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はばたけラプンツェル


物心ついたときから、瀬尾梨の世界は塔の中で完結していた。
高い塔の窓から見える美しい森。窓に降り立ってさえずる鳥たち。退屈を紛らわせるための多くの本。朝出かけて夕方に帰ってくる母親。

塔は窓ひとつだけで、階段やはしごはなく、扉すらない。幼い頃は塔と本では当然物足りなくて、「外へ出たい」と願ったが、母は厳しい口調で咎めた。「戦争中で危ない。旦那に続いてお前を亡くしたら、私はどうしたらいいの」と。母を悲しませたくはなくて、瀬尾梨は口にすることをやめたし、抜け出そうとも考えなかった。時折外の治安について尋ねてみるものの、「戦争は終わったがまだかなり悪い」と言うばかりで頑なに口を閉ざしている。

外を出られないことについて、悲しみや苦しみを感じたことはない。自分は塔の中で生きて塔の中で死ぬのだ。本の中にあるような絆で結ばれた友情も、運命の人との恋愛も味わうことはなく。ただ、そんな虚しさが瀬尾梨の胸の内を占めていた。


今日も瀬尾梨は自慢の髪を整える。部屋を何周もするほど、高い塔と同じくらい長い髪。窓から降り注ぐ光が当たり、髪をさらに輝かせる。
この髪は母が塔に入る唯一の方法である。母が傷を負っては大変だからと手入れをするうちに、熱を入れるようになっていた。瀬尾梨の生活は、読書をし、動物と戯れ、母と話し、調理し、部屋の中の運動を除けば何もない。髪の手入れに夢中になるのは必然だった。

歌を口ずさみながら櫛で長い髪をすく。小さな幸福のときだ。

「おい、誰かいるのか!」

――――低く雄々しい声が窓から入った。塔が少し揺れるほどに大きく力強い。生まれて初めて聞いた男の声。

瀬尾梨に応じるべきか一瞬の迷いが生まれる。

――――私以外誰も入れてはいけないし、誰か来て窓から顔を覗いてもいけないよ。

母は出かける際、強く何度も言いつける。頷きながら、他人がこの塔に来たことはないから無意味だと聞き流していた。
でも、今。十何年も生きてきて、初めて母以外の人間がやって来た。しかも男が。どんな目をしていて、どんな髪をしていて、どんな服を着ているのだろう。そういった関心と興奮が湧いてきて止まらない。
唾を呑み込み、顔を出さずに瀬尾梨は声を張って男へ問いかける。

「どなたですか?」
「俺はこの国の近衛兵、谷裂だ」
「……谷裂さん」

ありふれているのか奇妙なのか瀬尾梨には分からない。だが、男の名前を噛みしめるように口にする。

「はじめまして。私は瀬尾梨と申します。国の近衛兵さんが何のご用でしょうか?」
「ここ最近国民が行方不明になる事件が多発していてな。その犯人を捜索している」

重い声に似合うような威圧的な口調だ。瀬尾梨は顔をしかめた。しかし、守るべき国民が危険に侵されているならそうなるのも理解できる。

「いいえ。私は子供の頃からずっとこの塔にいるのでそんな事件を知りませんし、母以外の人に会ったこともありません」
「本当か?ならば姿を見せろ。隠れたままでいては怪しいだけだ」

それもそうだ。母の言いつけより、もう声をかけてしまったのだから疑いを晴らす方がいいだろう。それに瀬尾梨も谷裂の姿をこの目で見たかった。

窓から顔を出す。遥か下にある刃物のように鋭い紫の目が合った。写真や絵で見た男性と違ってかなり大柄だ。近衛兵の制服だろう服はかっちり首元まで留めている。傍にはかなり毛並みの良い馬が大人しく待っていた。

「これでいいですか?」
「窓から顔を出すだけで足りるか!もう少し貴様に聞きたいことがある。降りてこい!」

谷裂の怒号が瀬尾梨の耳を痛いほど貫く。確かに塔の最上と地上は話すのに適切な距離ではないが、いくら何でも声を張りすぎている。眉をひそめながら、瀬尾梨は表情を変えずに言う。

「ここ、外と通じる場所がこの窓しかないんです。仕方ないでしょう」
「そんな建物あるか!」
「あるから言っているんです。本当ですよ。母も私の髪を使って上まで上がってくるんです」
「髪……?何をそんな馬鹿なことを」

瀬尾梨は冷然と谷裂を見る。そして、長すぎる髪を巻いては窓からするする落としていく。塔の窓から垂れた艶やかな髪は、まるで生きているようだった。

「ほら。これなら上がれるでしょう?」
「……なるほど」

谷裂の目と口が呆然と開いている。しかしすぐに元の険しい顔つきに戻った。

「上に上がるぞ」
「母以外上ったことがないので、どうなるか分かりませんよ」
「万が一落ちたとして怪我などせん。それに手がかりになるような女をみすみす逃すわけにもいかん」

自信と責務に溢れた言葉。紫の瞳には目つきと同じ鋭く強い意志が宿っていた。瀬尾梨が拒否をしたところで谷裂は髪を使わないで上ってくるだろう。屈強な男に乱暴に掴まれるのは嫌だったが、怪我をされても気分が悪い。しぶしぶ瀬尾梨は言う。

「……そこまで言うならどうぞ。縄と同じように握らないでくださいね」
「努力はしてやる」

言葉通り谷裂はあまり髪に頼らず上っていく。その様に危なっかしさなど全くない。随分この国の兵は鍛えられているのだなと瀬尾梨は感心する。女の母でも上れるよう足場もあったおかげかあまり時間はかからなかった。

辿り着くなり谷裂が部屋を観察する。

「……やけに本が多いな。何の本だ?」
「手に取れば分かると思いますが、単なる学術書や小説です」
「母がいると言っていたが、どこにいる?」
「夕方まで食材を調達していたり、貴族の使用人として屋敷に赴いたりしています」
「何故貴様はこんな塔に住んでいる?」
「この国は少し前まで戦争をしていて、まだ近隣は治安が悪いのでしょう?父に先立たれた母は、一人になるのが恐ろしくてこんな過保護になっているんです。私も母を心配させたくありませんし、母を置いていくのは辛いですから」

髪を戻しながら矢継ぎ早に繰り出される谷裂の問いに淡々と答える。谷裂から放たれる圧は重く、質問というよりは尋問だ。兵に捕まった犯罪者はこんな気分なのだろうか。瀬尾梨は他人事のように思った。

次の質問は何だろうかと考えていたが、谷裂は何の言葉も発さない。不思議に思って瀬尾梨がそちらに目をやると、谷裂は怪訝な顔をしていた。

「……何を言っている。戦争など数百年前に終わっているぞ」
「――――え?」

一瞬理解できなかった。髪を巻く手が止まり、唖然とした表情で瀬尾梨は谷裂を見つめる。

「犯罪もゼロではないし貧しい者もいるが、少なくとも国民の大半はのどかに暮らしている」

嘘、貴方盗賊か何かなのでしょう、と否定の言葉を投げたかった。しかし、目の前の男は粗野な部分はあるものの卑劣さは全く感じられない。冷徹で実直な瞳がそれを裏付けていた。
そうすると、母が嘘をついていたことになる。さも瀬尾梨を思いやるような優しい表情で。十何年も。本来なら母を信じるべきだ。だが谷裂は虚言を吐いているように見えない。可能性があるだけで、瀬尾梨は世界に裏切られた気分になった。

胸を刺されたような瀬尾梨に谷裂は続ける。

「……この森には、高い塔に魔女が住んでいると言われている。普段なら俺たちも近寄らないのだが、こうも行方不明者が続けば行かざるをえん。今日はその魔女に話を聞きに来た」
「私は、魔女ではありません」

ようやく出た声は少し震えていた。

母が魔女だなんてことも聞いたことがない。確かに母の部屋に入ろうとしただけでひどい剣幕で怒られたり、髪をやたらとくれと言われたりしていた、けれど。

「だろうな。こんな髪ではまともに動けまい。演技にしても狡猾な魔女なら少し前まで戦争をしていたと間抜けな墓穴掘らんだろう。だが、魔女ではなくとも協力者かもしれんからな。国には来てもらうぞ」
「私は殺されるんですか?」
「牢獄ということもありえるが、協力者ということを晴らせねば何かしらの罰は与えられるだろうな」

顔を伏せる瀬尾梨へ谷裂は淡々と言った。突き刺す目から逃げるように顔を伏せる。

「私は何も知りません。何も……母のことも、自分のことも、知らないんです」
「ふん。口では何とも言える」

谷裂が縄を取り出し、瀬尾梨との距離を縮める。

捕まるのだ。母が魔女でもそうでなくても瀬尾梨の容疑が晴れる気がしない。それでも。瀬尾梨の顔に笑みが宿る。母だと信じたい女にすら「お前は氷のようだね」と評された瀬尾梨の顔に。

「何を笑っている?」

瀬尾梨は顔を上げた。その顔はひどく爽やかだった。先ほどまで動揺し愕然としていたとはとても思えない。

「殺されるかもしれなくても、塔の中で私の人生が終わるわけではないのだと思って」

場所が変わっただけかもしれない。それでも本に囲まれて、動物と触れ合って、母と話すだけの人生よりずっといい。外に出られたならどれだけ素敵だろうと昔は胸を膨らませていた。夢を諦めたから、奇跡など期待しなくなったから、人形のような顔になった。たとえ一瞬でもいい。外に出られるのだから。殺されるのだとしても恐怖を感じなかった。

声に喜びを乗せて言った瀬尾梨へ、谷裂は気難しい表情のまま口を開く。

「……貴様は、自由になりたくはないのか」
「え?」

もう一度瀬尾梨に驚きが生まれる。一貫して冷淡な態度の谷裂が同情しているような言葉を口にするなんて。

「ここに閉じ込められていたなら、外に出たいと思ったこともあったろう。容疑を晴らして外で生きたいと思わないのか」

瀬尾梨はすぐに肯定できなかった。元の感情のない顔に戻り、そのまま髪を部屋に入れ直す作業を再開する。

「今でもいろいろなものを見て、いろいろな人と出会いたいと思っています。もし母が本当に魔女で、私を騙していたとしても、私の疑いがなくなるのは難しいでしょう。私の人生はそういう人生だったというだけです」

そう考えるしかない。誰だって幸せになるとは限らないのだ。子供の頃に読んだおとぎ話のような幸福は訪れない。現実に優しい王子はいないし、助けに来てくれる魔法使いはいない。次こそはきっと幸せになろうと希望を抱くだけ。
我ながら悲観的すぎる気もする。初めて会えた他人に衝撃的な言葉を投げられたからかもしれない。瀬尾梨の頬に自嘲がにじむ。

話しているうちにようやくすべての髪が床に広がる。
谷裂は再び口を閉ざしている。紫の目は何を言いたいのかよく分からない。

「おい。鋏はどこだ」
「あちらにありますが。変なことはしないでください」
「安心しろ。貴様の長ったらしい髪を切るだけだ」
「髪を、」

切る。また谷裂の言葉が呑み込めず、体が止まった。その間にも谷裂が鋏を持って瀬尾梨の髪を切ろうと大きく刃を広げていた。

「何をするんですか!?私の自慢の髪なのに!」
「こんな長さの髪で連れていけるわけあるか!それに、この髪と魔女が貴様を縛っているんだろう。俺はただ任務を遂行するだけだが……自由になりたいならば行動に移せ」

谷裂のまっすぐで強い言葉が、胸に刺さる。同時に爽やかな痛みが広がっていく。
母を置いていけず、ずっと外に出なかった。ずっと母の言うことばかり聞いていた。子供の自分にとっては母だけが信じられるものだったから。長い髪も母に言われてずっと伸ばしてきた。何のためか疑問に思ってもすぐに消えた。本当の母であっても、本当の母でなかったとしても、育ててくれたことに感謝はしている。でも、もう自分は子供ではない。

瀬尾梨は谷裂を迷いのない目で見据える。

「谷裂さん。鋏を渡してください。自分で切ります」

谷裂は無言で瀬尾梨に鋏を渡した。

この長い髪ともお別れだ。薄く微笑んだ後、すぐに自分の背丈くらいまで勢いよく切った。細かい髪がはらはらと床へ落ちる。体がずいぶんと軽い。体とともに心まで軽くなったような気がした。

「長すぎることに変わりはない気がするが……」
「いいじゃないですか、別に」
「……魔女が帰ってくる前に出るぞ。応援を呼んでまた来る」
「どうやってですか?私、もう髪切ってしまいましたけど」
「扉がないなら貴様を担いで窓から降りればいいだけだ」
「何馬鹿なことを、!」

さすがに頑強そうな体とはいえ無理があるのではないか。睨むと同時に体が浮遊する。谷裂に担ぎ上げられていた。色っぽさやときめきなど無縁で、女を持ち上げるにしても雑すぎる。谷裂は窓に足を置く。瀬尾梨が制止する前に、塔から落ちた。かなりの距離を落下していたが、危なげもなく着地する。平然とした顔で谷裂はそのまま瀬尾梨を下ろした。

人は感情の頂点に達すると声が出ないらしい。それが外に出て瀬尾梨が初めて知った事実だった。

「貴方、馬鹿じゃないですか?もっと違う持ち方があったでしょう!」
「やかましい!貴様を落とすつもりも怪我をするつもりもなかったからいいだろう!」
「信じられません!この国の男性ってこんな人ばっかりなんですか?」
「いいから馬に乗れ!その後貴様の手を縛る!」

目を吊り上げながら馬に乗ると手首を縄で縛られる。谷裂も馬に乗り、そのまま馬を走らせた。


移動中はずっと無言だ。その間、瀬尾梨は風や森の空気を感じる。空は広く澄んでいてどこまでも青い。陽のあたたかさが心地よい。時折可愛らしい兎や利口そうな鹿が顔を見せる。途中で見かけた花畑からは良い香りが漂っていた。外はこんなに色鮮やかで美しいのか。瀬尾梨はため息が漏れそうになるのをこらえた。

顔を前へ向き直す。逞しい背中はまっすぐで性格が見れる。この冷徹で誠実な男が来なければ、自分はあのまま何も感じず死んでいたのだろう。口にしたくはないが、谷裂の真摯な部分は好ましかった。優しい王子などよりはよっぽど良い。
この美しい景色を見ることも、森の匂いを感じることも、もう二度とないかもしれないけれど。死ぬことになっても生きることになっても、この男に礼を言おう。そう思った。



あの後、母は魔女で実の母でないことが分かった。ある夫婦から珍しい髪を持つ子供が生まれたと知って攫ったのが瀬尾梨らしい。瀬尾梨は無関係だと分かり、罰を受けることはなかった。両親は娘を攫われた悲しみで死んでしまったという。そこで利発さと機転の良さを近衛兵の隊長に買われ、今、瀬尾梨は国に仕えている。

「斬島さん、平腹さん、谷裂さん、いい加減にしてください。また壁を壊したでしょう。予算がないのに馬鹿なことやめてくれませんか?」

つららのごとき冷たい目を三人に向ける。その目は以前のガラスのような無機質さはなく、意志の強さと苛烈さを持っていた。

「すまない……」
「ごめーん!」
「瀬尾梨、ねちねちと繰り返すな!」
「反省してないから繰り返してるんでしょう。貴方たちは鳥頭なんですか?」
「この……」
「なー、谷裂と瀬尾梨って仲いいなー」
「俺もそう思う」
「仲良くありません」「そんなわけあるか!」

斬島の一言でさらに険悪な空気が重くなる。賑やかというより騒がしいがふさわしい四人を、木舌と佐疫が見守っていた。

「仲良しだねえ」
「仲良し、なのかな……」

結局瀬尾梨は谷裂に礼を言っていない。共に過ごしてなおさら怒りと殺意を抱くことになったからだ。だが、あのとき感じた感謝は、いつまでも瀬尾梨の胸に残り続ける。自分が死ぬときか、谷裂が死ぬときにでもそれを伝えることにした。



「現れたのは王子ではないが外に出れて強かに生きるラプンツェル」から何だか長くなってしまいました。パロディ楽しいのですがいつもより説明っぽくなってしまってダメですね。
姫ではありませんがそれなりに裕福な出。母(魔女)しか知らないのであまり行動力はありませんでしたが、谷裂初めとした獄卒=近衛兵と出会ってからは気弱さはゼロに、というかいつもの夢主に。また、夢主の髪は魔術に精通していないと使えないためもう意味のないものになりました。
獄卒たちは国の近衛兵の中でもかなり危ない部隊。肋角さん災藤さんはかなり偉い。このあたりはざっくり設定です。
谷裂は敵や疑いのある人物に容赦ないけど、善寄りな存在であれば後ろ向きなとき厳しくもまっすぐな言葉をくれそうだなと思います。

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