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春には遠く

黒瀬湊という少女は、およそ中学生らしからぬ少女だった。

まず、クラスメートとの関係を一切持っていなかった。話しかけられれば応じるが自分からは話しかけない。遊びに誘われても「家事があるから」と断る。別に湊自身は遊びたくないわけではない。湊には血の繋がった家族がおらず、しかも保護者であるはずの神父は仕事の関係で家どころか日本にすらいないのだ。家事は自分でやるしかない。
そんな神父が、湊が幼い頃に一人では寂しかろうとバディファイトのパックを買ってくれた。しかし、パックから出てきたのは神様と貴族である。どちらも慣れない家事をしようとしなかった。そもそも湊自身が家事をしたがったからなおのことである。

そんな湊の顔立ち自体は平々凡々なのだが、誰とも喋らないせいで常に無表情で、かつ不愛想で暗かった。「何も楽しくありません」という空気を纏わせており、話しかけると興味がなさそうな冷たい目を一瞬向け、取り繕ってから相手に顔を向ける。だから余計に同級生は必要以上に話しかけなかった。

友達一人いない、接するのは保護者である神父とバディモンスター一匹と一柱だけ。そんな彼女の周囲の評価は、「地味で暗い可哀想な少女」だった。

朝起きて軽く選択して朝食とお弁当を作って学校に行って学校帰りにたまに買い物して掃除して体を動かして夕食を作って勉強してお風呂に入って寝る。「普通」ならば中学生なのに寂しい生活だと思うだろう。

寂しい。友達と楽しく談笑したり買い物したりしている様を見て、湊だって混ざりたい気持ちはある。それでも、湊はその生活に慣れてしまっていた。いまさら自分が混ざったって微妙な空気になるだけだ。

だから湊はいつも独りで、中学生らしからぬ生活を送っている。


「貴様が負けなしのバディファイターか」

だが、中学一年生のとき。北風が吹き始めた秋に、いつもの生活サイクルとは少し違うことが起こった。

普段なら自分ではないと決めつけているところだ。しかし向けられている敵意の矛先は明らかに湊だった。どんな失礼な奴だと顔をしかめて振り返る。

子供にしては高い身長。たてがみのような銀髪。傲慢さすら感じる青の瞳。日本人と違う褐色の肌。自信に満ちた表情。肩にはアーマナイト・イーグル。
同じ相棒学園に通う、荒神ロウガだ。デンジャーワールドの使い手で、ファイターが溢れる相棒学園で学年一位という強さを誇る男子。クラスメートの名前を全員覚えてもいない湊ですら知っている有名人だった。

そんな奴が何故自分のところに。ますます湊は戸惑う。不審な目を向ける湊にロウガは続ける。

「とあるファイターと戦ったとき、負けなしの女ファイターがいると言っていたものでな。探すのに少し苦労したが、貴様で間違いないな」
「……それと同一人物かはともかく、負けたことはないけど」

とは言ったものの、湊はバディファイトが好きなわけではない。湊の家族にバディモンスターが二人もいる。彼らもたまには戦いたかろうと思い、適当にファイトを挑んで勝ってしまっているだけのことである。
湊の返答にロウガは満足そうに口角を上げた。

「そうか。それならば俺とファイトしろ」

「なんでそうなるの?」

「強い奴には興味がある。貴様が本当に強いかどうかは知らんが」

「……ふうん。ちょっと待って」

安い挑発だ。乗ることもない。しかし、そこまで言われて黙って去れるほど湊も大人ではなかった。
生粋のファイターではない湊はデッキも常備していないしバディも連れていない。ポケットから携帯電話を取り出して片方のバディへ掛けた。デッキを持ってきてと伝えればバディはすぐにやってきた。

柔らかさそうな蜂蜜色の髪。人間離れした黄金の瞳。尖った耳に背には羽根。どれも小説や映画によく題材にされる悪魔そのものだ。

「ありがと、アガレス」

「珍しいですね、デッキを持ってきてなんて」

マジックワールドのモンスターであり湊の血の繋がらない家族の一人、公爵アガレスが湊の隣に降り立った。

「変なヤツがファイトしろって言うから」
「なるほど」

アガレスは湊の目の前に立ち塞がる男子を見て目を細めた。アガレスの纏う空気が剣呑なものになろうとロウガは怯まずに笑っていた。むしろ昂っているようにすら見える。

「準備はできたか。始めるぞ!」

――――負けたことがないというのは、本当に強い者と戦ったことがないということである。湊もそれなりに奮闘したものの、あっけなく負けてしまった。

「所詮は雑魚か」

ファイトを終えてロウガが吐き捨てた。ぎらついていた青い瞳はすでに冷えている。鼻を鳴らし、ロウガは湊に背を向けた。

湊はファイトに負けたこと自体は特別悔しくなかった。ただ、ファイトに負けたというだけで自分の存在を全否定されたことに納得いかない。ロウガはきっと分からないのだろう。自分に自信がない者のことなんて。周りが羽虫のようにうるさく感じることなんて。どれだけ努力しても自分には何もないと痛感することなんて。湊は険しい表情で唇を噛んだ。
ついてもいない埃を払い、俯いた顔を上げて一緒に戦ってくれたバディへ謝罪する。

「ごめんね、アガレス。負けちゃって」

「いいえ。私こそ至らずすみません」

あくまでアガレスは穏やかな笑顔を浮かび続けている。普段は謎に包まれた微笑なのに、今の笑みはまるで幼子をなだめるような優しいものだ。その家族のあたたかい優しさでさえ、今は胸に痛みを広げていく。

改めて湊はロウガが去った方向に目を向けた。ロウガの姿は見えない。もうきっと話すことも会うこともないだろう。むしろそうであってほしい。湊は拳を握った。



ロウガとのファイトから数週間。湊はロウガとファイトしたことを忘れかけていた。もしくは頭の片隅においやって完全に封印しようとしていた。

今日はスーパーで魚が安くなる日だ。学校帰りにしっかりとお目当ての鯖を買った湊は今夜の献立を考える。
グリルか、味噌煮か。竜田揚げもいいなあ。無意識に鼻歌を歌いそうになっていると、つむじに何か冷たいものが当たった。

「うわ、雨」

顔を見上げれば雨が空から落ちてきた。両手は荷物で塞がり傘も持っていない湊は、すぐ近くにあった公園の屋根付きベンチへ走る。ため息をついて荷物をベンチに置いた。荷物を確認しても特に袋以外濡れていないようだった。ほっと胸を撫で下ろし腰を下ろす。

天気予報では晴れのち曇りのはずだったので天気雨だろう。そうでないと湊は困ってしまう。神父はいつも通り海外だし、バディ二人も今日は珍しく出払っている。傘を持って迎えに来てもらうという選択肢は消え、止むまで待つのを選ぶしかない。

あんまり長く降られると困るなあ。食材が痛んじゃう。慌てて走っていく子供や折り畳みの傘を差す大人を見ながら湊は頬杖をつく。
家が近いのか雨足もそれほど強くないせいか、誰も公園のベンチに立ち寄らない。

早く止まないかと待っていると、さらに雨が強くなった。ざーっ、という音が辺りに響いて耳を攻撃してくる。
げ、連絡一応入れておこうかな。心配した湊は携帯電話を取り出す。同時に、ばしゃばしゃと誰かがこちらへ走る音が雨音に紛れて聞こえた。誰だと前へ視線をやる。どんな人物か分かった途端に湊は目を見開いた。
先日ファイトしたロウガである。ボリュームがある銀髪も今は濡れてしんなりしており、いつも清潔な制服はかなり汚れていた。肩に乗ったアーマナイト・イーグルも羽根が濡れているせいで痩せたように見える。

湊の視線に気付いてロウガもこちらへ目を向けた。それもすぐに目をそらし、すました顔でどっかり座った。どうやらすでにロウガの記憶の中に湊はいないようだ。湊もなかったことにしようとしていたのでお互い様だが。それはそれであのときの怒りが増幅する。向こうに接する気がないならこちらもしなくていい。湊も無視することにした。


篠突く雨がアスファルトを濡らす。大きな水たまりもでき、激しい速さで排水溝へと流れていく。それ以外は何も聞こえない。雨と沈黙のみがこの空間を作っていた。
友達がいないのだから当然だが、もともと湊は会話が得意ではないし、社交的な性格でもない。ロウガも同じに違いない。荒神は常に一人でいるらしいと、教室にいたときクラスメートが話していたのを耳にしたことがある。それにあの言動で友達がいるとは到底思えないので本当だろう。湊も随分前、生徒会長の祠堂孫六か副会長のソフィア・サハロフといるところを見たことがあるくらいだ。
謎のメンツだが、ロウガが着ているのは金持ち坊ちゃん風味の上品な服である。そういった知り合いがいてもおかしくはない。会長はバディカード管理庁内部調査官の息子だし、素性が全く分からない副会長も、あの冷たい美貌の中に品の良さと気高さがある。金持ちでないわけがない。完全に湊の偏見でしかないが。

しかし。こうして同じ空間にいても、ロウガにバディファイトで負けたのに気まずくもない。これがクラスメートなら気まずくなっているはずだった。どうしてこんな傲岸不遜な奴といて気まずくならないんだろう。自分に自信に満ち溢れた奴なんて、眩しくて大嫌いなのに。湊自身不思議でたまらない。

また横目でロウガを盗み見る。ロウガは腕を組んでどしゃぶりの雨を見つめていた。ファイトし終えた後と同じ冷然とした表情だ。それなのに――――深い青の瞳には寂しさが、あった。

湊の息が止まる。見た目にそぐわぬ荒々しいファイトをするロウガが。高慢な口調で、獰猛な目つきをするロウガが。バディファイトこそが全てなんて断言しそうなロウガが。無理矢理感情を抑えつけたような顔をしている。ロウガの寂しさや孤独が、湊の体の奥まで入り込んでくる気さえする。
まるで、まるでその顔は。いつも見ている――――。

警戒していたらしいアーマナイト・イーグルが湊を睨んだ。あまりにもロウガが悲しい瞳をするものだから、凝視してしまっていたようだ。突かれるような鋭い視線にすぐに顔を背ける。


それから十分程度で激しい雨が止んだ。空は灰色だが雨の気配が薄れていく。少し離れたベンチに座っていたロウガが立ち上がり、無言でその場から去った。

――――家族以外といて気まずくなかったの、初めてだな。それに……なんであいつ、あんな目してたんだろう。

湊は小さくなっていくロウガの背を見ながら、あの瞳を思い返した。ファイトし終えた後とはまた違うものが、湊の胸に落ちた。



翌日。今日は寄り道する用事もないため、湊は一人帰り道を歩いていた。
スーパーに行くであろう主婦、カードショップに向かって走る子供、スーツ姿のサラリーマンやOL。何ら変わり映えのない帰り道だ。

しかし、そんな帰り道で鮮やかな銀髪をした男子が目についた。また、ロウガだ。ロウガが佇んでいるのを見て湊も足を止めてしまった。

何見てるんだろ。後ろを通り過ぎるふりをしてロウガの目線を辿った。目線の先はよくある定食屋だ。ロウガはそこから微動だにしない。
まさかお腹でもすいてんの? 湊はまたもや呆気に取られてしまう。金持ち坊ちゃん服なんか着てるくせに。いや、決めつけてたけどもしかして貧しかったりするの? でもバディファイトってカード集めなきゃできないし……。
様々な疑問を巡らせ、驚きながらも家に帰る。

「ねえ、荒神」

――――いつもなら。

湊自身何をやっているんだろうと呆れる。けれどどうしても、湊もつられて泣きたくなるほど悲しい横顔を忘れられなかった。

「……誰だ、貴様は」

ロウガが冷え冷えとした目を湊にやった。それに一瞬たじろぐが、すぐに強気に答えた。

「あんたと前ファイトした、同じ相棒学園中等部に通う黒瀬湊。覚えてない?」

「貴様とファイトしたことなどないだろう」

「こ、こいつ……」

そうだろうと予測はしていたが、実際に口にされると腹が立つ。湊の頬が強張り、口元が引きつる。

「それで、負けた奴が何の用だ。負けたということは雑魚だろう。再戦する気などない」

厳しい口調でロウガは続ける。湊だって話しかける気も数分前はなかったし、再戦する気など元よりなかった。言葉につまった湊は少し視線を泳がせた後口を開いた。

「……お腹すいてんの? そんな服着てるくせに」

「どういう意味だ」

「勝手にその小綺麗な服で金持ちって思ってるんだけど。違うの?」

「……そういうわけにもいかん」

貴様には関係ない。強く突っぱねられると思っていたので、素直に答えられたことにまた驚いた。金持ちという点に否定はしなかった。やっぱり金持ちなんだろうか。しかし、遠慮なんてロウガにあったのか。そんな失礼なことを考えてしまう。

湊が唖然としていると、大きな腹の音が鳴った。湊ではない。ロウガからだ。
ロウガはしかめっ面のまま口を閉ざしている。見つめていると顔をそらした。照れているんだろうか。数週間前からは想像もしていなかった表情に、k思わず頬の筋肉が緩んでしまいそうになる。

「……お腹すいてんなら、うち来る?」

だから、そんな言葉まで口に出してしまっていた。

今日の自分は本当にどうにかしている。きっと疲れているのだ。そう感じるほどの行動だ。今まで同級生に自分から話しかけるなんて、用があるとき以外絶対にしなかったのに。

「何故だ」

「どうせあんた暇でしょ。なんか作ってあげる」

「施しなど俺は受けん」

当然拒否された。だろうなと納得しながらも、湊は退く気になれなかった。

「いいから」

「いらん」

ロウガは首を縦に振らない。むしろここまで会話を続けてくれることが奇跡なのではないだろうか。とはいえ、ロウガのバディのように繰り返していても埒が明かない。
だんだんいらいらしてきた。湊の脳内は低い沸点にすでに到達しようとしている。息を軽く吸って、自分と同じくらい不愛想な男を睨みつけた。

「いいから早くして」

女とは思えない迫力のあるドスの効いた声にロウガが一瞬怯んだ。湊の怒りどころか殺意すら溢れる目に、ロウガは顔を思い切りしかめてから小さく呟いた。

「………………俺は何も返さんぞ」

あの荒神が折れた。結構押しに弱いタイプなのかな。自分が押すタイプっぽいのに。なんか面白い。湊は笑いそうになるのをこらえた。

「あんたにそんなの期待してないし、いいよ。ついてきて。……逃げないでよね」

「逃げるか」

「ニゲルカ!」

二人と一羽は教会に向かう。移動途中、湊もロウガも一言も発さない。だが、雨で会ったときのように空気が重くなかった。


どんどん街から離れ、ゆるやかな坂道を上っていく。この付近には家らしい家は少なく、中心部にはあまり見られない自然が多い。超東驚の中心部から離れたこのあたりの場所に来たのは初めてらしく、ロウガは周りを軽く見回している。

会話もなく歩いて数十分ほど。湊とロウガの目の前には大きな門、その奥に清廉な教会がそびえ立っている。街の喧騒から離れ、静寂な教会はどこか不気味ですらある。都会にある教会にしてはかなりの敷地だ。

湊は大きな門を開いて中へ踏み入れる。ロウガもそれに続く。輝くステンドグラスが美しい聖堂の横道を歩き、少し離れたところに建つ家の扉を開けた。中は普通の家と変わりないが、二階建てでないせいかそれでも広い。

「……こんなところに教会なんかあったのか」

「知らなかったの? まあ、知らない人は知らないかもね」

この教会に信者が来ることはほぼない。広く見栄えもするので結婚式の会場に使いたいという人たちがたまに来るくらいだ。

「人の気配がしないが」

あまりにもひっそりとした冷たい空気。人が住んでいる気配こそあれ、家族が住んでいるあたたかさはあまり感じられない。

「そりゃそうでしょ。私とバディと、今いないけど神父さん以外いないし」

何百回も言ったセリフだ。湊は保護者を「神父さん」という他人行儀な呼び方をする。つまり、湊の血の繋がった家族ではない。それに加えて「私とバディ以外」である。少し考えれば分かることだ。


いつもなら。ここで気まずそうに相槌を打たれたり、申し訳なさそうな顔をされる。ちっともそんなこと思ってないくせに。どうせすぐ忘れる一時の感情のくせに。結局他人事だと思うくせに。何も、してくれないくせに。
この男は、一体どう返すのだろう。

「そうか」

あくまで淡々とした返事だった。同情はなく、哀れみもない。だからどうしたと言わんばかりの。冷たい奴だと、興味が無いと、普通ならそれはそれで苛立つのだろう。この対応に正解はない。だから「可哀想」と決めつけられなかっただけ、湊の心が少し軽くなった。

軽い会話をしているうちにリビングについた。色の揃ったテーブルと椅子、距離を置いてソファと薄型の大型テレビが置かれ、近くの棚には酒用のグラスが綺麗に並んでいる。

「ここでちょっと待って。作るから」

「……貴様に料理などできるのか」

「さっきも言ったでしょ! 私とバディしかいないし、バディは作る気ないし、私が作るしかないの。っていうか、私料理するの好きだし」

湊の怒りを受け流し、ロウガは大人しく席についた。
それを確認し、湊は食卓の数メートル先のキッチンに移動する。白いエプロンをまとい手を洗う。冷蔵庫を見て食材を用意する。鶏肉を様々な調味料を入れたジップロックに入れて揉み、その鶏肉を焼く。焼けた鶏肉をレタスやにんじんなどとともにパンに挟んで、簡単なサンドイッチの出来上がりである。ロウガの家の夕飯が入らなくなっても困るので、少し小腹を満たす程度がいいと判断したのだ。

湊はテーブルを見やる。目を離したら逃げるかと思ったが、ロウガは目をつむり口を結んで座っている。案外真面目で義理堅い方なのかもしれない。

「はい」

出来上がったサンドイッチをロウガの前に差し出す。サンドイッチを観察し、黙っていたロウガは手を合わせ、小さな声で食事の挨拶をする。貴様とか言うくせに礼儀正しいんだ。湊はまた驚いた。
ロウガは無言で咀嚼していく。その表情は愛嬌の欠片もないままで、あまり美味しそうに見えない。

金持ちであることを否定しなかったので、ロウガが金持ちだと仮定する。だが湊はそこの一流コックにだって負けるつもりはない。湊は料理にだけは絶大な自信を持っている。いくら時間と経験の差があろうともだ。

「どう?」

食べ終えたロウガに尋ねる。人に料理の感想を聞くとき毎回胸がどきどきしてしまう。
隣で身を乗り出し、少年のように目を輝かせる湊にロウガは間を置いて評した。

「…………悪くはない」

「ワルクハナイ!」

アーマナイト・イーグルが主人の言葉を繰り返す。

この野郎。それに湊は再び顔を引きつらせた。そんな湊の反応も気にせずロウガは立ち上がった。

「帰る」

「……どーぞ」

お邪魔しましたの一言もない。確かに無理矢理で強引に連れてきたのは湊だが、失礼にもほどがある。このクソムカつく野郎に見送る必要もないだろう。湊はテーブルから離れない。革靴の音が遠のいていく。

やっぱりこんな奴がはっとするほど寂しい目をするはずない。それでも、しばらく湊は忘れられそうになかった。


――――あの顔は、鏡で見る自分のようだったから。



次の日。湊はばったりロウガと学校の廊下で会った。目が合って動かない湊へロウガは思い立ったように言う。

「……昨日のお節介な女か」

「だから、私は黒瀬湊って言ってるでしょ」

存在は忘却の彼方にやられなかったらしい。一瞬喜びそうになったが、名前を名乗ったのに「女」とひとくくりにされていて頭にきてしまう。お節介はその通りだと思うので何も言及しない。
怒気を含んで返すと、ロウガはきびすを返す。

「気が向いたら覚えておいてやる」

覚えておいてやる。確かにロウガはそう口にした。きっと、バディファイトが強い奴しか覚えないだろう男が。ロウガが覚えくれることに何の保証もないのに。それでも何だかその発言はすごいことのように思えて。怒りが晴れてゆくほど、心がすっとなった。

「私、黒瀬湊だから。覚えなさいよね、鳥頭!」

ロウガからの返答は何もない。ポケットに手を突っ込んで去っていく。湊はただそれをじっと見つめた。

「なんか嬉しそうだねえ、ご主人」

「うわっ」

急に横から着物を着た男が顔を出した。

目尻に赤い化粧を。左のもみあげの先に宝石がついており、肩には派手な女物の着物を羽織っている。にやにやとした笑みも顔立ちの良さでいやらしくはなく、妖艶に見える。男はアガレスとはまた違う謎に包まれていた。
湊のもう一人のバディ、カタナワールドのモンスター神鳥・迦楼羅天。本当なら人間の顔をしていないらしいが、湊は初めてカルラと出会ったときから彼本来の鳥顔を見たことがない。

「何、カルラ。忘れ物とかしたっけ?」

カルラは手に緑の長財布を持ってひらひらさせる。

「お財布。今日スパイス買いに行くって言ってたでしょ」

「……あ」

そういえばそうだった。湊は鞄の中身を思い返し、財布がないことに気付いた。

「珍しいねえ。忘れ物なんて基本的にしないご主人が。さっきも普段ぜーんぜん喋らない同年代の男と喋ってたし。……それに、笑ってるし」

「え? 私、笑ってた?」

湊は鳩が豆鉄砲を喰らったような表情を浮かべた。ただ自己中心的な男子に自分の名前を覚えろと言っただけなのに。

「笑ってたよ」

それをとてつもなく愉快そうに、けれど同時にひどく微笑ましそうに、カルラは目を細めた。普段の薄笑いとは大違いの、穏やかな笑みだ。

湊はアガレスやカルラにさえ「もう少し笑えばもっといいのに」と言われているほどあまり笑わない。面白くもないのに笑顔なんてできるわけもない。だから、営業スマイルとか愛想とかいまいちピンとこないのだ。だから「笑っていた」と指摘されるとなんだかむず痒くなってくる。

「……そう?」

なんで笑ってたんだろう。その理由は、自分の頬を引っ張っても分からなかった。
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