あれからロウガは一度も帰ってこなかった。
キョウヤに関する情報を集めようと必死なのだろうから仕方ないことだ。隠れて手伝おうかとも思いついたが、そもそもロウガの友達の目的すら知らなかった。人脈もない湊に情報の集めようがない。
教会の門を見るたびに、誰かの靴音がするたびに、湊はそわそわしてしまっていた。当然誰もいないし、靴音がしてもとっくに聞き慣れたアガレスの革靴の音だった。カルラは草履だからすぐに分かる。
そんな風にロウガを待ち続け、どこか体が冷たくなってきた頃。
超東驚中に陰鬱な空が広がり、都市部の中心には巨大な繭が作られた。その繭から伸びる糸に触れるとたちまち石になってしまうという。湊たちは地域を回っていた消防隊などの放送を聞き、地下シェルターに避難することになった。
「ご主人、準備はいい?」
「急いで案内されてる地下シェルターへ行きましょう」
「うん、今行く」
必要最低限のものを持ち、地下シェルターへと向かう。
案内されたシェルターにはすでに多くの避難民がおり、皆顔に暗い陰を落としていた。あの繭はなんだ。建物などの石化は解かれるのか。これからどうなってしまうのだろう。ずっとこのままなんじゃないか。そんな不安が地下に溢れている。
『バディポリスと防衛隊の共同作戦は失敗に終わりました。はたして、第二次作戦はあるのでしょうか。政府からの発表はまだありません』
地下シェルターに設置されているモニターは外の異常な光景を映している。アナウンサーの張り詰めた声が広がり、また空気が暗くなった。
だが、湊はそれよりも先にロウガの安否が気にかかっていた。連絡先を交換していないため、どこにいるのかすら分からない。もし超東驚にいたとしたら。きちんと避難しているのか、それともあの繭に関わっているのか。もどかしさだけが胸を満たす。
「あのクソガキのこと考えてるんですか?」
「え?」
左隣にいたアガレスが冷めた目で湊へ話しかけた。非常時だというのにアガレスやカルラはいつも通りで、むしろどこか他人事な空気すらある。アガレスは面白くなさそうに腕を組んで湊を見下ろしていた。
まともにロウガと会ったのは数度なのによほど気に喰わなかったのか、アガレスはロウガのことを「クソガキ」と言う。
ロウガのことばかり考えていた湊は話しかけられてすぐに反応できなかった。湊が目をしばたかせていると、右隣のカルラは苛立つほどにやにや笑った。
「顔に出てたよ〜。ご主人、分かりやすいねえ」
可愛い、可愛い。そう言ってカルラが墨で描かれた紅葉と藤の扇子を広げる。
指摘されてかあっと一気に顔が熱を持つ。
「……う、うるさいなあ! いいでしょ、別に心配したって」
「まあそうですけど」
アガレスはあからさまに嫌悪を示していた。普段の貴族らしい上品さと悪魔らしい妖しさは消え失せている。垂れた目を刃のように鋭くさせ、怒りをまき散らしている姿はただの不良にしか見えない。
カルラはロウガとの関係を微笑ましく見守ってくれている。対して、アガレスは認めてくれてはいるものの、こうしてロウガの話をすると不機嫌になる。ロウガのことが嫌いなだけなのか、それとも自称兄を名乗るアガレスにとって湊に彼氏ができたのが信じられないのか。どちらにせよもう少しだけロウガへの当たりを弱めてほしい。湊は熱くなった頬を隠すように手で覆いながら、軽くため息をついた。
「……ご主人、噂をすれば、ほら」
「え?」
カルラに肩を叩かれ、視線の先を辿る。そしてはっきり視界に収めた瞬間、湊は、あ、と声にならない声が出た。
ロウガだ。特徴的な黒い服と豊かな銀髪、闘志に溢れた青い瞳。一瞬遠くの通路を横切って姿は見えなくなったがすぐに分かった。それだけで湊の心に太陽が浮かび、体温が下がっていた体もあたたかくなる。
「アガレス、邪魔だから行くよ」
「チッ。記念に十発くらい殴っておきたいところですけど、仕方ないですね……。っていうか襟掴まないでくれますかねクソジジイ!? 痛いんですけど! 多少貴方の方がでかいからって馬鹿にしてるんですか!?」
「はいはい」
喚くアガレスを引き連れ、カルラは湊にウィンクした。行ってきなよとにこやかに微笑んでいる。
「ありがとう」
それに精一杯の感謝を伝える。それにいっそうカルラの微笑みが深くなる。襟を引っ張られているアガレスも肩をすくめ、柔和な目をしていた。
優しいバディに背を向け、誰かを、自分を探してくれているかもしれないロウガへ駆け寄った。
「ロウガ」
「湊」
声をかければロウガが振り返る。湊の姿を確認して厳しかった目元がほんの少し和らいだ。
湊もつられて明るく笑う。しかし温和な笑顔が一変し、眉間にしわを寄せて思い切り怒りを投げつけるように言った。
「何してたの」
「……すまん」
素直にロウガが謝罪する。誠意はあるものの、詳細を湊に伝える気はないようだった。面倒なのか、巻き込みたくないのか。後者だろうと信じて湊は口をつぐんだ。変に首を突っ込んでロウガに迷惑をかけるのは嫌だった。
とはいえ、黙って許してしまうのも癪だ。湊はロウガをじっと見つめる。
「……ちょっとかがんで、目、つむって」
「なんだ」
「いいから。勝手に開かないでね」
怪訝な表情をしつつもロウガは湊の言う通りにかがんで目をつむる。
ロウガは十四歳(だと信じるなら)にしては背が大きい。少なくとも学校でクラスメートを観察したらロウガよりだいぶ低かった。
ロウガは目を閉じながら、湊の言葉の真意が見えないせいで顔をしかめている。何だかその様子が可愛らしくて少し口元が緩む。
湊は右手の指を内側に丸め親指で押さえ、中指に伸ばす力を精一杯込める。そのまま中指を額に当てた。つまりデコピンである。ロウガと身長差があるため、ロウガにかがんでもらわないとできないのだ。
「っ!」
「ん。もうこれでいい」
「おい、何を……」
ロウガは顔を歪めて湊に抗議しようとする。だが、明るくもどこか切なく苦い笑顔にロウガの顔がこわばった。
「いつか、ちゃんと教えてくれたらいいから」
「……ああ」
湊の優しい声音にロウガが頷く。必ずとは付け加えなかった。今は頷いてくれただけでいい。湊は言及するのをやめ、話題を変える。
「ロウガはどうしたの? 避難……じゃ、ないでしょ?」
「あの教会あたりにある地下シェルターを回ってお前を探していた。……湊が無事で良かった」
湊を心配してきてくれたと断定するのは自意識過剰かと思っていた。しかし、その願望が当たって湊の頬が赤く染まる。
ロウガの言葉の節々から安堵がこぼれている。それは心の底からのものだ。また胸がぎゅうっと喜びでしめつけられた。
頬の熱を冷ますように、続けて質問していく。
「ねえ、ロウガは……あの繭とかと、関係あるの?」
「ああ。キョウヤが少し関わっている。根本的にではないかもしれないが」
「そう、なんだ」
「俺はこれからあの繭の中に入る。何とかするから、湊はこのまま避難していろ」
ロウガの言葉に唖然とする。
避難しに地下シェルターに来たわけではないとは言ったが、まさか外に出て繭をどうにかしようとは。あまりにも危険な行為に人目も気にせず叫んでしまう。
「はあ!? 何それ! あの糸に当たると石化しちゃうんだよ!? 危険すぎるでしょ!」
「それでも俺はやらねばならん。約束だからな。……お前を、守るためにも」
愚直なほどまっすぐで力強い目。多少言葉には照れが見えるものの、それすらも愛おしい。湊にも照れが伝染して胸がくすぐったくなり、さらに顔が赤くなる。
だから、湊は許してしまった。我ながら単純だ。
潤んだ瞳をロウガに向ける。涙は流さない。ロウガが困ってしまうから。その代わり声に切なさが混ざる。
「また、帰ってきてくれるよね?」
「ああ」
あのときと同じように重みのある返答だった。無表情だが誠心誠意頷いている。ロウガの友達と違ってロウガは嘘が下手だ。この返事は本当なのだと湊は信じることができる。
ロウガはちらりと壁に掛けられた時計を横目で見る。
「そろそろ時間だ。俺は行く」
そう言って、ロウガが湊から離れた。
珍しく何も持っていないロウガの大きな手を取ろうとしてひっこめた。一言何か言おうとして言葉を飲み込む。そんな風に迷っているうちに、どんどんロウガは湊から遠くなっていく。
ロウガが一歩一歩歩くたびに、ひどく寒くなる。湊は寒さを耐えきるように唇を結んだ。
「ロウガ」
「何だ」
ロウガを呼び止め、ロウガの手首を掴んだ。そしてそのまま歩き出す。まばらにいる人たちを通り過ぎる。少年を連れて早足で抜けていく少女に奇異の視線が向けられた。普段なら耐えられないが、今は気にも留めない。ロウガは湊の手を振り切ることはせず、困惑した面持ちで湊を見ていた。
廊下の角を曲がってようやく足を止める。背後は食糧庫の扉だ。手を離し、ロウガに向き直った。
「おい、湊。どうした。何か言いたいことがあるなら言え」
きゅっとロウガの袖を握る。それから顔色を窺うように見上げた。
「……キスして。お願い」
キスして。そう言った湊にロウガは今度こそ顔を真っ赤にしてのけぞった。
「こ、ここでか」
「近くに人いないし、後ろは扉だし。……不安、だから。お願い」
袖を握る力が強まる。だがその手は小さく震えていた。ロウガを映す夜の瞳は淡く揺らぎ、今すぐ光が消えそうなほど危うい。
ロウガも懇願する湊を見て押し黙った。
「……」
口を閉ざしていたロウガは湊の体を自分の元へ寄せ、そのまま柔らかな唇に口づけた。はじめてのときのように一瞬ではない。唇を甘噛みしたり舌を絡めているわけでもないのに、そのキスは湊の中の憂いや心細さを吸い取ってくれているような気がした。
たった数十秒のキス。それでも、湊だけ時間の流れが違うと感じるほど長かった。
ロウガがそっと離れた。まだ顔には赤みが残っている。自分でキスしてなんて言っておきながら、今更誰かがやってくるかもしれない場所でキスなんて、バカップルみたいで湊も恥ずかしくなってきた。
けれど目だけはお互いを焼き映すように注いでいた。きっとどうせしばらく会えないのだから。目を閉じてもまぶたの裏にくっきり描けるように。
見つめ合ってほどなくしてロウガが言う。
「……いってくる」
「……うん。いってらっしゃい」
世界を救いに行くロウガを、湊は手を振り、気丈に微笑んで見送る。
行かないで。傍にいて。たったそれだけでいいのにそれすら口にできない自分が、自分勝手なことばかり考えている自分が、湊は吐きそうになるほど心底嫌になった。