こわれてイノセンス
空気に湿り気が多くなり、気温も上がって夏に近づいてきた。今は午後六時を回ったというのに、空はようやく橙と濃紺が混ざり始めている。
沈む夕日に照らされながら、アイリーンはレッドサウスの街中をヴィクターと並んで歩いていた。
「ヴィクターさん、今日は付き合ってくださってありがとうございました。誰かと感想を言い合うの、久々で楽しかったです」
「私もです。映画の脚本もなかなか興味深かったですし、映画館まで足を運ぶことは少ないですから。やはり巨大なスクリーンと音響の良さは没入感が違いますね」
今日は恋人であるヴィクターとデートだった。ヴィクターはポップコーンパーティーなる映画鑑賞に時折参加するらしい。「気になる映画があるんですけど、時間があれば付き合ってくれませんか」と誘ってみると、二つ返事で了承してもらえた。映画の後のカフェでも感想や考察で盛り上がったし、なかなか楽しんでもらえたようだ。忙しいヴィクターをデートに誘うのは申し訳なくもあるので、せめてリフレッシュしてもらえたらいいのだが。
胸を撫で下ろし目を細めると、ヴィクターが付け加える。
「それに、アイリーンとのデートですから。会話でも映画や美術鑑賞でも買い物でも、楽しいですよ」
美しい顔に広がるやわらかな微笑みや澄んだ眼差しは本物だ。ストレートな発言と優しい視線を浴びて、きゅぅと胸が甘いときめきで締めつけられる。アイリーンも花咲く笑みをヴィクターへ向けた。
「私もヴィクターさんとのデート、とっても楽しいです」
アイリーンの純粋さと上品さが混ざった顔つきに、ヴィクターも唇をほころばせた。
そろそろアイリーンが住むアパートに着く。
さようなら、おやすみなさい。いつもの挨拶でデートを締めようとしたところで、頭頂部に何か冷たいものがぽたりと落ちた。
「あら、雨……」
ヴィクターさん、傘持ってますか。尋ねる前にざあっと大きな雨音が遮った。突然の雨に、アイリーンとヴィクターは慌ててアパートの中に駆け込んだ。
すぐにエントランスに入ったものの、頭はもちろん服も水を含んでおり、床に水が滴っている。体や服の濡れ具合よりも、ヴィクターは眼鏡についた水滴の方が気になるらしく、すぐさま専用のクロスで拭き取っている。
しかし、本当に唐突だった。天気予報だと降水確率はゼロだったのだが。
「今日雨の予報なかったのに……通り雨でしょうか」
「あくまで予報ですから外れることもあるでしょう。しかし、困りましたね。傘はありますが私服は登録していませんから、ヒーロースーツに換装しても乾きません」
「なら、私の家で服乾かしませんか? さすがにその恰好で帰れないでしょうし」
「……良いのですか?」
「もちろんです。風邪引いてしまいますから」
体を鍛えていようと栄養を摂っていようと、雨で体を冷やされれば体調を崩す可能性は高い。濡れ鼠のままでセントラルにあるエリオスタワーまで帰るのも厳しいだろう。
アイリーンが提案するとヴィクターはしばし考え込む仕草を見せたが、さすがに不快感が勝ったのか「お願いします」と受け入れた。
カードキーでオートロックを解除し、二人でエレベーターに乗り込む。
(そういえば誰かを家に入れるの、久々だわ)
無言のエレベーター内で気付く。誰かを、男性を自分の家に招き入れるのは本当に久しぶりだった。掃除する癖があって良かったと内心ほっとする。ヴィクターに清潔感がないと思われたくない。突発的なこととはいえ、胸の鼓動が直に耳元から聞こえてくるような気がした。
「お邪魔します」
「すぐタオル持ってきますね」
予備のタオルを探し、ヴィクターへ手渡す。礼を述べるものの、ヴィクターの視線は周囲に向けられていた。変なものでもあったろうかと視線を辿る。
食事用の小さいテーブルとソファ、読書や作業用の机と椅子、シングルベッド、大きい本棚、クローゼット、カバーがかかった望遠鏡。壁にはヴィクターにもらった蝶の標本と、エリオスミュージアムで買った【サブスタンス】のレプリカが飾られている。
「あまり物がないのですね。少し広めの一Kほどなのにかなり広く見えます」
「これでもヴィクターさんからいただいた標本とか、【サブスタンス】のレプリカとか増えた方ですよ」
「気に入っていただけたようで何よりです。……すっきりしていて私は良いと思いますよ。テーマが統一されていて、家具もセンスがいいですし」
ヴィクターにセンスがいいと褒められると、見慣れた部屋に品があるように思えてくるから不思議だ。服や髪の水分をタオルに吸収させながら、ヴィクターが質問を続ける。
「ここに住み始めてどのくらいですか?」
「確か……三年くらいだと思います」
「独り立ちしてからずっとというわけではないのですね。前の家は不便だったのですか?」
実は前の部屋の方がお気に入りの本屋やパン屋があり住み心地が良かった。だが、前の恋人がストーカー紛いになったので別れた後、友人の助言もあって引っ越したのだ。
正直に言うことでもない。アイリーンは笑って答える。
「長い間住んでましたから、契約満了になってしまって引っ越したんです」
なるほど、と相槌を打った以上の追及はなかった。
「あ、服乾かしますから、お預かりします。」
「あぁ、ありがとうございます。ついでにバスタオルもお借りできますか?」
「拭き足りなかったですか?」
「いえ、脱ぐと下着のみになってしまうので」
ヴィクターの言う通りだ。上着は当然ズボンも十分濡れているから乾かした方がいい。指摘されてアイリーンの顔がかっと赤くなる。
他人の、しかも好きな相手の肌を見るのは少々恥ずかしい。 ヴィクターは大抵きっちり着込んでいて、あまり肌を見せないからなおさらだ。
「そ、そうですよね。私、男性用の服持っていませんし……。ごめんなさい、全然考えてなくて」
「私は構いませんよ。貴方が下着一枚の男がいることが嫌でなければ、ですが」
ヴィクターの表情は照れも羞恥もなく冷静だ。ならば意識しすぎているアイリーンが悪い。軽く頭を振って熱を冷ます。
「いえ、私は別に大丈夫です。バスタオル持ってきますね」
逃げるように背を向ける。ヴィクターの視界から消え、アイリーンはバスタオルとドライヤーを探しながら悶々とする。
(別に何もする予定なんかないのに……恥ずかしい)
恋人として交際しだして二ヶ月と少し。丸一日のデートは数度。仕事終わりのお茶であればそれなりに。多忙なヴィクターのことを考えれば、かなりアイリーンを優先してくれているだろう。
気恥ずかしいが、ヴィクターと話せたなら、一緒にいられるなら、アイリーンは十分心が満たされるのだ。セックスしたいか否かで問われれば「どちらでも構わない」になる。必ずしも性行為イコール愛情ではないから。もちろんヴィクターが非言語的コミュニケーションをしたいと言うなら笑顔で応じるだけだ。
ヴィクターもおそらく同じだろう。ふいに手を繋いできたり、抱きしめられたり、誰にも見えないようにキスをされたり、艶めかしく耳元で囁かれたりするけれど、体を舐めとるようなねっとりした卑猥な視線を感じたことはない。
新しいバスタオルとドライヤーを用意して戻れば、ヴィクターはすでに上着を脱いでいた。さすがヒーローだけあって、筋肉があり引き締まっている。細いと思っていた体はちゃんと厚みがあった。どきどきしながらもバスタオルを手渡す。
「ヴィクターさん、どうぞ」
「ありがとうございます。 貴方も着替えた方がいいでしょう。貴方も風邪をひきます」
「はい。ありがとうございます」
クローゼットからシンプルなカットソーとサマーニットのスカートを持ち、バスルームで服だけ着替えた。ついでにコンタクトを外して眼鏡へ変える。
「アイリーン、ズボンはそちらに……」
リビングに戻ってきたアイリーンを見て、ヴィクターは少し驚いた顔をした。ごく一般的なルームウェアのはずで、配色もモノトーンと奇抜な色合いではない。
「どうかしましたか?」
「いえ……貴方が眼鏡をかけているものですから。目が悪かったのですか?」
質問にあぁと納得の相槌を打ち、深き森の色をしたグリーンの眼鏡に触れた。今までヴィクターの前で眼鏡をかけたことがなかったので、当然の反応だった。
「はい。私、実は目が少し悪くて、外にいるときはコンタクトなんです。子どもの頃、暗いところでも本を読んでましたから」
「なるほど。眼鏡をかけている貴方も良いですね」
「ありがとうございます。ヴィクターさんも眼鏡お似合いですよ。元から知的な顔されてますけど、もっとスマートに見えます」
「はぁ。眼鏡をかけただけで知的というのは短絡的ですが……褒め言葉として、素直に受け取っておきましょう」
「はい。あ、ソファでも椅子でもベッドでも、どこにでも座ってください」
ヴィクターの服を洗濯機に入れ、乾燥モードボタンを押す。一時間半ほどあれば乾くはずだ。
「何かあったとき困りますから、今度は男性用の服用意しておきますね」
「おや。それはお誘いですか?」
「え……」
ぱちり。一度だけまばたきをしてアイリーンは目を見張った。
主語がなかったが、さすがのアイリーンでも意味するところが分かる。ヴィクターでもそんな冗談を言うのか。
しかし、違いますよと照れながら笑い返すには、ヴィクターの瞳は真剣で妖しい光が伴っている。
「私は、貴方とセックスしたいですが」
――――彼は、なんて言った?
単語が頭に入らなかった。ゴウン、と鳴った洗濯機の稼働音がひときわ大きく聞こえる。深呼吸しようにも息が上手くできない。
目の前の男性の表情は露ほども動かず、ただじっとアイリーンを見つめている。
「アイリーンは嫌ですか?」
胸を刺すような眼差しが弱まった。まさしく雨に濡れた子猫のようで、切なく心が痛む。
「いえ、その、急でびっくりしてしてしまって……。ヴィクターさん、セックスにはあまり興味ないかと思ってましたから」
「……仰る通り関心は薄いですが」
ヴィクターがアイリーンとの距離を詰める。右手をアイリーンの耳元に当てると、形を確かめるように指でなぞった。たったそれだけのことなのに体がぴくりと震え、熱を帯びていく。
「貴方と過ごしていて、いわゆる『むらっとくる』という感覚がどういうものか、最近分かりました」
つまり、アイリーンで興奮したことがある、ということで。
性欲イコール愛情ではない。ないけれど、関心は薄いと言うヴィクターから求められると、どろりとした感情が胸の中に生まれる。初めて恋をした初心な少女のように、体の内側から幸福が沁みていった。
「もちろん単なる性欲解消ではなく愛情表現の一種として、貴方とセックスしたいと思っています」
しかもわざわざ前置きしてくれている。ほんの少し揺れたヴィクターの声にますますどきどきして、抱き締めたくなる。
口を閉ざしたままのアイリーンに、ヴィクターが目を伏せた。
「……貴方の嫌がることはしたくありませんから、嫌であれば断ってください」
「嫌じゃないです!」
腹から声が出た。部屋に響くほど大きな声だったが、気にしていられなかった。安心させるように、喜びがすべて伝わるように、けれど面映ゆい気持ちを抱えながら、ゆっくり心の内を打ち明ける。
「ヴィクターさんがそう思ってくださってるの……すごく、嬉しいです。私も……貴方としてみたいです」
「……ありがとうございます、アイリーン」
アイリーンの飾らない言葉に、ヴィクターは静かに笑った。
無機質な照明が煌々と光る部屋で二人、微笑み合う。
だが、そこでアイリーンはひとつ問題を見つけてしまった。
「でも、私ピルや避妊具持ってません……」
子どもが欲しくてする行為ではないのだから、薬や避妊具を用意しなければ。ここ数年恋人はいなかったし、ヴィクターともする予定がなかったのだから当然準備しているわけもないのだが。今から買いにいくべきか。しかし、買いに行くならアイリーンになるわけで。
どうしようかしら、と頬に両手を当てて慌てていたとき。ヴィクターがあっさりと答えを出した。
「あぁ、避妊具の方はちゃんと所持していますのでご安心を。勃起時のサイズも測って試したので問題ないかと」
「そ、そうです、か」
準備がよすぎる。測ったというのだから、前からアイリーンと行為に及びたかったことになる。その事実にますます体温が上がった。
「シャワー、浴びますか?」
紳士的にヴィクターが提案する。しかし、ターコイズブルーの瞳はどこかぎらぎらしていて、今すぐしたいと言っているように思う。刃物の切っ先ような鋭さすら感じる視線を受け、アイリーンの下腹部がうずいた。
「いえ、このままで……大丈夫です」
無言でお互い眼鏡を外す。どうせすぐ邪魔になると思ったから。
指は細いが大きな手がアイリーンの細い肩を掴んだ。顔を上げ目をつむれば、くちづけが落とされる。触れるだけ、重なるだけのキスを繰り返す。
「ふぁ、」
突然児戯のようなキスから急に下唇を吸われ、体が反応する。
「ん……」
ぬるり、隙間から異物が口内に侵入してきた。受け入れて絡める。目を軽く開くと、唇は離れても舌はウロボロスの蛇のように繋がっている。少しざらついた舌の感触、唾液のぬめり、口内の温度。いろんなものが口の中で混ざり合う。唇を重ねるたび、ヴィクターに生気を吸い取られているような気がする。
宿命の相手が再会を果たしたかのような情熱的で、淫魔がしてきそうような淫猥なキスだ。こうして何度も唇を交えることすらなかったのに。ヴィクターとの初めてのことに戸惑いながら、アイリーンはヴィクターを受け入れる。
二人の身長差は大きい。ヴィクターがかなり屈む形になるのが忍びない。負担を減らすためアイリーンも精一杯背伸びをしてみる。
「ん、ふぅ」
スカートの上から脚を撫でられる。細さを確かめるような手つきで。脚の上で指が踊っている感覚に体を揺らしてしまう。
数分、あるいは十分以上か。唇が一旦離れる。ヴィクターはどちらのものか分からない唾液がついた自分の口の端を舐めとった。それだけのことがとても艶やかで、アイリーンの心臓が大きく跳ねた。
もう脱いだ方がいいかしら、などと考えていると、
「……アイリーン、失礼します」
ふわっと体が宙に浮いた。
(…………え?)
ヴィクターに、いわゆるお姫様抱っこをされている。
「あ、あの、ヴィクター、さん?」
「ベッドに移動しようかと思いまして」
おかしなことは何もないでしょうと言わんばかりの幼げな表情に、疑問を抱いているアイリーンの方が変な気がしてくる。
しかし、わざわざ抱き上げる必要はないのでは。たった数メートルすらない距離なのだから。
困惑と恥ずかしさで頭の中がパニックになる。お姫様抱っこなんて初めてだ。しかも三十も過ぎて、お姫様抱っこ。
アイリーンは小柄で華奢な体つきとはいえ、当然四十キロ以上はある。ヴィクターが鍛えているヒーローでも重さは十分感じるだろう。
「貴方は細身ですから、とても軽いですよ。もう少し食べた方が良いくらいです」
心を見透かしたように言い放たれる。下ろしてくださいと願う暇もなくそっとベッドへ下ろされた。
ぎしっとベッドのスプリングが鳴り、ヴィクターがアイリーンへ覆いかぶさった。小さな体は大きな体にすっぽりと隠れてしまう。
「アイリーン」
ヴィクターは優しく、けれど艶のある声音で名を呼ぶ。ターコイズブルーの瞳から注がれる眼差しは火傷しそうなほど熱い。
今からこの人に抱かれるのだ。そう考えただけでまたアイリーンの体温が上昇する。
「ヴィクターさん……」
来て。もっと触れて。許可か、あるいは懇願の目を向け、アイリーンは鼻にかかるような甘い声で愛しい人を呼んだ。
それが合図となって、もう一度キスの雨が降った。
「ん、んぁ、ふ……」
くちづけが唇から耳へ移動する。わざとらしく、にちゃり水音が鼓膜に入った。ヴィクターがアイリーンの首筋に顔を埋める。さらさら流れる銀髪の感触が少しくすぐったかった。
(猫の毛繕いって、こんな感じなのかしら)
丁寧に汚れを舐め取られているような気がして、羞恥が募る。ヴィクターにも耳の温度が丸分かりだろう。
アイリーンが酸素を求めて呼吸をすると、ヴィクターのにおいがした。ほんのり香る清涼感のあるコロンと、染みついてしまったのか後からかすかにくる薬品の刺激臭。体に残るほど研究に打ち込んできたのが分かって、改めて本当にすごい人と付き合っているのだと思う。
肌が直接空気に触れるのを感じて目線を下げれば、ヴィクターにカットソーをまくられている。薄緑でレースがついた下着が露になった。
(地味なの着てなくて良かったわ……)
アイリーンは見えないところまで気を使っておいた自分を褒める。
「外しますよ」
「は、はい」
ヴィクターはアイリーンの背中に手を回し、器用に片手で下着のホックを外した。縛りから解放された乳房がぷるんと揺れ、まだ桃色の頂点が晒される。男性の視線を受けるのは久々で、アイリーンはつい目を逸らしてしまう。ヴィクターはアイリーンの胸を見つめながら、腕を通して脱がした服や下着を横に置く。
豊かとはいえないが、ちゃんと質量がある胸にヴィクターが触れる。下から上へ形を確かめるように。成人男性の手にちょうど収まるくらいの胸は手の動きとともにぐにゃりと形を変える。一見マッサージをしているようにも思えるものの、手つきはしっかりといやらしい。
「綺麗な形をしていますね」
「そ、そうですか?」
「えぇ。やわらかいのに弾力があって……単なる脂肪のはずなのに、心地よくてずっと揉んでしまいたくなりますね」
おそらく他の人が口にしたら嫌悪感を抱きそうになるのだが、ヴィクターからならば喜びが勝る。身体的な部分は「細い」としか評価されるだけだったからだろうか。
ヴィクターは胸を強く掴むわけでもなく、あくまでソフトに優しく揉まれて少しくすぐったい。なのにきゅっと腹の中は熱くなっていく。じわじわ波が近づいてくる。
毎回本能のままに触れられてきたので、ちょっとだけ不思議な触れ方にアイリーンは違和感を覚えた。
「あの、横から揉むのは何でですか?」
「胸の横にあるスペンス乳腺という部分を刺激すると、乳房が気持ち良いのだそうです。如何ですか?」
「そうですね……ちょっとくすぐったさの方が強いかもしれないです」
「ふむ。まだ最初ですからね。徐々に開発していきましょうか」
開発、という少し過激な発言に頬が火照った。ヴィクターの落ち着いた表情からして深い意味など存在せず、適切な言葉を使っただけであることは明白なのだが。
長い時間白いふくらみを弄びながらキスをされ全身を撫でつけられれば、胸の先がぴんと尖っていくのは必然だった。気付いたらしいヴィクターが頂をきゅっとつまむ。アイリーンが弱々しい声を漏らすと、吐息ごと飲み込むようにヴィクターはアイリーンの口を塞ぐ。
(唇、ふやけちゃいそう……)
こんなに時間を費やして口を吸われたことがない。けれどやめないでほしい、もっとしてほしいと本能が訴えてくる。
「……痛くないですか?」
アイリーンを見下ろす表情はかすかに不安げだった。普段の、冷静沈着で気負いなく物事を進めるヴィクターは素敵だけれど、今のヴィクターにも心惹かれる。
「はい。大丈夫です」
胸を覆う手に触れ、アイリーンはやわらかく微笑んだ。ヴィクターも安堵を唇に形作った。
しばらく乳房の突起にわざと指を当てないよう周囲を撫でていたが、突然口に含まれ硬く白い歯で軽く噛まれる。
「あっ……」
ヴィクターがアイリーンの反応を伺うように表情を観察したまま、ぷっくり膨らんだ乳首をちろちろ舐め転がし、ジュースの底にあった果物を飲むくらいの強さで吸う。
「や、ん……。ん、んっ……」
キスだけで悦楽を感じていたはずが、徐々にアイリーンの口からくぐもった声が押し出される。
――――最初からこんなに気持ちいいの、初めてだわ……。
実は、アイリーンはセックスであまり感じたことがない。アイリーンにとって性行為は愛情表現の一貫で、恋人が一方的に気持ち良くなって満足していた。演技するのに多少罪悪感がありながらも、伝えることはできなかった。いわゆる不感症なのかもと思ったが、愛情の重さの差だろうか。それとも丁寧にヴィクターが触れてくれるからだろうか。後者だと信じたい。
「ん、あ……はっ……。ふぅ……」
唇、うなじ、胸、脚、お尻。一番敏感なところ以外を触れられながら、アイリーンは目線を自分の胸からヴィクターの体へ移す。アイリーンと違う、広い肩、平らで硬そうな胸部。男性の体だ。
ヴィクターの肩から腕へと、右手の人差し指で触れる。あえて卑猥に。熱を持った潤んだ瞳で見つめる。
「私も……ヴィクターさんに触っていいですか?」
「……えぇ、もちろん」
こぼした笑みは穏やかなのに蠱惑的で、また心臓が痛くなった。こんなにも艶やかな男性を見たことがない。
起き上がって対面する。ついでに肩までかかったカットソーを脱いだ。
ヴィクターがずっと両手で包んでいるように、アイリーンも男性の胸筋へ触れてみる。背の高さに反して痩せているように感じた体はやはりしっかりと硬く力強い。ぺたぺた、叩くように手を押し当てる。
「やっぱり鍛えてる方の体ですね」
「【サブスタンス】の回収のためには体力づくりは欠かせませんから。誰にもいない時間にトレーニングしていますよ」
「真夜中とか、早朝ですか? ちゃんと休んでください」
「ふふ。ここ数ヶ月は日中に行っていますから、大丈夫ですよ」
ヴィクターは笑みを浮かべた後、アイリーンのくっきり見える鎖骨にちゅっと唇を落とす。
アイリーンがヴィクターの股間へ視線をずらすと、タオルで隠れているのに膨れているのが分かる。ヴィクターも、ちゃんとアイリーンの嬌声や体で興奮してくれているのだろうか。
うなじや鎖骨を舐められ、胸を揉まれながら、アイリーンは大きくなった性器に指でちょんと触れた。ヴィクターの体が一瞬跳ねる。目を丸くした顔はどこか子どもっぽく見えて可愛らしい。
「ここも、触れていいですか?」
上目遣いに尋ねれば、ヴィクターの口の端が下がった。少し温度が低くなった目つきに、やっぱり嫌だったろうかと不安になる。
「すいぶん積極的なのですね」
「え、あ……ごめんなさい。やっぱり嫌、でしたか?」
ヴィクターの声音には驚きと、別の何かが含まれていた。
性行為の態度について、慣れている方が面倒くさくないとか初々しい方が可愛いとか、いろいろあるらしい。ヴィクターは後者が好ましかったのだろうか。初めてと言っていい欲が先行してしまった。
アイリーンが顔に陰をつくらせると、ヴィクターは目元をいくぶんか和らげてアイリーンのくびれをなぞった。
「嫌ではありませんよ。ただ、普段の貴方からはこんな風に積極的になるとあまり想像できなかったので」
「セックスは一応、初めてではありませんから」
昔の恋人たちと行為をした経験はある。トータルではそれなりに回数を重ねているが、セックスは気持ちいいものという印象はない。
だからなのか、ヴィクターとセックスしたいという気持ちは結ばれてもなかった。
「……少し妬けますね」
「はい?」
「私は貴方が初めてですが、貴方は私が初めてではないですから」
(こ、これで初めて……だったの?)
自然すぎて初めてだと思えない。大抵事前に予習してくるヴィクターのことだから、行為についても調べたのだろう。上手く実行できているのがヴィクターの凄まじいところだが。
けど、すぐにアイリーンの頬が緩んだ。
(私が、この人の初めて繋がる相手なのね)
一年前まで空で輝く星だった、今こうして目の前できらめいている人の、初めての恋人で、初めて体を重ねる相手になる。からっぽだったグラスに注がれていくものが醜いと感じながら、アイリーンはヴィクターの手を取った。まだ雨のせいか冷たい。温めるように両手で包む。
「体の繋がりがなくても私は幸せですけど……でも、こんなに触れたいと思うのも、触れてもらって嬉しいと思うのも、ヴィクターさんが初めてですよ」
確かにアイリーンは他の男性と体を交えたことがある。でも、アイリーン・シェリーにとってはヴィクター・ヴァレンタインがずっと恋をしていた人で、愛する人だ。
一緒にいられるだけで幸せで、言葉で想いを伝えたくて、時折熱を感じたくなって。唇から、手から伝わる温度さえも愛おしい。
アイリーンはヴィクターの顔を覗き込む。瞳に春の星のような優しい明かりを灯して。
「ヴィクターさんはどうですか?」
「……私も、同じ気持ちですよ。アイリーン」
じっとアイリーンを見つめていたヴィクターが目をほころばせた。そして握られていた手をそのまま持ち上げ音も立てず口をつける。ヴィクターの表情はどこか挑戦的で色めいている。気障っぽい所作すらも似合うのだからまたどきりと胸が高鳴った。
「初めてですから……私に貴方の気持ち良いところ、教えていただけませんか」
「はい。私にも貴方の良いところ、教えてくださいね」
映画や童話のような動作にときめきつつ、アイリーンもにこやかに微笑んだ。
空気が元に戻ったところで、ヴィクターが一度立ち上がりタオルを剥いで下着も脱いだ。
同時に半分勃ちあがったものがアイリーンの視界に入る。ついぎょっと目をいてしまった。人体特有の生々しさやグロテスクさに、ではない。
(何だか、すごく、大きいような。男性のって、こんな感じだったかしら)
身体的な、しかも性器など人と比べるものではないが、ヴィクターのものはひどく大きいように思えた。ヴィクターは六フィートもあるし、体格も関係ありそうだ。
背を向けるアイリーンへ生まれたての姿になったヴィクターが声をかける。
「どうしました、アイリーン。何か気になるところでも?」
「い、いえ。その、ペニスってそんなサイズだったかしら、と思って。こんなこと言ってごめんなさい」
「ふむ。一般的なサイズを調べていないので正確なことは言えませんが……私は身長が平均より高いですから、少し大きいかもしれませんね」
「そ、そうです、よね」
(大丈夫……よね、多分)
アイリーンは自分の腹をさする。ここまで来てひとつになれなかった、と締めるのは悲しい。もちろんいくらでもやりようはあるが、やりきれなさは残る。
小さく息を吸い、アイリーンがまず竿を軽く握った。すでに硬い男性器は異様なほど熱を持っていて、手を離してしまいそうになる。
左手で上下に大きなものを動かしながら、右手で湿っている頂きの割れ目をぐりぐり突く。
「ここ……気持ちいい、ですか?」
ちらと視線を投げる。もう不要だった記憶を何とか引き出して手を動かしているが、実際どうなのだろう。
「えぇ……とても良いですよ、アイリーン」
ヴィクターは子どもをあやすようにアイリーンの頭を一撫でする。単純なことなのに喜びを感じてしまう。アイリーンが子どもだからなのではなく、すりすりと大事なものを眺めるように触れてくれる男性のことを好きだからだ、と思うことにする。
アイリーンは緩急をつけてヴィクターの中心を擦り続ける。先端と裏筋を小さな手で刺激し、時々指の先でつぅと撫ぜる。
ヴィクターはというと顔を歪め、息を荒げている。毎回翻弄される側のようなアイリーンとしては、ようやく優位に立っているような気がして嬉しくなった。
「……っ、はぁっ……」
歯を食いしばっていたヴィクターの口から大きな熱が吐き出される。
「はっ……アイリーン、もういいです。手を離してください」
すっかり猛々しくなったヴィクターから力強く引きがされる。アイリーンとしてはちょっと不満だった。口先を尖らせ、拗ねた表情をヴィクターへ見せてみたものの、ヴィクターはにっこり笑って汗が滲むアイリーンの額へ優しくくちづけるのみだった。
アイリーンの腰にあったヴィクターの手が太もも、足の付け根へと移動する。もう少し動かせばアイリーンの秘密の場所だ。
「アイリーン。こちら、触れても?」
ここまで来て拒否するわけがない。アイリーンは首を縦に振る。
これでもかというくらい丁寧に触れられたおかげで下着は十分湿っていて、ぴったりと貼り付いている。ヴィクターが下着に手をかけてするする脱がせていく。粘液がクロッチ部分とくっついて離れたのが見えて、アイリーンは目を逸らした。
羞恥で目を閉じそうになっていると、アイリーンの視界がぐるんと天井になった。すぐに大きく脚を広げられ、ヴィクターの視線は愛液でべとべとになった性器に注がれている。いやらしいというより好奇心が強そうな眼差しに、感じやすい部分がきゅっと締まる。
「あの、そんなに見ないでください」
視線から逃れるように両手で覆うと、ヴィクターはくすりと薄く笑った。
「失礼。初めてですからつい観察してしまいました」
無理矢理隠していた両手を元の位置に戻された。閉じていたやわらかい箇所が二つの指によって開かれ、つぷ、と長い一本の指が入ってきた。
「……っ」
何も言われず奥へ根元まで押し込まれる。一本だけのはずなのに金属物でも打ち付けられている心地だ。処女ではないのに。長い間自分で慰めることすらなかったからかもしれない。
ゆっくり指を出し入れされ、下半身がとろけていくほどの刺激をヴィクターから与えられる。急に浅いところを掻くように動かれ、アイリーンは弱々しかった声がだんだん抑えられなくなっていく。
「ぁ、んっ……あっ、あ、やっ!」
突如神経が集中している部分をつままれ、腰が浮く。脳が焼けたかと思われたが、シーツを握って現実に耐える。ヴィクターはあからさまに反応が大きくなったアイリーンへ問う。
「女性はクリトリスが良いと聞きますが、どうですか?」
「ん……っ、はい、気持ち、い、です」
アイリーンは素直に答える。だって、本当に気持ちいい。
「それは良かった」
身をよじるアイリーンに、ヴィクターが愛おしげな眼差しを送る。
二本目が入ってきた。女の体で最も大事なところを荒らされているのに、もっと乱してほしいと矛盾した気持ちが溢れてやまない。
五分もすれば、アイリーンの頭も下半身もぐちゃぐちゃになっていた。
「これくらい濡れているなら十分でしょうか」
避妊具を袋から出す音がする。半透明に透けたゴムが頭から根元付近まで、膨張したペニスをゴムが包む。
アイリーンとヴィクターの性器が触れ合う。粘ついた秘部を擦られて、すでに限界にまで達しそうな淫らな官能が上限を突破してしまいそうだった。
「ヴィク、た、さん……」
早く、早く。他でもない貴方とひとつになってみたい。
アイリーンが名前を呼んで乞う。ヴィクターの口はぐっと引き結ばれ、眉間にシワが寄る。ふぅ、と深く呼吸した後、アイリーンへ体重をかけた。
「……今更ですが、髪がかかりますね。縛りましょうか」
ヴィクターの髪は長く、前へと流している。ヴィクターが下を向けば当然アイリーンへかかるだろう。
「いえ、ヴィクターさんの髪、好きですから。こうするとカーテンみたいで綺麗」
重力に逆らわずまっすぐ落ちていく長い髪を、アイリーンは指先で触れる。いつ手入れしているのだか、触り心地の良い銀髪。ゆるやかなウェーブを描き、暗く緑がかったシースグリーンのアイリーンの髪とは正反対だ。間接照明も消さずに行為をしているせいで、なおのこと光るカーテンのようだった。
「カーテンみたい、ですか。詩的で面白い表現ですね」
ヴィクターがやわらかく笑う。そして、そのまま身を入れていく。
「ん、あっ……」
(やっぱり大きい……)
ナカに大きなモノが入ってくる。痛みはない。むしろ挿入されただけで甘い痺れが体を走る。
ついにヴィクターがアイリーンの体に根元まで入った。下腹部が少し膨らんでいて、きちんと入っているのがアイリーンの目にも分かる。
「貴方は小柄ですから全部入るか心配でしたが、何とか入りましたね。苦しくないですか?」
「はい……大丈夫、です」
「では、動きますよ、アイリーン」
「はい、ヴィクターさんの好きなように動いて……あっ、」
一突き、一突きと内臓が押し上げられる。痛いのに痺れるのに甘い、何だかごちゃごちゃした快感が溢れて止まらない。
「ヴィ、くたぁ……さんっ……!」
ヴィクターの頬に手を添える。ため息をつきたくなるほど美しい顔を見つめる。
余裕のないターコイズブルーの瞳。汗ばんだ肌。律動に合わせて手の甲にかかる髪。アイリーンの目にきらきらあたたかな光が映し出される。アイリーンにとって美しいもの。星のようなひと。
(好き……私、この人のこと、本当に、好きだわ……)
たまらなくなって、薄い唇に同じものをくっつけた。ヴィクターの目が見開かれる。
「好き、です。貴方のことが、好き……」
――――星のような貴方。いろんな顔を見せてくれる貴方。一緒にいるだけで幸せになれる貴方。もし別れてしまったとしても、好きになってよかったと心の底から言える貴方。幸せになってほしいと言える貴方。
アイリーン・シェリーは、ヴィクター・ヴァレンタインのことが、好きだ。
ありったけの愛をこめて告げると、ヴィクターが口に笑みを形作る。細められた目は嬉しそうで愛おしそうで、そしてほんの少しだけ泣きそうだった。
「私も……貴方のことが好きですよ、アイリーン」
ヴィクターがアイリーンへキスを落とす。深く、何度も。
あんまりにも高い熱に、体も心も溶けてしまいそうだった。溶け合ってひとつの存在になってしまいそうな、奇妙な感覚がアイリーンを襲う。
「あ、もっ、私っ……!」
(もう、だめ、)
耐え切れずにぎゅうっとヴィクターの首に腕を回す。
「あっ、ぅっ……!」
奥に一突きされた途端、意識が刹那宇宙に飛んでいった。消えないようにヴィクターの体に力いっぱいしがみつけば、アイリーンの蜜壺もぎゅっと締まった。
「っ……! アイリーンっ……」
唾液でてらてら光る唇からヴィクターは熱のこもった低音を漏らし、アイリーンを揺さぶるのを止めた。
頭の中が、ぼーっとする。体中が快楽の膜に包まれ、気持ちよさのさらに上の感覚がアイリーンの五感全てを支配している。
(あったかくて……きもちいい……)
経験したことのことないオーガズムに達し、アイリーンの知能は大幅に下がっていた。浅い呼吸で少しでも落ち着こうとすると、
「すみません、アイリーン。私は、もう少しなので……動きます」
「え、あ……私、いったばかり、でっ!」
アイリーンは有無を言わさず腕を引っ張られ腰を引き寄せられると、すぐさまヴィクターに激しく腰を打ち突かれる。
シンプルなシングルベッドがぎしぎし軋む。アイリーンのあられもない姿がますます晒されていく。
「あ、あっ! はんっ、くぅ……!」
普段涼しげなヴィクターの額、頬から汗が飛び、アイリーンの顔や体にまでかかる。
「抑えが効かなくて、すみません……。脳もどこかに堕ちていく感覚は初めてで……」
「だい、じょぶ、で、あっ……!」
まともな受け応えができない。アイリーンができることは、穿たれるたびに喘ぐことだけだ。
「ヴィク、たぁっ……」
「!」
気持ちよすぎて敬称を加える余裕も、初めて呼び捨てしたことに気付く暇もなかった。どろどろになった声音で名を口にした途端、アイリーンを蹂躙するものがひときわ大きくなったような気がする。
いたい。くるしい。きもちいい。すき。刹那刹那、アイリーンの感情が変わっていく。
「っ、く……」
何回目だろうか、どんと奥へ突くと、ヴィクターの口から苦しげな声がこぼれた。一方で欲望がアイリーンの中で出ている。薄いゴムで覆われているものの、どろりと粘ついたものが吐き出され、アイリーンの体が満たされていくのが感じられる。
最奥まで中身をぶちまけるように、ヴィクターは自身をアイリーンへ押し込める。再びアイリーンの心身ががくがくと痙攣し、声にすらならない音がする。
「ぁ、ぁ……」
二人が絶頂に導かれたところで、アイリーンを貫くものがゆっくり抜かれた。
息を整え、ヴィクターとアイリーンは無言で見つめ合う。エメラルドグリーンの美しい瞳に乱れた姿のアイリーンが映っている。
「アイリーン」
「ヴィクター、さん」
どちらからともなく顔を近づけ、そっとくちづけを交わす。ちゅ、ちゅ、とお互いの唇を啄む。余韻を逃さないように。
しばらくキスした後、ヴィクターが起き上がった。
「すみません、アイリーン。苦しかったでしょう。痛みはありませんか?」
「少し苦しかったですけど……ヴィクターさんを感じられて、嬉しかったです」
高温の炎になったかのような体温。密着しないと分からない香りとにおい。耳から脳へ浸透する艶めかしい低音。絡めた舌の味。欲望が漏れた瞳。すべてを感じて幸福になった。
アイリーンが照れを含みながらはにかめば、ヴィクターの目が和らいだ。
「興味はなかったのですが……貴方とするセックスは、とても良かったです。快楽だけを得ようとするわけではないから、でしょうか。私にとって性欲は溜まったら適当に解消するものでしたし」
「私も……気持ち良かったです」
あんなに矯声を上げて、隣に聞こえやしないか心配もしなかった。
「ふふ。乱れる貴方は大変セクシーでしたですよ」
笑うヴィクターの方がずっと大人びていて色っぽい。本当に初めてだったのか怪しいくらいだ。嘘をついたところで利は全くないから本当なのだろうけれど。
「……ヴィクターさんの方がセクシーでしたよ」
アイリーンも上半身を起こす。余裕そうなヴィクターが何だか悔しくて、垂れた目をつり上げて子どもっぽく睨んでみる。
「おや。それは嬉しいですね」
だが、ヴィクターは普段通りの落ち着いた顔で返すだけだった。それからアイリーンの右手に左手を重ねてくる。ミルクショコラのように甘い瞳を向けながら、再び顔を寄せてきた。
アイリーンも目をうっすら開きながらキスを待っていると、
――――ピー。
洗濯機の無慈悲な音が部屋に鳴り渡った。
ふわふわした綿菓子のような夢から現実に引き戻される。そういえば、最初は雨が降って服が濡れたから乾かそうという話だった。すっかり忘れていた事実を思い出し、アイリーンははっと我に返った。
息遣いが聞こえる距離でヴィクターも止まり、顔が離れる。端正な面立ちには少しばかり未練が浮かんでいた。
「もう一度……と言いたいところですが、明日は予定があるので、これで終わりにしなければならないのが惜しいですね」
「そ、そうですね。もう服も乾きましたし……。汗かいてますから、ヴィクターさん、軽くシャワー浴びてください」
「別段急いでいませんから、貴方が先で構いませんよ」
「ダメですよ。早く帰って、ちゃんと明日に備えてください」
「……分かりました。では、バスルーム、お借りしますね」
アイリーンにしては強めの口調で言うと、ヴィクターは礼を言ってバスルームに向かっていった。
ヴィクターがシャワーを浴びている間、アイリーンもタオルで体液まみれの体を拭いて部屋着に戻り、汚れてしまったものを洗う。今すぐ眠りたくなるほどの倦怠感がずっしりと全身を覆っているが、ヴィクターを見送らずに寝るわけにはいかない。
洗濯機の近くにバスルームがあり、ドアで隔てられているがシャワーの水音が聞こえる。
――――私も……貴方のことが好きですよ、アイリーン。
紡がれた睦言を脳内で反芻する。きちんと言葉にされたのは幾度だってある。けれど、ゆったりとして穏やかな時間に伝えられる「好き」と、激しく求められながら告げられる「好き」は同じようで違った。何もかも透明で優しくて美しい「好き」と、心を燃やして出てきた「好き」。どちらも胸も脳も焼き付けてくるような喜びがあって、じぃんと残り続ける。
(幸せ、だわ)
体の繋がりがなくても幸せだったけれど、好きな人のすべてを感じるのも幸せだった。暑さや人肌は苦手そうだったけれど、ヴィクターも同じだったらいい。
ドライヤーで髪を乾かし、数十分もすればすっかり数時間前のヴィクターに戻った。エリオスタワーへ帰るヴィクターを玄関で見送る。
「では、私はこれで失礼します。おやすみなさい、アイリーン」
「はい。ヴィクターさん、おやすみなさい」
ヴィクターがドアを開いて出て行く――――と思ったところで、頭だけ振り向いた。忘れ物があっただろうか。首を傾げるアイリーンに、ヴィクターは耽美に微笑んだ。
「機会があれば、またしましょう」
アイリーンの顔がぼっと赤く染まる。ヴィクターもまたしたいという意欲があるのだ。
ヴィクターの目に知らぬことに対する楽しげな期待の灯火はない。もっと別のシチュエーションやプレイを試したいから、という理由ではなさそうだった。
アイリーンは小さく頷く。
「は、はい」
ヴィクターはアイリーンの返事に満足そうに微笑を唇に浮かべる。そして、今度こそばたんと玄関の扉が閉まった。
「ふぅ……」
体と頭の疲れがアイリーンを引っ張って睡眠へ誘う。体も洗っていないし化粧も落としていないが、もう眠気に抗えない。
ふらふらベッドルームまで歩き、先ほどまで情事を行っていたベッドへ倒れ込んだ。シーツを変えたためぱっと見て潔白だが、ほんのり二人の匂いが漂い、温度が残っている。まだヴィクターに抱かれているような気がして、アイリーンはまぶたを閉じた。