夏休みが終わった。
父であり理事長である浅野學峯から、今度A組にE組の竹林という男子が入ってくると聞いた。浅野はまた何を企んでいるのだかと怪しみつつ、素直に受け入れた。
そうして放課後、黒瀬湊に会うことにした。
適当な場所で待つことにする。少しして彼女がやってきた。一人だ。カルマとは会わないようにしたかったので好都合だった。竹林がいなくなることに落ち込んでいるのか、雰囲気は暗い。
「久しぶりだね」
「……うん。元気?」
「ああ。君は、ちょっと元気がなさそうだね。夏風邪かい?」
「分かってるくせに」
じとりと湊が睨んでくる。その様子に心が満たされて口元が緩んでしまう。
「でもあれは彼が望んだことだ。君が気に病むことじゃない」
「そうなんだけどさ。なんか寂しいから」
「ただのクラスメートじゃないか。むしろ悔しがるところじゃない?」
この椚ヶ丘中学校は他者を蹴落としてのし上がる場所だ。先を越されて歯ぎしりするのが普通の反応だろう。でも、彼女はそうではない。何故なのか、浅野には理解できない。
「……普通ならそうだろうね」
「どういうこと?」
「私たちのE組はちょっと違うから」
切なそうな、それでいてどこか誇らしそうな顔をして、湊が浅野の横を通り過ぎていく。
私たちの、E組。その言葉に引っかかる。いつも通りのE組なら、こんなに団結はしないはずだし、能力が高いわけがないのだ。私たちのE組に、何かが含まれている気がした。だが、今の湊を追いかけて問い詰めても意味はないだろう。浅野は大人しく帰ることにした。
竹林が、E組に戻った。去り際に行った彼の言葉がリフレインする。
――――怖がってるだけの人に見えたけどね。君も皆も。
誰が怖がっているだって?この、僕が。いずれあの父すら支配してみせる、僕が。誰に。
自分で考えていて、ある人物が脳裏にちらついてしまうのが嫌だった。そんなことはない、そんなことはない。否定し続けても現れる。
――――うん、大好き!
ふと。あのときの、彼女の笑顔を思い出した。とても、彼女に会いたくなった。
「――――あ」
気がつけば湊の家の前にいた。もう帰ってしまっているだろうか。それでも会いたかった。待っているとすぐに目的の人物がやってきた。
「学秀、君。どうしたの?」
何故いるんだと困惑した表情を浮かべている。
「……君も」
「え?」
そんな湊を見て言いようのない気持ちに駆られ、手首を掴んだ。顔を近づける。もっと、彼女の顔が見たくて。緊張しているのか体が強張っている。だが、すぐに湊が息を飲んだ。
怯えと陰りのある瞳を浅野に向けている。それでも気にならない。聞きたいことがあった。
「君も、僕が誰かを怖がっていると思うか?」
彼女はなんて言うのか。湊にすらはっきりと言われてしまえば、何かが壊れてしまう気がした。
湊は口を閉じたままだった。どう答えればいいのか考えあぐねているのだろう。それならいっそ言ってほしかった。
永遠のように感じたそれは、湊が浅野の頭を撫でて終わった。何をしたんだ。思いもよらなかったことに、浅野は目を丸くした。子供扱いするなと、振り払うことはできなかった。優しいその手つきに、胸の内が熱くなりさえした。
「あのさ、学秀君」
「……何だい」
「昔君のこと、何考えてんのか本当分かんなくて怖かったんだけど」
「…………」
「でも今の学秀君を見ると、誰かを怖がってるみたいだよ」
言われてしまった。それでも、声音は非難するようなものではなかった。ただ、物悲しく、諭すように。
少ししてから湊の手を離した。不思議な気持ちが胸に広がっていく。生まれたときから感じたことのないものが溢れる。
――――ああ、分かったよ。僕は、君が、どうしようもなく好きだ。
とっくに分かっていたはずなのに。その感情の名は、何と言うのか。ただ何の変哲もなさそうな女子にそう感じてしまったのが悔しくて、認めたくなかっただけだ。
「……君の顔を見たかったんだ。突然、悪かった」
湊から背を向ける。顔が熱い。こんなときに恋なんて、僕は馬鹿なんじゃないか。そう思いながらも、それを捨てる気はしなかった。
湊にはカルマがいることなどどうでもよかった。あの笑顔を、自分だけに向けられれば。奪おうと、思った。
人は激情を隠そうとする
ここを書くのに時間がかかりすぎです。でもとても楽しかったです。次はぐいぐいぐいぐい行く学秀君を書きたいと思います。もっとVSも色濃くなっていきます。次の話がいつになるか分かりませんが。
タイトルはベートベンより。候補他に二つあって迷ったんですがこれにしました。学秀君はこんなのに恋とか認めない認めない!!ってやってたので。