにした。そう決めた矢先にこれである。白野の顔が引きつってしまう。
「ミス・黒瀬のような方でしたら、内心嫌っていつつも顔には出てるといったものかと思われますが、隠す気は毛頭ないようです」
ぐさり。ラニの冷淡な口調で事実を述べられる。
「み、皆さん。あまりそういうのは……」
ぐさり。桜の優しい声音が逆にその通りだと裏付けしている。
本当のことだとはいえ、第三者に「彼女は自分を嫌っている」と指摘されれば傷つく。胸に鈍い痛みが走った。
「でも白野だって分かってるでしょ?」
「さすがに……」
嫌悪と憎悪をいっぱいにした眼差し。植物の棘というより包丁のような険しい態度。あれで嫌われていないと思う人物はあまりにも頭がお花畑である。
セイバーが怪訝な顔色で心底不可解そうに言った。
「前にも奏者とそんな話をしたが……何故だ? 何故あやつはそこまで奏者を嫌うのだ?」
「うーん、予測はいくつかつくけど。確定じゃないし、やめとくわ」
むしろ凛には予測がつくのか。気付かない自分が間抜けに思え、白野はなおさら不可解になった。
嫌われている理由を考えようとする白野を、ラニが涼やかな声で引き戻す。
「では白野さん。迷宮探索、よろしくお願いいたします。こちらも最善のバックアップを尽します」
「気を付けてくださいね、白野さん」
「ありがとう、桜」
桜のあたたかな笑みに心が和らぐ。迷宮探索は桜に大きな負担がかかる。深く潜るたびにそれは増えていくはずだ。それなのに笑顔でいる彼女に、白野は胸があたたかくなった。
あまり長引くのは桜のためもならない。白野は生徒会室のドアを開いた。
新しい階層に赴いたが、迷宮の分身もそのサーヴァントも現れない。白野とセイバーはそのまま迷宮を進んでいく。変わった箇所は見受けられなかったが、ある場所に辿り着くと、どこかで見かけた強固な扉が道を塞いでいた。
「む? ラニの階層にもあった扉だな」
『……私の全自動脱衣式オープンロックの扉に大変酷似しているのですが……。未だに特許申請中とはいえ、ミス・黒瀬に抗議しなければなりません』
まさかこの扉は三つあって、最終的に下着を脱がなければならないのか。そんな性癖の少女が二人もいてはたまらない。あまりにも同じなので、白野は身構えてしまう。
『さすがに同じ条件じゃないと思うけど、何かしら条件をクリアしなきゃいけないってことよね、これ』
戸惑いながらも冷静さを欠かない凛の通信に、困惑していた白野が落ち着く。
そうだ。同じSGなどあるわけがない。白野は深呼吸する。
とはいえ、湊が白野たちに接触してこない以上、扉を開けるための鍵(じょうけん)が分からない。試しにドアを開こうとしてみるが、がしゃがしゃ金属音がするだけだった。セイバーでもそれは変わらない。
このままでは進展しない。湊が現れないだろうか。白野たちがその場で扉を開ける条件頭で捻っていると、
「はいはいお二人さん、今回もめげずにやって来てくれてありがとうよ。来ないのが一番なんだが」
「アーチャー!」
音もなくアーチャーがやって来た。整った顔には少し疲れが見えるように感じる。
しかしアーチャーのマスターはいない。そういえば、アーチャーは以前も湊と一緒にはいなかった。
「アーチャー。貴様が守るべき少女はどこだ? 前の階層でも共にいなかったが……もしや嫌われているのか?」
「ちげえっつーの! むしろ頼られまくりでオレがヒイヒイ言ってるとこだっつーの」
セイバーの憐れむような視線に、アーチャーは全力で否定する。勘弁してほしいと言いたげな口調だが、顔には反対にどこか満更でもなさそうな表情があった。
「じゃあ湊は……」
「お察しの通り、この扉の奥だぜ。扉を開ける方法は本人から教わってくれ」
アーチャーの言葉を皮切りに、湊が白野たちへ話しかける。
『……また来たの? ほんと、デリカシーないっていうか、ふてぶてしいっていうか、顔の皮厚いっていうか、なんていうか……すごいよね』
湊の分身は見えない。ただ声のみが扉の向こう側から、または遥か彼方から聞こえてくる。
『この扉を開ける方法? そんなの教えるわけないでしょ』
湊が鼻で笑う。
『私の心の扉を開けようとするヤツなんて、死んじゃえばいい』
湊が感情のすべてを込めたような激しい怒りを侵入者にぶつけてくる。この場にいないはずの湊の顔が目に浮かび上がる。
白野は様々な少女から殺意を今までずっと向けられてきた。それでも燃え盛る炎のごとき激情をまっすぐに向けられたことはなかった。秘密を暴かれることは誰でも嫌に決まっている。それを承知で行っているとはいえ、空気を震わせるほどの怒りに白野も怯んでしまう。
もう話したくないのか、それ以上湊からは何もない。
湊が言った通り、目の前に立ち塞がる頑丈な扉は湊の心の扉そのもののようだ。そう捉えると目の前に立ちはだかる扉が余計に冷たく重く感じられた。何も言いたくない。入らないでほしい。見ないでほしい。聞かないでほしい。そう拒絶しているようで。
「はー、お嬢こわ。つーことで、とりあえずこいつと遊んでくれや。めんどくせえことにオレもこん中には入れないんでね」
アーチャーがため息混じりに言うと、隣にエネミーが出現する。今まで見たことのあるエネミーだが、色合いが違う。
ただ、エネミーがわき出たことよりも白野とセイバーはアーチャーの言葉の方が気にかかった。
「何?」
「んじゃあな」
「待て!」
白野が制止したところで当然アーチャーが待ってくれるわけがない。顔の無い王で再び消えてしまった。
アーチャーが消えた瞬間、エネミーが白野とセイバー目掛けて突進してくる。セイバーは刃を構えた。
「アーチャーめの言葉が気になるが……まずは目の前のエネミーを片付けるとしよう!」
決着はすぐについた。エネミーは体力が多く、攻撃力も高かったものの、特別強いわけではなかった。ただの時間稼ぎ要員だったらしい。
落ち着いたところで、白野はアーチャーの言葉を繰り返す。
「オレも入れないって言ってたけど……」
仮だろうがマスターと契約しているサーヴァントとはいえ、扉の先に入れないとは。そこまで湊は頑ならしい。何もせずに入れないと言っていたのを信じれば、アーチャーは条件を満たせていないことになる。あのアーチャーがNGである理由が思いつかない。
しかし、今回もそれ以外のヒントがない。
「今回もか。ラニのように指示を出すわけでもなく、自分たちでどうにかしろと。面倒だな」
『一番の方法と言えば方法です。自分から喋らない、出ない。アーチャーの指示かは分かりませんが』
『うーん、私のときは意識が曖昧で、話したくないのに話してちゃったりしたんだけど。自制心が元からあるのかしら……? いやでも……何にしろムカつくわね……』
少し歯軋りが聞こえた気がしたが、白野は指摘しないことにした。言わぬが花である。
しかし、また湊と話すことができなかった。本当に白野が嫌いなのか、ラニの言う通りアーチャーの指示なのか。どちらにせよ困ることには変わりない。
考えるだけで頭が痛くなってきた。そんなとき、桜の声が耳に入る。
『岸波さん、セイバーさん。一旦戻られてはいかがでしょうか? 根を詰めても、すぐには分からないでしょうし……』
「サクラの言う通りだな。休憩してから来てみれば、何か分かるかもしれぬ。ニホンでは一度や二度来ただけでは女は顔を見せなかったのだろう?」
「それは昔の話だけど……」
ただ、セイバーのことも間違ってはいない。今までの少女たちもそう簡単にSGを露わにしてくれはしなかった。一度眠れば、もしくは情報収集すれば、何か分かるかもしれない。白野とセイバーは大人しく旧校舎に戻ることにした。
凛、ラニ、桜、慎二、ジナコとあの扉が開く条件について聞いてみた。しかし、全員が「白野、セイバー、アーチャーが入れない」だけでは分からない、と苦い顔を、もしくは興味がなさそうな顔をしていた。
NPC以外で残っているのは、もうアンデルセンとキアラだけだ。
「なんだ。今日は相談事など乗ってやる気分ではないぞ」
近づいただけでアンデルセンは愛らしい子供の顔をそれと釣り合わぬ渋い声音とともに歪めた。同時にキアラが咎めるような視線をアンデルセンへ向ける。それに舌打ちして童話作家は白野たちへ向き直った。
「……三流サーヴァントだろうと作家は作家、読者がせがめば仕事して(かたって)やるとしよう。そうだな、今おまえたちの悩みの種である黒瀬湊のことがいいか?」
これまでアンデルセンは女性サーヴァントのこと、今までSGを解放してきた少女たちのことについて、白野(どくしゃ)へありのままを語った。今回は湊について話してくれるらしい。ちょうど尋ねようと思っていたところなのでありがたい。何か湊のことが分かれば、あの扉の解除も分かるかもしれない。
白野は頷いた。
「黒瀬湊。聖杯戦争に参加した魔術師……というよりは陰陽師と言った方が正しいな。四回戦で負け、BBの配下に下る。……ある意味、今までの少女の中で最も人間らしい、年頃の少女らしいSGをすべて持つんじゃないか?」
観察者は静かにはっきりと天使のごときふくよかな唇を動かす。
そこで白野は今までの少女たちのSGを思い返した。
自意識過剰、拝金主義、隷属願望。管理願望、露出癖、最強厨。ブラストバレー、被虐体質、神経過敏。きょげんへき、ひとりぼっち、しののろい。
人間らしい、年頃の少女らしい、と言われて当てはまるようなSGは自意識過剰、拝金主義、きょげんへき、しののろいあたりだ。それらと並ぶSGを湊が持つというのだろうか。
「彼女が、ですか? SGひとつでそう言い切るのはどうかと思いますが」
会話に混ざってきたキアラの言う通りである。白野はまだ湊のSGをひとつしか取っていない。「セカイ主義」は、確かに人間らしいSGではあるが……。キアラと同様に白野が首を傾げた。
「そうかもしれんな。ただ、白野、黒瀬湊がお前を嫌っている……いや、羨んでいる、の方が正しいか。その理由も大抵の人間なら一度は考えたことだろうよ。俺の予想が間違っていなければ、の話だが」
「どういうこと?」
「……なるほど。貴方の予想、私も何となく察しがつきました。もしそうでしたら、黒瀬さんは童話がお好きなのかもしれませんね」
「え?」
キアラは頬を薔薇色に染め、楽しそうに微笑んだ。白野はアンデルセンとキアラを交互に見るが、二人の思考が分からない。何故自分を嫌うことが童話を好きなことに繋がるのか。凛も予想がつくと言っていた。そこまで分かりやすいようには思えない。
戸惑う白野を差し置いてアンデルセンが続ける。
「あの少女はやたらと生きることに執着している。少しでも長く生きられる方につくと言うくらいだからな。大半の人間は死ぬよりは生きたいと思うものだ。あれは少し異常ではあるが……。夢見る女はいつでも盲目だ。同時に自分に酔う。あの少女もそういった女だろう。その代わり、おそらく黒瀬湊はそれを自覚している」
そこでアンデルセンはわざとらしいほど大きなため息をついた。苦い顔をして白野へ忠告する。
「ああいった手合いは面倒だぞ。肯定されたいくせに自ら否定して上書きする。信じたいのに信じられない。ああ、本当に女は面倒くさい!」
「あら、可愛らしいではありませんか。ふふ、思春期真っ盛りで……羨ましいですわ」
「どこがだ。少なくとも、キアラ、貴様のような女よりはまだまともかもしれんがな。まったく、あの少女と組んでいる緑のアーチャーが不憫でならん」
アンデルセンは会ったことはないアーチャーに心底同情している。しかし、
「……でもアーチャー、本当に疲れた顔はしてなかったような……」
白野が見た限りそんなことはなかった。うんざりしているような、けれども仕方ないかと渋々見てやるような。「頼られまくりでヒイヒイ言ってる」。そうこぼした青年は、いつもの鋭い瞳が少し和らいでいる気がした。
アンデルセンが白野の言葉を聞いて眉をひそめた。
「なんだ。あの軽薄そうでそうでもない優男なら苦手なタイプと踏んだが……いや、なるほど、意外と合うのか」
「どういうことです? ……まさか、彼女と彼はそういう……」
一人で合点がいった顔をするアンデルセンに、キアラは悩ましげに息を吐き、けれども興奮した顔で頬に手を添えた。一体何を想像しているのか。白野もつられて一瞬考えてしまったが、すぐに霧散した。まさか湊とアーチャーがそういった関係ではないだろう。
「そんなワケあるかこの脳内蛍光ピンク女! あの男とあの少女は違うが、似ている部分も多々あるということだ」
違うけど似ている。顔の無い狩人と、聖杯戦争に参加した少女。相違点こそあれど、類似する箇所がすぐに考え付かない。
思考の海に入りそうな白野へ、アンデルセンが犬を追い払うように手を振った。
「これで俺の仕事は終わりだ。さあ、とっとと馬鹿な女を引きずり出してこい」
「白野さん、頑張ってくださいね」
キアラのしとやかな笑顔で見送られ、白野はアンデルセンとキアラを後にする。
いい情報だった、とは思う。アンデルセンが話すありのままの人物像は的確だ。静かに聞いていたセイバーも悪戯っぽく口角を上げている。
「なかなか良い話が聞けたな。奏者よ。ここでひとつ、揺さぶってみるのはどうか?」
「応えてくれるか分からないけど……うん、何か話をしてみよう」
そうと決まれば実行だ。白野とセイバーは再びサクラ迷宮へ赴いた。扉の前までの道中は特に変わりない。
待ちぼうけしていたらしいアーチャーが、白野とセイバーの姿を捉える。それから扉の向こう側にいるらしいマスターへ声をかけた。
「お嬢、来ましたよ」
『……もしかして、分かったの?』
湊の素直な疑問。純粋な驚きのみが声に広がっている。
「いや。全く」
それに白野は効果音が背景につきそうなほどきっぱりと答えた。その姿勢は凛々しく男らしい。台詞は全く男らしくないが。
あまりにも潔い白野に、アーチャーが呆れた表情で白野を見る。
「清々しい返事だな、おい」
「でも、代わりに話そうと思って」
『じゃあ私ずっと黙ってるから。アーチャーと話してて』
「何でそうなるんだよ」
予想通りのそっけない返答。しかし、それくらいで諦めていたら何も進まない。伊達に白野はここまで四人の少女のSGを集めてきたわけではないのだ。
白野は一呼吸置いてから、まず湊へ当たり障りのない質問をする。
「君の好きなものは?」
『人の話聞いてんの? ってか何それ、お見合いじゃないんだからさあ。あとその切り出し、言われた方結構難しいんだからね』
「何も君のこと何も知らないから……とりあえず……」
ずっと黙っているから。そう言った割に、湊は白野へダメ出ししながら、固く閉ざすはずだったであろう口を開いている。
『アーチャーの好きなものって何?』
「だからこれ振られてんのオレじゃねえでしょ、お嬢でしょ。……んー、ナンパっすかねえ、やっぱり。後腐れがなければなお最高ですわ」
『アーチャーのはマジ論外だとして』
「何ですかね、それ!? 聞いてきたのはお嬢だろうが!」
『一番にそれ持ってくる時点で論外すぎ。ショウジキナイワー』
二人の流れるような会話が白野を差し置いて繰り広げられる。月の裏側からとはいえ、組んでそれなりに時間が経過したからか、湊はアーチャーとなら話しやすいらしい。アーチャーも素直に受け答えしている。
少し、意外だった。初めて会った頃は湊がアーチャーに喰ってかかっていた印象だった。それが今では親戚の兄と妹のようである。白野の預かり知らぬところで二人は仲を深めていたのだろう。湊の方は分からないが、アーチャーは二回戦で戦った際にも見たことのない、青年らしい顔つきをしていた。
セイバーと共に二人の会話を聞いていると、今度は湊から話しかけてきた。
『っていうか、人に聞くんじゃなくてまずは自分から話したら? 私に言われたくないだろうけど、会話ヘタじゃない? 自分から何が好きとか言うもんでしょ』
気だるげでかつかったるそうに投げかける。不愛想で不機嫌そうな湊の顔が、分かりやすく白野の頭に浮かんだ。
「あれで会話自体は嫌いではないらしいな。このまま続けてみようではないか」
セイバーが小声で白野へ耳打ちする。当初の目的としては成功している。最初からこうすればよかったかもしれない。
好きなもの。途端に返されると、確かに難しい。白野はしばらく考えた結果、ぽつりとあるものを呟いた。
「……あんみつ、とか」
『意外、それは食べ物ッ! ……間違ってはないけどさ……趣味とかかと思った……』
白野の予想外の答えを聞いて湊が叫ぶ。今まで聞いたことのないノリとテンションの高さだった。このまま続ければ、SGが見えてくるかもしれない。
趣味と言われ、白野は再び考え込む。
「趣味……ってほどじゃないけど、礼装の整理とか」
「そ、奏者よ! そんな地味……いや、主婦らしいことを楽しんでどうする! 余がもっと悦しいものを教えてやるぞ!?」
『趣味じゃないじゃんそれ……。漫画読むとか料理とか、ないわけ?』
「君は?」
「む、無視か! うう、奏者よ、致し方ないとはいえ、余は悲しい……」
楽しい、の変換がおかしかった気がするので無視する。涙ぐむセイバーは大変愛らしいが、そんな状況ではない。対話したい相手こそ見えないが、ひとまず向き直り、そういう自分はどうなのだ、と白野は湊へ質問し返す。
湊が何か答える前にアーチャーが口を挟んだ。
「お嬢は意外と料理上手いぜ」
『アーチャー、何勝手に……っていうか意外とって何、意外とって』
「ほう。余も料理には自信があるぞ」
セイバーが言うと、一瞬会話に間が開いた。
『私だって、優しくて美人なお姉さんに料理教わってたし。めっちゃ練習してたし。露出狂には負けないっつーの』
だがそれも本当に一瞬で、湊が矢継ぎ早にセイバーへ噛みつく。
勢いづいた言葉から、眉をつり上げた湊の顔が見えてくるようだった。アーチャーと話しているときのような、子供っぽくムキになった顔が。
「露出狂ではない! 余の体は至高の芸術、ローマ市民に幸福を与えているのだッ!」
『……どっからその自信来んの、ほんと。顔がいい奴はやけに自分に自信があるよね』
途端に。湊の声音が一気に険しくなった。会話を進めていくうちに、多少の怒りが込められていながらも今までのように突き放す素振りが薄まっていったのに。それがすぐに拒絶に染まっていくのを感じる。
このままではいけない。振り出しに戻ってしまう。どうにか会話を続けられないかと、白野は無理矢理話題を続けた。
「……嫌いなものは? 自分は…………借金取りと、あたためられた商品」
『えっ……あんた、借金とかしたことあんの……ウケる……』
そう呟いた湊の言葉に、先ほどの厳しさはなかった。ウケると言った通りツボに入ったらしく、必死にこらえているようだった。それでも隠し切れない笑い声がこちらに漏れてくる。それに白野は胸を撫で下ろししつつ、思い出したくない記憶を引き出してしまったことを後悔する。
「仕方なく、仕方なくだったんだ!」
白い歯をきらめかせ、笑顔で「その財布を奪い取る!」と言い放ち、白野とセイバーへ向かってくるガウェインが白野の脳内に浮かび上がる。
「あのガウェインめが借金取りになるなど、余も思いつかなんだ」
嫌な事件すぎた。
まさか、円卓の騎士が借金取りになるなんて。しかも手を抜くことはせずに、まだ感覚を戻していない白野とセイバーをぼこぼこに叩きのめした。ガウェインが二人の所持金を奪い取り、白野たちが疲弊しきったところでレオのトドメの一言、「シケてますね」である。あれはトラウマものだ。これだから財閥の御曹司は。
『何それめっちゃ見たい。ギャグかよ。ギャグか』
悲壮感漂う白野たちとは正反対に、湊は本当に楽しそうに一人ツッコミしている。
そこで好機と見たセイバーが尋ねた。
「黒瀬湊よ。貴様はどうだ? 苦手なもの、貴様もひとつやふたつはあろう」
息を呑む音がした。再び、周囲の温度が変わる。
『――――天才と、顔がいいやつは大嫌い。正確には、いろいろ言ってくる奴だけど』
セイバーの問いに湊が吐き捨てる。苦手なものと尋ねたのに、返ってきたのはありったけの憎しみがこもった「大嫌い」だった。口にもしたくないと言わんばかりの勢い。それでいて、嫉妬も含まれた「大嫌い」。
『……何だかんだ話しちゃった。はい、ここで会話終了。旧校舎におかえりー』
一方的に言われて会話は終わってしまった。途中から黙っていたアーチャーがようやく口を開く。
「あーあ、せっかくいいとこまでいったのにな。お嬢がもう話す気なくしちまったぜ。まあ、真面目だからべらべら喋っちまったけど」
「アーチャー。確か貴様はその中に入れないのだったな?」
「そうそ。サーヴァント放り出すとか何考えてんだよあのお嬢さん」
セイバーの投げかけにアーチャーは素直に返す。またもや大袈裟にため息をついてから、ひらひらと手を振った。
「じゃーな。オレはまた拗ねたお嬢の機嫌取らなきゃなんでね」
顔の無い王で身を包み、アーチャーが去った。また、ということはいつもしているのだろうか。白野はふとそれが気にかかった。
終わり方は以前よりひどいが、収穫はあった。今まで会話を聞いていただけだった凛から通信が来る。
『あの扉が心の入り口ってことなら、嫌いなものは入れないってことよね』
『つまり……顔が整ってると、入れないってことですか?』
『たぶん。あくまで予想だけど、あそこまで露骨ならそうなんじゃない?』
アーチャーは入れない。セイバーも入れない。周りが周りすぎて整っているとは微塵も思わないが、白野自身も湊からすれば整っている範疇に入るらしい。
顔がいい奴はこれだから。馬鹿にするように、羨ましいように、自嘲するように。湊は何度も口にしていた。それでも前の階層で、「綺麗で優しい人が大好きだった」、そんな風に言っていた。そのことも関係あるのかもしれない。
とはいえ。白野にはSGの真意を考察するよりも、顔を変えなければ入れないという解除条件をどうにかする方が先だ。どうしたらいいのかと悩んでいると、軽やかにキーボードに何かを入力する音が耳に入った。
『分かりました。顔(アバター)を変えるソフトを作ります。セイバーには使用できませんが、白野さんだけで良いかと。使用時間も扉を開ける瞬間のみでおそらく十分でしょう』
焦りなど知らぬラニの声が降る。さすがアトラス院のホムンクルス。優勝候補と言われるに相応しい。あまりに仕事ができすぎて生徒会長の座を狙われるのではないか。白野がいらぬ心配までしてしまうほどである。そんな有能すぎるラニに、セイバーが感嘆する。
「さすがはラニ。優秀だな」
『ちょっと、私は!? そこにいられるのは私のおかげでもあるのよ!?』
凛の声はセイバーには拾われなかった。後で機嫌を取っておかねば。白野は忘れぬよう脳に刻み込む。
数分後。顔を変えるソフトが完了したらしく、スキャンされた。鏡がないため、白野自身では特にアバターが変化したように感じない。手で顔を触っても同じだ。だが、セイバーはしかめっ面で白野を見つめている。
「むう……少し落ち着かんな。中身は奏者だと分かっているが」
自分では認識できないが、成功しているようだ。これで扉を開くことができる、はずだ。
白野はおそるおそる扉に近づく。同時に施錠されていた扉は開いた瞬間に消失した。白野たちの目の前にはまっすぐな道が続いている。きっとこの先に湊とアーチャーがいる。
唾を飲み込み、一歩踏み出す前に、もう一度スキャンされる。された直後にセイバーが満面の笑顔で言う。
「うむ! 奏者はその顔でなければな! 無論、どんな顔であろうと奏者の輝きは失わぬがな!」
「はは……」
『はいはい、開いたんだし、いいからさっさと進んで』
鬱陶しそうな凛の声に先を促され、白野とセイバーは一本道を進む。エネミーもいない。もしかしたら戦闘になるかもしれない。前の階層で、湊と緑のアーチャーとは戦っていない。二人と初めて戦うわけではないとはいえ、以前より二人は互いを信用、信頼しているように見える。簡単にはいかないはずだ。一歩一歩進むたび、白野は気を引き締める。
終着点で待っていた湊は、何者も寄せ付けぬ冬の夜の空気を纏っていた。冷え冷えとした目が白野を真正面に見つめている。
「……分からないと思ってたのに」
しぼりだしたような声。それでも明確な敵意が白野の心に届く。軽蔑さえ込めた目はひたすらに冷たい。
「お嬢があんだけ話しゃ分かるでしょうよ。つーか、せめてオレには当てはまらない条件にしてほしかったんですけど」
「だって嫌いなものは嫌いなの。仕方ないでしょ」
そう言ってアーチャーからそっぽを向く姿は、白野に対するものと全く違う。どちらが本当の黒瀬湊なのか分からなくなってしまう。
しかし、目の前の少女は黒瀬湊の分身だ。顔の無い青年には子供っぽいところも、本来の黒瀬湊なのだろう。白野には嫌な方面で子供っぽさを向けられているが。
美形が嫌いだと主張する湊。だが湊自身特別顔の造形で揶揄されそうなほど特徴的なものはない。良くも悪くも普通だった。
『別に取り立てて美人ってわけじゃないけど、不細工ってわけでもないじゃない』
『人間女性の平均値だと思いますが』
「そんなに気にするほどじゃないと思うけど……」
凛とラニの言葉に続いて白野は否定する。湊はさらに顔をしかめ、それらを嘲笑った。
「普通、ふつう、フツウ。そうだね、私も普通だと思いたい」
普通。その単語を重ねる少女は、自らに言い聞かせる。それだけなのに自分で自分に傷を作っているようで、痛々しい。
じくり。白野の手の甲が痛み始めた。
「でも私の周りって綺麗な人ばっかりで、何でもできちゃってさ。顔面偏差値普通、能力値普通な私は普通じゃなくて底辺になるの」
俯いた湊の表情は見えない。口元だけは笑っているように見える。
「いくら頑張ったってさ、顔がよくないと、どれだけ努力してもそれが当然なの。当たり前なの。フツウなの。だから、顔がいい奴は嫌い」
「……でも、君は好きな人がいればいいって言うほど、その人たちが好きなんじゃなかったのか?」
湊は断言していた。あの言葉に嘘偽りなど白野には感じられなかった。もし好きな人たちだけで十分だと言うのなら、その人たちの評価だけで構わないはずだ。どうでもいいと豪語しているのに。好きな人だけで構成された、小さく狭いセカイだからこそなのかもしれない。
「好きだよ。大好きだよ。菜保子さんは、周りの人たちは、綺麗でとっても優しかった」
湊が白野の問いかけに即答する。菜保子さん、と呼ぶ湊の声は明るい。前も耳にした名前だ。よっぽどの存在だったのだろう。前髪で隠れた湊の目が、優しく細められた気がした。
「――――だから、嫌い。顔がいい人は天から二物も三物も与えられてさ、神様って普通の奴には何にもくれないの。好きなはずなのに嫉妬しちゃうの。あの人だって努力してるのに。そんなこと分かってるのに」
それもすぐに「嫌い」で塗り潰される。ぼろぼろと零れてくる本音は矛盾で溢れていた。
「でも、周りが言ってくる。すぐ比べてくる。だからどうしたってすぐ埋もれるの。気にしなきゃいいって思うかもしれない。でもうるさいんだよ。周りの声ってとってもとってもうるさいんだよ!」
狂おしく昂っていく声。憎悪で歪んでいく顔。好きと嫌いが混ざりあっていく気持ち。
見えない、聞こえない何かの声から逃れるように湊が耳を塞ぐ。
「だから嫌い! 顔のいい奴なんて嫌い! とやかく比べて好き勝手言ってくる奴はもっと嫌い!」
湊がヒステリックに嫌悪を叫び散らす。
どう言葉をかけるのが一番いいのか。白野には、見当がつかなかった。
『白野さん、早く彼女のSGを名付けてください。もう貴方は理解しているはずです』
ラニが冷静に告げる。そんなことをしたら、目の前の少女は、どうなってしまうのか。
ふと、セイバーと目が合った。隣で佇むセイバーは強い光を放つ瞳で白野を見る。そうだ。否が応でも、言わなければ。
彼女のSGは――――。
白野の左手が、少女の無防備な胸へ吸い寄せられていく。少女は絶望を顔いっぱいに広げ、せめて身を縮めて己を守ろうとする。
「ゃ、いやっ、やめて……!! あぅ、ぅううう……」
秘密だった輝きは、白野に引き抜かれた。
黒瀬湊のふたつ目のSG。「顔面劣等感」。自分の顔に自信がない湊が、顔が整った人物を、それと比べる世間の人々を、憎む気持ち。
生まれたものには必ず差異がある。同じ人間ばかりいるわけがない。それを仕方ないと理解している。それでも周りの声が大きくて、「普通」の湊には余計届いてしまう。綺麗な人を、才能ある人を。大好きであるはずなのに疎ましく感じてしまう。妬ましく思ってしまう。
白野だって周囲がとんでもない人物ばかりだった。西欧財閥御曹司、天才魔術師でハッカー、アトラス院のホムンクルス、……。嫉妬したことがないと言われれば黙ってしまう。だから、それこそ当然の感情なのだ。
それでも、それは湊にとって必死に隠してきた感情だったのだろう。
SGを明かされた湊は顔面蒼白になっている。怯えた目に先ほどまでの井戸の底のごとき仄暗い感情は一切ない。今の湊は普通の少女どころか、隠し事が暴かれた幼い子供だった。
己を見つめる白野に気付く。湊は歯を食いしばって、突き放すように白野を睨んだ。
「――――そんな顔しないで。そんな目で私を見ないでよ。ああ、もう、嫌い、きらい、キライ!! あんたなんて、大嫌い!!」
「湊、」
「あんたの顔なんて見たくない。本当に嫌い。その目、大っ嫌い! ……アーチャー。あいつの顔、ハチの巣にしてッ!!」
「……了解」
少女の悲鳴に口を閉ざしていた狩人が頷いた。ふざけた調子の声音ではない。短距離で相手を仕留める毒矢をこちらに向けてきた。白野とセイバーを映す瞳から、アーチャーの思考は読み取れない。
「来るぞ!」
厳しい戦いになると、白野は思っていた。
――――だが、予想に反してあっけなく決着がついてしまった。こちらも宝具を解放し、以前二人と刃を交えたときよりも成長したのもある。しかし、一番の要因は湊が動揺していたからだろう。まともな指示を湊が出さなかった。かと言ってアーチャーはそれに一度も文句をこぼさなかった。淡々と、マスターの命令を愚直なまでにこなしていた。
少女の分身は手で顔を覆っている。ふらふらとして足元がおぼつかない。今すぐ膝が地につきそうだ。
「……みんな嫌い、きらい、大嫌い……」
白野を見向きもせずただそれだけを口にしている。呪詛のごとき「嫌い」はだんだん小さくなっていく。
ついに足が崩れ落ちた。ぺたり座り込んだ少女は唇を噛みしめる。表情は手で隠されているせいで見えない。青白い顔で泣いているのか。それとも怯えた表情をしているのか。どちらでも正解のような気がした。
「――――でも、そんな私が、一番、嫌い……」
そして、最後に涙で滲んだ「嫌い」をこぼし、少女は散ってしまった。
「……」
アーチャーはマスターが消えた空を見つめたまま、彼も消え去った。
同じようにその場を動かない白野に、セイバーが声をかけた。
「奏者よ。あれもまた、夢見る少女だ。何の夢を見ているのかは知らぬ。それでも、夢から覚ましてやらねば。それが一番あの少女のためだ」
「……うん」
もし。湊がこちら側にいたら、なんて、今となってはどうにもならないたらればを考えた。
マスターが自分を抱きしめながら寝転んでいる。負けてからあれきり頑なに黙っている。ベッドから微動だにしない。
アーチャーも沈黙に耐えられないというわけではない。ただ、すでにこの少女と話すことに慣れてしまっていた。そのせいで沈黙に違和感を覚えてしまう。
だからつい、声をかけてしまった。
「泣いてるんスか?」
「泣いてない」
答えた声は震えている。まだ怒りが含まれている分、本当に泣いているのではなさそうだった。
「だって、泣いたって誰も助けてくれないもん」
アーチャーは前に悪魔だとか妖怪だとかそういう専門だと少女に尋ねた。少女はそうだよ、仕方なく、と苦悩を吐露していた。そのことか。それとも。
目を伏せたまま、アーチャーが声を張った。
「その、菜保子サン? とか、あんだけ優しいっつーくらいなら、お嬢の気持ちを受け止めて助けてくれたんじゃねえの?」
「……だって。迷惑だもん。こんな汚い感情……好きな人に、尊敬する人に、見せられないし……言えない……恥ずかしい……あんなに、優しくしてくれたのに。私、最低だ……」
どれほどその女のことが好きだったのだろう。尊敬していたのだろう。
大事な人にこそ隠すものがある。青年はそれを否定しない。少女が自身を否定するならなおさら。それに、青年もそれをずっと前から理解していた。
人を妬むこと。生きていたら生まれる当たり前の感情だ。いくら好きな人物だろうと関係ない。そう言ったところで意味をなさないことを青年は承知している。だから、また少女の頭をできる限り優しく撫でてやった。
自己嫌悪に陥る少女の震えが止まる。そうしてまた少女はこぼすのだ。
「ごめんね。ごめんね、アーチャー……」
そう言ってほしくて、頭を撫でてやったわけじゃないのに。青年はため息の代わりに目を閉じた。