その教会は相変わらず静かだった。清廉と言えば聞こえはいいが、どこか物悲しい。ロウガは柄にもなく思った。
ロウガはあの一件以来、湊と時々遭遇していた。誰もいない廊下の学校で、人気のない街外れで。そのたび無理矢理飯を押し付けられたり、教会に連れてこられたり、並の女では出せない迫力で自らの名を繰り返したりするものだから、ロウガも「変な女」と仕方なく記憶していたのだ。
それに、この教会は嫌いではなかった。街の賑やかさとも、キョウヤの家の上品さとも違う場所。ただ哀愁と不気味さが同居しながら、美しく静謐に建っているここは居心地がいい。
「ロウガ、お前最近ここによく来るな」
大きな門の前で佇んで教会を見つめていると、もう一匹のバディであるケルベロスが言った。そうだったろうか。ロウガ自身気にしていなかった。
「そうか?」
「先週も先々週も来てたろ。しかも自分から。よっぽど黒瀬湊のこと気に入ったのか?」
ケルベロスがどこか楽しげに口角を上げた。
気に入った。それは違うと断言できる。黒瀬湊という女は確かに思っていたほどやかましくはない。自分の名をロウガに覚えられず声を荒立てたり、皿洗いくらいしろと顔をしかめて文句を言うくらいだ。地味な見た目とは裏腹に短気なようだが、当たり散らさない。ロウガのことについてとやかく聞くこともない。
飯を馳走になっているのはここに来たら向こうが勝手にくれるだけだ。しかもその飯はまずいどころか美味かったりする。黒瀬湊の料理には、キョウヤの家のコックが作る洗練された料理とはまた違う美味さがある。口にしたことはないが。
唯一接している女、ソフィア・サハロフもうるさくはないが、人形のようで何を考えているか分からない。キョウヤのことしか頭にないのではとすらロウガは思っている。
かといって、気に入ったは正しくないだろう。湊はバディファイトが強くない。決して弱いわけではないし、鍛えればもっと強くなるだろう。ロウガは忘れたはずのファイトを思い返してそう評価している。
だが、湊はバディファイトへの勝利に価値をあまり見出していない。時折会話に感じる何らかの仄暗い欲望には興味を抱いているが、それくらいだ。
それくらいの、はずだ。
「……あんた、やっぱり暇なの?」
ケルベロスの問いに答えられず悶々としていると、教会の主が帰ってきた。
何かが際立っているわけでもない顔立ち。ふわふわというよりはボリュームがあるが正しいであろう肩ほどまでの髪型。夜を連想させる紺の瞳。黒と白で構成された、女にしては味気のない服装。手には子供らしからぬ買い物袋。特別目を惹く要素はない。
「そんなにお腹すくわけ? それとも、あんたの家のご飯足りないの?」
「そういうわけでは……」
「まあいいけど。入れば」
湊はそっけなく言って門へ顎をしゃくる。そもそも飯を食いたいなど言葉にしていない。が、去る気も何故かなかった。
古びた鉄の音を立てて門が開かれる。ロウガとケルベロスは湊の後ろをついていく。
「ただいまー。ちょっと待って」
ただいまと口にしても何も返ってこない。湊は特に気にしていないようだ。今日も誰もいないらしい。それか自室にいるのか。ここに入るたびバディや保護者だという神父を見たことがないので、本当は湊一人で住んでいるのではないかと疑うほどだ。
ロウガは無言で食卓の椅子に座った。これといってすることもないので、キッチンに立った湊を見る。
ロウガは自分で料理などしたことはない。したことがあるとするなら、雑に切る、雑に焼く、このふたつのみだ。料理の知識などあるわけがない。だが湊の手際がいいことだけは分かる。軽く食材を切る音、まな板に包丁が当たる音、肉が焼かれる音。それらをじっくり聞きながら料理ができるのを待つ。
耳を澄ますと鼻歌も混じっている。よほど楽しいらしい。ロウガが楽しみを見出すのはバディファイトだけだ。どのあたりが楽しいのか理解に苦しむ。
しかし、いつの間にか湊の後ろ姿を観察する自分がいる。暇だからだ。それに、寝ると急所を蹴り上げてきたことがあるので寝ることもできないからだ。あのときは相当痛かった。だからだ。そう言い聞かせる。
――――小さい背だな。
ロウガは湊の背中を見て思った。いつも見るキョウヤの背とは違う。ロウガを教会に連れて行こうとしたときのものすごい剣幕だった女とは到底思えない。むしろ、本当に普通の女の背だ。
ロウガが吸い寄せられるように湊を眺めていると、床に伏せていたケルベロスが面白そうに喉を鳴らした。
「……何だ」
「いや。何でもねえよ」
もう一度意味深に笑ってケルベロスは三頭とも瞼を閉じた。言いたいことがあるならはっきり言えばいいものを。ロウガは楽しそうな相棒にむっとしながら、追求するのはやめた。
「はい」
そうしているうちに出来上がったらしい。目の前にオムレツが置かれる。湯気が立つ卵に特製らしいソースがかかっており、食欲を刺激される。
さあ早く食べて。先ほどのどこか冷めた表情は消え失せ、湊は目を輝かせてロウガを見つめている。その視線を受け止めながらロウガは尋ねた。
「……そんなに作るのが楽しいのか」
「え?」
「鼻歌まで聞こえたぞ」
「えっ、嘘、恥ず……」
湊自身は無意識だったらしく、視線をそらす。そしてぽつりと呟いた。
「だって家族以外に自分の料理食べられることなんてないから、ついはりきっちゃって……」
だんだん声の調子が暗くなる。
そのとき。胸に違和感を感じた。先ほど鼻歌を歌っていたほど上機嫌だった湊が、どこか遠くを見るような、心臓をわしづかまれるような、憂いた顔をしたものだから。普段なら他人が悲しんでいようと気にも留めないのに。湊が浮かべているのはただの悲哀ではないからか。既視感があるからか。ロウガは何故かその女から一目も離せなかった。
「俺も……」
「え?」
「俺も、家族がいない」
湊がそんな顔をするから。つい、口を滑らせた。ロウガの言葉にケルベロスが驚いて顔を上げる。目の前の湊も目を点にしていた。
「そうなの?」
「ああ。俺は臥炎財閥の総帥……臥炎キョウヤと住んでいる。俺の家族はキョウヤだけだ」
「え? 臥炎財閥の総帥!? なんで……」
「……スラム街で拾われたからだ」
「はあ……」
湊は心ここにあらずといった風に相槌を打つ。突然臥炎財閥やらスラム街やら拾われたやら、そんな衝撃的な単語を聞いて呆けているようだ。不満そうな顔と仏頂面、あって軽い笑顔しかなかった女がこうも短い間にころころと表情を変えるとは。少し、意外に思った。
「だからちょっと遠慮して、足りないのに食べてなかったわけね」
「…………そんなところだ」
否定したかったが面倒なので口にするのはやめた。
スラム街にいたのは何故か。今や臥炎財閥の総帥である幼いキョウヤは何故そこにいたのか。スラム街で拾われたからには日本人ではないのか。荒神ロウガは偽名なのか。怪しむ点ならいくつもあるはずだ。それでも湊は問いただすことはなく、純粋な驚きでロウガとケルベロスを交互に見比べるだけだ。
そういえば。こいつのバディはいつも留守なのか。そう疑問に思い、女の名を口にした。
「黒瀬湊」
声をかければ湊は顔をしかめた。
「ねえ、なんでいちいちフルネームなの? 呼びにくくない?」
そんなものか。キョウヤ以外ほとんどフルネームで呼んでいたロウガは特に気にしていなかった。たまに呼んで祠堂くらいなものだ。フルネームで呼ぶことは、湊にとって奇妙であるらしい。それに、ロウガにとって名前などただの記号である。呼び方など何だって構わないのだ。
しかし、ここでどうでもいいと答えればこの女はますます眉間の皺を深くさせるだろう。黒瀬、と呼び直そうとして口をつぐんだ。
――――もし。ここで、下の名で読んだら。この女は、一体どんな顔をするだろう。
この意図に他意はない。ない、はずだ。
一瞬躊躇いをつくった後、ロウガは唇にその名を乗せる。
「湊」
不思議と違和感はない。むしろずっと前からそう口にしていた気もした。
「……う、うん」
湊はきょとんとした後、一気に何と呼ばれたか理解したようで、頬を赤らめた。
――――それを見た瞬間、ロウガの中にえもしれぬ感情が生まれる。嫉妬、羨望、諦め。一人だった頃の負の感情とも違う。尊敬、信頼、友情。しかし、キョウヤに感じているどれとも違う。自分が今まで感じてこなかったものだ。
湊はほんのり染まった頬を隠すように両手に頬を当て、視線を左右に動かしロウガに小さな背を向けた。
「わ、私、ちょっと取るものあるから、物置行ってくる」
声には少し焦りの色が混ざっていた。ロウガもそれが伝わって体が少し熱くなる。視線を下にやれば、またケルベロスが笑っていた。ロウガ自身、何かとんでもないことをしでかしてしまったような気持ちに陥る。
とりあえず、この体の熱を誤魔化すためにロウガはスプーンを取ってオムレツをつまんだ。オムレツの味はいまいち分からなかった。
湊が物置から戻って来た頃にはすでに皿のオムレツは腹に収めてしまった。席を立つ。
「……帰る」
「あ、そう」
「またな、湊」
「うん。ケルベロスもね」
ケルベロスは今まで湊を呼びかけたことがない。むしろ話しかけたことすらない。初めて会ったときに名乗ったくらいだ。湊は少し目を見開いたものの、すぐに唇に笑みを形づくる。
ケルベロスがこうして他人に友好的になることなど初めてだった。ロウガの友人であり兄弟であるキョウヤにさえ心を許していない節があるというのに。ロウガに湊が気に入ったのかと聞いてきたが、気に入ったのはケルベロスの方なのではないか。ロウガは相棒の態度に眉根を寄せる。
教会の前の大きな門まで戻る。湊も律儀に見送りに来た。黙って帰ろうとするロウガに、湊は手を軽く振った。
「気を付けてね。……ろ、ロウガ」
そして、またかあっと頬を、顔を上気させて。ロウガの名をはっきりと口にした。
ロウガ。キョウヤに名を与えられたときから、キョウヤとバディにしか呼ばれなかった下の名。キョウヤに拾われたその日からすでに前の名はなく、己は荒神ロウガとして生きている。
そんな少年の下の名前を、兄弟や相棒以外に呼ばれた。荒神と嫌味ったらしそうにでもなく、荒神ロウガと無感情にでもなく。ぎこちなく、そっけないが友好的な感情が伝わってくる。
名前など少年にとってはどうでもいいものなのに。変な女に、ロウガと呼ばれた。たったそれだけ。たったそれだけのことで、ロウガの胸が痛んだ。傷ついたときの痛みではない。苦しいような、落ち着くような。不思議な痛みだった。
「……ああ」
心臓を抑えるのをこらえてそれだけ返す。ロウガは湊の顔をまともに見れず前を向く。そのまま口を閉ざし、帰路についた。
「ロウガ、お前さ」
「……何だ」
「湊の前だと、ロウガっぽくねーよな」
ロウガらしくない。唐突で全く意味の分からない言葉にロウガは顔を歪めた。
「どういう意味だ」
「そのまんまの意味だ。ま、俺は悪くねえと思うぜ」
だから何が。おそらくケルベロスに尋ねても答えない。ケルベロスは初めて出会い、戦ってから信頼できる相棒だ。だからこそ相棒であるロウガに意味深な言葉を投げかけるなんてなかった。まるでキョウヤのようだ。
その意味を考えようと、少女の顔を思い浮かべる。しかめっ面、冷めた表情、楽しそうな笑み。それから、今日見た儚く淡い悲痛な顔。真っ赤にした表情。それらをはっきりと脳裏に浮かべると鼓動が大きく高まった。特に悲しい顔。まるで――――幼い頃の少年のようだった。
だからだ。思い出したくもないあの過去を、見せつけられたようで。だからこの胸が痛むのだ。
だが、それなら痛むのに何故か同時に穏やかであることの謎や、またあの教会に来てしまうのだろうと感じることにも説明がつかない。
……いいか。ロウガは痛みの正体を掴むのを諦めた。今はキョウヤの元に帰ることだけを考えればいい。
ロウガの頭にはロウガの救世主の他に、最近出会った変な女がちらついていた。無理矢理消そうとは、思わなかった。