私は朝が嫌い。起きること自体はできるけど、寝られるなら寝たい。できれば時間の十分前程度に教室の席に着いていたい。そんなタイプだ。
だから、こんな全校生徒がほとんどいないような、それこそ朝練するスポーツ部じゃなきゃいないような時間帯に私がいることは、天変地異の顕れなわけだ。
何やってるんだろ、私。正直客観的に見たらキモイわ。第二体育館の前、湿った空気が漂ってきた中で頭を抱える。さすがに中に入る度胸も、ドアを開ける勇気もなくて、ただそこに立ち尽くす謎の女子と化している。
……見つかって何か言われる前に教室に逃げよ。
「アレ、どうしたの?」
その場から立ち去ろうとしたら声をかけられた。とてもつらい。おそるおそる振り向くと、幸いフランクそうな女子二人だった。マネージャーの人だろうか。怖そうな人とか、男子とか、……赤葦君とかだったら、硬直してしまっていた。
「あ、もしかして、見学!?」
「あ、いえ、その、ただ、朝早く来ちゃって音がするから、どこの部がやってるんだろうって、見てただけなので」
「そっか……」
顔にそばかすがあるポニーテールの人はあからさまに肩を落とした。マネージャーでも探してるんだろうか。でも、好きな人がいるからなんて理由でマネージャーになるのは違うはずだ。他の人も支えなきゃいけないし、そんな半端な気持ちでマネージャーをやるのは失礼だ。続く気もしないし。
「もしよかったら見学してく〜?」
垂れ目で長髪の人がゆっくりした口調で提案してきた。まさかそう言ってくれるとは思わず、戸惑ってしまう。
「え、あ、」
「あ〜いいかも。木兎のやつ、ギャラリーいると絶対やる気出すし」
「どう?」
そんなことを言われては断ることもできない。
「よければ、見てもいいです、か」
どうせ最初から目的はそれだった。叶うとはちっとも思っていなかったけれど。少しくらいは甘えてもいいよね。
「よーし、じゃ、入って入って〜」
がらがら扉を開けてポニーテールの人が入ってく。垂れ目の人も続いて、私もその後にくっついていく。中は外と違った空気が熱い。人の多さと、声量と、汗とでいろいろとすごい。朝練は強制なんだろうか。強豪ってすごいな。ついきょろきょろと見回してしまう。
「先輩、……あれ、瀬尾梨、さん」
声を聞いただけで、胸がうるさくなった。数回しか声聞いたことないのに。しかも私の名前を呼んでくれた。嬉しい。心臓の音を聞かれないように、胸をぎゅっと押さえた。
「お、おはよう」
「何?赤葦、知り合い?」
「えぇ、まあ。この間、河野先生から倉本先生に頼まれたプリント、持ってきてくれて」
「ふうん?」
「……何考えてるか知りませんけど、にやにやしないでくれませんか」
「あー、はいはい」
ポニーテールの人が楽しそうににやにやして赤葦君を見ている。何だか申し訳ない。私と赤葦君は、ただの同級生だから。自分で言っていて悲しくなってくるけど、これが事実だ。言葉を数回交わしただけの同級生。
「で、どうしたの、瀬尾梨さん」
「あ、いや、今日早く起きすぎて、音がするから何部かなあって、見てたら、その」
嘘ばっかり。誤魔化せてるか不安で仕方がない。態度がめちゃくちゃ怪しいし。
「そっか」
「ねえ、赤葦、なんか用あったの?」
「ああ、あのですね……」
納得してくれたか分からないけれど、赤葦君はポニーテールの人……先輩と話し込んでしまった。私はどうしてればいいんだろう。おろおろする私に、垂れ目の人、おそらくこの人も先輩、が言ってくれた。
「えーと、瀬尾梨ちゃん?ここらへんで見てもらってていい?」
「は、はい。お手伝いとか……」
「いいよいいよ〜。時間まで見てて」
ゆるりと笑う先輩。ひとつだけ上とはいえ、ちょっと大人っぽい笑みにくらりとする。こういう人はモテるんだろうなと勝手に思う。赤葦君も周りが小学生みたいな男子と違って落ち着いているし、こういう年上の人がいいのかな。
馬鹿なことを考えながら、ぽつり一人でその場に佇む。ちらちら興味深そうに見てくる男子もいるから居心地が悪い。こんなはずじゃなかったのに。我ながら矛盾しすぎだ。
横を見たら赤葦君はいなかった。彼を探す。特徴的な髪の、確かボクトサン、と、細田が好きな木葉先輩たちと練習している。
踏み込んでボールに触る。反射神経がすごい。明らかに打つと思ってたのに仲間へ華麗にパスする。何秒で考えてんのアレ。高い打点からのアタック。スピード速すぎ、怖い、当たったら死にそう。
正直な話、私はスポーツに全く興味がない。泳ぐのは好きだし、オリンピックとかたまにテレビで見たりする程度。興味がない、けど、ちゃんと観察すれば、やってることすべてすごくて。コートの中の人が、赤葦君が、余計にキラキラして見えた。
分かりにくいけど赤葦君は結構表情豊かで。騙されたら眉間に皺寄せてるし。アタックが決まったらうっすら笑っているし。見ていくたびに新しい赤葦君を発見して、かっこいいが積もってく。そうしてるだけで満たされる。キラキラしすぎて、遠い世界の住人だ。テレビの中の芸能人を好きになっているような感覚。
そんな風にぼうっと見つめていたら、耳をつんざくようなホイッスルの音で現実に引き戻された。
「終了ーっ」
「お疲れ様でした!」
野太い声で男子全員が礼をする。分かってるのについ肩が跳ねてしまう。
練習時間は終わりらしい。片づけをする部員たちを横目にマネージャーの先輩たちを探す。一言くらい言わないと。いた。でも、一緒に片していて声をかけにくい。どうしようかとうろたえてしまう。
「瀬尾梨さん」
「ぅわっ!」
完全にマネージャーさんの方に気をとられてた。目の前に赤葦君が現れて、変な声をあげてしまう。恥ずかしい。死にたい。
「気にしないで教室行っていいよ」
「そ、そう?でも、先輩に見学させてくれてありがとうございましたって、伝えた方がいいかなって」
そう言うと、赤葦君の眠そうな目が少し丸くなった。ちょっと可愛い。
「……瀬尾梨さん、律儀だね」
「え?そう、かな」
「うん。まあ、俺が言っとくから。大丈夫だよ」
「そ、そっか……何もしなくてごめんなさい。ありがとう。失礼しました」
目を合わせられず、でも精一杯の返事をして体育館から出ていく。出た瞬間、疲れがどっと体に感じてきた。変な奴って思われなかったかな。てか、顔赤くないかな。大丈夫か私。鏡、って持ち歩いてるわけない。女子力なんて知るか。頬をぺちぺち叩きながら、教室に向かう。
恋をすると、人は馬鹿になるのかな。
「聞いて」
細田が昼休み、ニヤニヤしながら言った。朝からテンションが高かったけど、どうしたんだろう。仕方ないので聞いてあげることにする。
「うん、何?」
ため息混じりに尋ねると、細田は仁王立ちになってスマホを見せつけてきた。電話帳とライン。木葉先輩、と書いてある。細田の好きな、目が細めの狐みたいな人だ。朝、見たな。……ん?
「木葉先輩と交換した!」
一瞬誰かから盗んできたのではと思ってしまった私は悪くない。けど、細田はテンション高くて行動力もすごいとはいえ、常識はちゃんとあるのでさすがにないか。
しかし、どうやって交換するに至ったか謎すぎる。顔をしかめながら画面を睨む。その疑問は私が聞くまでもなく細田が勝手にぺらぺら答えてくれた。
「先輩、よければメアドとか教えてください!って十回くらい言ったら教えてくれた」
「強要してんじゃんそれ」
どこがよければだよ。低いトーンで冷たく返す私に、逆に細田は明るく返す。
「いや、十回でほんとに諦めようとしたんだけど、根気負けして教えてくれた!これからちょこっとずつラインとかしてみよ!」
彼女は勘違いストーカー女じゃない、はずなので、本当に数回な気はする。私とも無駄なラインしないし。
でも。それはこの世の幸せのように、嬉しそうにスマホを見る細田。行動力ありすぎて羨ましい。私は怖くてそんなこと口にできない。そもそもそう言える彼との経験値がない。
赤葦君と付き合いたいわけじゃない。付き合えたらいいな、と願望を抱くくらい。隅っこ族でも、別世界の住人を好きでいることくらいは、許してほしい。
今日も学校が終わる。帰らないと。今朝のことを思い出して歩いていると、ゆっくりした足取りになってしまう。いつもはさっさと帰るのに。こうしていたらまた会える気がするから。
「あ」
そんな淡い期待通り、ばったりと部活に向かうだろう赤葦君と目が合った。やばい。彼は目力が強くて、見つめるなんてできない。すぐに目をそらした。
「あ、かあしくん」
「どうも」
そのまま終わりかと思えば、赤葦君が私に寄って来た。近い。近いよ、赤葦君。そうでもないはずの距離なのに、近いと感じてしまう。
「白福先輩と、雀田先輩がよければまた来てって」
「そ、そうなの?でも、迷惑じゃない、かな。部外者だし、マネージャーになるわけでもないし」
「まあ、邪魔にならなければいいと思うけど。ちょこちょこ見学者いるし」
「そっかな。失礼じゃない?」
「……朝も思ったけど、瀬尾梨さんって真面目だよね」
「えっ。そんなことない、と思うけどな……」
私がきちんとやろうとすることなんて、料理とか掃除くらいなもんで、割と大雑把だ。「変に真面目だよね瀬尾梨」とは細田や広瀬に言われるけど。
首を軽く傾げる私に赤葦君が切実そうに言った。
「木兎さんも見習ってほしい」
そんなにひどい人なのか。すごく疲れた顔をして、重いため息をついた。その人をフォローするためじゃないけど、朝の感想を伝えた。
「でも、練習見てる限り、皆すっごく真剣だったよね。特に赤葦君と、周りにいた人たち。私全然スポーツ興味ないけど、ひとつのことに打ち込んで努力してるって、それだけですごいよ、やっぱり。誇っていいことだし、かっこいいよ」
嘘偽りない思いを言葉にする。うまく言えてはいないけど、本当にそう思った。努力してる人は好きだから。赤葦君だけじゃなくて、皆すごいと思ったし、かっこいいと思った。赤葦君は特別だけど。
赤葦君は目をしばたかせている。そんなに変なことを言っちゃったかな。冷や汗が垂れてきた。言葉を探していると、赤葦君が口を開いた。
「……ありがとう」
薄くだけど。赤葦君が私に笑いかけた。でも、練習中に浮かべていたような歓喜のものではなくて。恥ずかしさと照れと嬉しさが混ざったような笑み。心臓が、うるさい。顔が一気に熱を帯びていく。
「あ、ご、ごめ、ん。部活あるのに。いってらっしゃい」
「うん。いってきます」
とどめにもう一度。彼はそのまま進んで、もう私を見なかった。
笑顔で人って殺せるんだ。腰が抜けてその場に崩れ落ちてしまいそうになる。完全に不審者だ、私。
好きな人が、私に向けて笑ってくれた。それだけで私の世界は幸せになった。
ようやっと三話ってどういうことなんでしょう。すみません。
好きがどんどん加速する話。赤葦さんとちょこっと話すくらいの間柄にはランクアップしました。