蜂蜜漬けの口付けを
・春一
「名無し〜」
ずっしりと背中に体重がかかる。春一だ。重い、と言っても退いてくれないことは分かっているのでやめた。
そこで春一が鼻を首元まで持ってきた。
「なんか甘え匂いすんな」
「ああ…チョコレートの匂い?家に帰って渡そうと思ってたから、ちょっと待って」
今日はバレンタインデーだから作ってあって。毎年作ってあげてる。首にチョコレートなんてかけてないんだけど。怖いなこいつ。
今日は何の日か思い出したのか、春一がああと声を出した。
「あ、またうめえの食えるのか!」
「なんかそれだと私おいしくないの作ってることになるんだけど…」
「名無しの飯はいつもうめえぞ」
こう、突然褒めてくるからなあ、春一って。だからいっつも照れちゃう。それから春一の抱きしめる力が強くなった。
「でも僕、甘い匂いに我慢できないよう」
「え?ちょ、ちょっと…まだお昼でしょ、馬鹿っ!仕事あるんだから…」
私の首筋を春一は舐めていく。何だかぞくぞくしてきた。やめて、やめて。そこで昼の休憩が終わった鐘が鳴る。よ、よかった…。
「ほ、ほら!早く行くよ!」
「んー…じゃ、帰ったら食べるよう」
何を?とは聞けず、私はさっさと仕事場に戻るのだった。
・雲居蜜郎
「蜜郎先輩、お菓子作ってきたんですけど…貰ってくれますか?」
蜜郎先輩はあまり甘いものを食べない。だけど、今日はバレンタインデー。今日くらい許してほしい。ということで、甘さ控えめのチョコを入れた和菓子を作ってきた。
先輩はラッピングした箱と私を見比べて怪訝そうにしている。む、無理かな。ダメかな。
「…………」
先輩は無言で受け取ってくれた。やった!「何言うとるん名無し…いらんわ」って呆れた目つきで言われるものかと思ってたから。心の中でガッツポーズをする。
それから適当に包装を破り捨てて開ける。生八橋と水饅頭にしたんだけど、ダメかな。先輩は串で刺した水饅頭を口に含む。
「……まあ、ええんちゃうか」
「ほ、本当ですか!」
罵倒されないってことはおいしいって思っていいってこと。嬉しくて先輩に詰め寄ってしまった。
そんな私を見て先輩はもう一度水饅頭を食べたかと思うと、私に口付けた。唇の隙間からぬるりと甘い何かが入ってくる。えっと、これは、つまり、どういう。
長い間深い口付けをされた私は、離された後に呆けてしまった。先輩はにやりといやらしく笑って言う。
「まだまだやけどな」
・千葉龍之介
同じクラスの千葉君が、私は少し気になっている。無口で前髪が長すぎて目がちっとも見えないけれど、だからこそ何だと思う。ミステリアスなところが好き。周りの男子とはちょっと違う気もする。
だから今日チョコレートを持ってきたんだけど、手渡せるわけもない。どうしよう。彼が帰った後に机の中にでも入れようかな。教室で勉強するということにして、私は誰もいなくなるまで待っていた。
「よし」
皆が帰って私は例のブツを机の中に置いた。
匿名だし分からないでしょ。他人の筆跡なんて覚えてるわけないだろうし。日誌とかで探されなければだけど。ま、分かんない分かんない。
「帰ろっと」
「瀬尾梨?」
鞄を持った瞬間、千葉君が入ってきた。え、どういうこと。びっくりする私をよそに千葉君は距離を縮める。
「どうしたんだよ。勉強でもしてたのか?」
「う、うん。千葉くんは?」
忘れ物をしてきたらしい。あ、危ない。さっきの見られたら死んでた。ほっとしているのも束の間、千葉君が机の中を漁ると私のチョコがその手に渡った。
「ん?チョコレート?」
「お、千葉君すごいじゃん。本命かもよ」
私のだけど。千葉君はというといつの間になんて怪しんでいる。やばい、これ帰らないと。
「瀬尾梨、誰かいれたの見たか?」
「ううん?私席立っちゃったときあるし、知らないや…誰だろうね。じゃあね」
逃げるように教室から出ていく。話したことがろくにない私だって、千葉君も気付かないよね。っていうか気付かないで。
翌日、またチョコのことで尋ねられた私は墓穴を掘ってしまうことを知らない。
・伊織糸郎
名無しは作ったチョコレートをぎゅっと握りしめて裁縫部へ向かう。バレンタインデーも放課後だ。黄色い声はこれからが本番とばかりにまだ聞こえる。それに怯えながら歩いていく。
おそるおそる裁縫部のドアを開ける。いつも通り中央で伊織が働いていた。
「し、糸郎君…」
「名無しか。どうした」
今はそこまで忙しくもないのか、不機嫌ではないようでごく普通に応えた。それに安心して胸に抱いたものを差し出す。心臓の音がうるさい。
伊織は最初怪訝そうにラッピングされた箱を見つめていたが、すぐにああと声を上げた。
「そうか、今日はそんな日だったな」
「自分で…作った、の。ちゃんと、味見も…した、から。大丈夫…」
「……手を見せろ」
味の保証をしていると、両手を引っ張られる。絆創膏だらけの手を見て伊織は眉をひそめた。
「やはりか。お前はどこかの誰かたちと違って丈夫じゃないんだ、あまり無理するな」
「う、うん…ごめん、ね」
言い方はきついが心配してくれている。名無しは謝る。それに反して頬が緩んでいくのが抑えられない。
「何笑っているんだ」
「何でも、ないよ」
「……これは後できちんと食べる。ありがとう、名無し」
照れくさそうな伊織の言葉が聞けただけで、名無しは胸の中が温かくなるのだった。
・空閑真澄
同僚の空閑真澄はお菓子が大好きだ。甘いものが苦手な名無しからすれば、いつもバニラエッセンスの香りがする空閑は近寄りがたかった。
今日はバレンタインデーということで、生徒たちが浮き足たっている。私も若い頃は好きな人にあげたなあ、失敗したけど。名無しは遠い目で空を見つめる。
「瀬尾梨先生」
「空閑先生。……どうしたんですか、その大量のお菓子」
両手にはたくさんのお菓子が入った袋。生徒たちに貰ったのだろうかと考える。空閑は生徒に人気で、よく相談を受けるくらいなのだから。
「瀬尾梨先生にも差し上げようと思いまして…よろしければどうぞ」
そこで一瞬顔が固まってしまったが、ここで受け取らなければ関係が悪化するかもしれない。大人しく受け取った。笑顔を浮かべて礼を言う。
「ありがとうございます…後で食べますね」
「甘いのが苦手な瀬尾梨先生でも食べられるよう、かなり控えめにしておきましたよ。食べやすいかと」
「え」
今まで甘いものは苦手だと明言したことはない。今まで空閑の差し入れを貰ってもすぐに手をつけなかったからかもしれない。一応ちゃんと食べてはいたのだが。
申し訳なさそうに空閑が言う。
「すみません、気付かなくて。今度は気をつけますね」
「い、いえ…言わない私も悪いですし。甘いの苦手なんて変かなと思って言えなくて。それに…」
「それに?」
そこで言葉が詰まる。正直に「空閑先生が笑顔で渡してくるものだから、断るのも申し訳なくって」なんて言えるわけもない。空閑の少し落ち込んだ顔を見るのが嫌なのだ。何故だかは何となく気がついてはいるけれど。
「何でもないです。ありがとうございます」
いつか大人の壁を越えて言えるだろうか。
今回は三位以下のキャラたちでした。口付けはカニ先輩以外関係ないですね。
千葉君は三年ではなく二年生時をイメージしています。伊織んは付き合った後なので名前呼びです。
投票してくださった方々ありがとうございました!短くて申し訳ないです。
バレンタイン爆発しろ!!