黒瀬湊が浅野学秀に出会ったのは、一年の春だった。とはいっても彼らは同じクラスというだけで、言葉を交わすことはなかった。湊にとって彼は理事長の息子かつ成績優秀な男子なだけの存在であった。
席替えした夏までは。
偏差値が高い椚ヶ丘中学校でも、席替えというイベントは重要なものだった。担任から席替えすると言われ、皆どこか浮足立ってる。ただし、湊はそうではなかった。せっかく慣れてきた席を変わるのが嫌だったのだ。
「黒瀬さん。くじ引いてもらってもいいかな?」
待ち時間まで本を読んでいるかと思い、お気に入りの作家の本を引っ張り出す。しばらく没頭していれば、学級委員長の浅野が話しかけてきた。
「ああ、ごめんね」
適当に箱の中の紙を一枚取る。彼はすぐに前の席へ移動した。目線を紙に戻し、開く。19番。まだ黒板には席の図が描かれているだけで、番号までは書かれていない。湊はもう一度本の世界に戻った。
周囲の声がより大きく聞こえてきた。本から顔を上げ、番号がランダムに書かれていくのを見る。19番、19番。運のいいことに、一番隅の後ろだった。湊は誰にも見られないよう、ガッツポーズする。
「湊ちゃんどこー?あたし一番前だよー」
「私一番角っこ」
「えー、いいなあ。でも遠くなっちゃったね」
「昼はそっちに行くよ。皆いるし」
「分かったー」
友達と他愛のない話をして、席を移動させる。窓際の一番後ろ。この席こそ良い席などないだろう。少しだけ機嫌を良くした湊は再び本を出す。
「黒瀬さん」
誰かが机を軽く叩いてきた。浅野だった。
「隣、よろしくね」
「あ、隣浅野君なんだ。よろしくね」
社交辞令に返しておく。それだけ言ってから、湊は文章にのめり込んだ。
そもそも、湊は最初から浅野学秀にあまりいい印象を持っていなかった。周囲の男子の子供っぽさとはまた違う意味で、だ。彼へ違和感を感じていたのだ。それから、カッコいいけれど学級委員長なんてものを率先してやるところだとかが嫌だった。
湊はこの違和感正体は何なのだろう、と頭の隅で考えていた。
ある日のことだった。浅野が隣でクラスメートの男子に数学を教えている。正直湊も教わりたいと思うほど彼の教え方は上手かった。本を読みながら浅野の解説を盗み聞く。
「で、こうなるんだ。分かった?」
「ああ、分かったよ。ありがとう、浅野」
「そう、よかった」
そう言ってにこりと笑う浅野が何だか仮面のようで、うさんくさい。――――そうだ。うさんくさい。これだ。作り笑顔のように思えて、おかしく見えるのだ。湊は一人勝手に納得した。
男子が離れて自分の席に戻った。中学一年生である湊は、まだ思慮というものが足りなかった。思ったことをすぐ口にする湊は浅野へ声をかけた。
「ねえ、浅野君」
「黒瀬さん。どうしたの?」
「君の笑顔って、うさんくさいね」
ぴしり。浅野の動きが止まった。常に貼り付けている爽やかな笑みも、一瞬崩れたように見えた。だがそれは本当に一瞬で、またすぐに笑った。
「そう見える?ひどいなあ」
「んー、なんか私から見てすっごい違和感なんだよね。変なこと言ってごめん」
二年後の湊なら言わないだろうが、今はまだ中学一年生、13歳にすらなっていないのだ。他人の気持ちをあまり考えない。この後の関係を壊すだとか、そんなことすら気にしないで言っているのだ。
「……ううん。別に、気にしてないよ」
「ごめんね」
このときの浅野は、目を細めていたような気がした。
秋になった。湊の中ですっかり「浅野君の笑顔うさんくさいね」などと失礼なことを言ったことなど消え去っていた。
ある休み時間。次の英語の予習を済ませている湊は暇だった。シャーペンをくるくる回し、ノートに落書きする。滑らせて完成したものは湊が好きな猫だった。
「黒瀬さん、猫好きなの?」
出来栄えに満足していると、辞書を持ってきた浅野が尋ねてきた。話しかけるなオーラの湊に、友達以外のクラスメートはおろか浅野もあまり声をかけてこないのだ。それにあの会話以来、湊は気づいていないが彼が話しかけることはなかった。
「うん、大好き!」
それでも湊は答える。滅多に見せない笑顔つきで。すると、初めて浅野が『うさんくさい』笑顔以外の表情をへ見せた。目を丸くさせ、口を半開きにしている。いつも年齢不相応の浅野が幼く思えた。
「そう、なんだ」
「浅野君は?」
「僕は犬かな。従順だしね」
「あぁ、浅野君躾けるのとか上手そう」
「そうかな?……と、先生が来た」
教師が来たため、そこで会話は中断される。湊は慌ててノートの猫を消した。
次の日、席替えになった。今度は廊下側の真ん中だ。浅野とは離れることになったが、特に湊は別れを惜しむことなどしない。他の女子ならそんなことないのだろうが。
それから半年、湊は浅野と一言も喋らなかった。二年になっても、別のクラスに別れてしまったので話す機会はなかった。三年の期末テスト前まで、一度も。
だから再び話すことなど考えもしなかったし、
「君のこと、支配したくてたまらないからね」
こんなセリフを言われるとは想像すらしていなかったのである。
無垢な花の撒かれる所
学秀君が惚れた(と思われる)箇所を補足。ヒロインのアホの子っぷりが…まだこのとき中一ですので…!!
これだけこちらにも設置させていただきました。結構重要な話ですから、ないと分からないと思いまして…。
タイトルはベートーヴェンより。中一はまだ無垢ですよねってことで。
本当にありがとうございました!