朝陽が窓からさんさんと降ってくる。ちゅんちゅん鳴く雀の声も耳に届く。
ケルベロスはぼんやりと目を開けた。くあ、と三頭ともあくびをする。隣に視線をやれば、ケルベロスの相棒はまだ眠りについたままだ。以前ならすでに起きているか、ケルベロスが起こしていた。だが、今はそうしない。
部屋の外でぱたぱたと慌ただしい足音が聞こえてきた。そろそろか。三頭はドアを見る。軽いノック音。しばしの無音からもう一度。それでもケルベロスは返事をしない。
「もう、入るよ?」
少々苛立ちを含んだ声の主が部屋に入る。
ボリュームのある髪はいつもと変わらない。夜を連想させる瞳は自分たちをはっきり映している。纏っている白い服は、普段相棒が着ているものと対になるようにも見えた。
ケルベロスはうっすらと開けていた目をまたつむった。
「ロウガ、ケルベロス。起きて」
その一声で起きたふりをする。もう一度体を伸ばして大きくあくびをした。
「おう。もう朝か」
「もう朝だよ。ご飯できてるから」
ケルベロスのバディである荒神ロウガの番――――人間風に言うと、ロウガの恋人の黒瀬湊は明るい声で言った。それから声をかけても起きないロウガの体を揺さぶる。
WBCカップ後、ロウガは臥炎キョウヤの元に戻ることを選ばなかった。長いようで短い期間を過ごした湊といることを選んだのだ。
まさか湊も教会に一緒に住むとは思っていなかったらしく、最初はかなり驚いていた。それもすぐに慣れ、こうしてロウガと生活を共にしている。
「ロウガ、起きて。あんた時間にルーズなんだかそうじゃないんだかはっきりして」
それでもロウガは眉間に皺を寄せ、寝返りを打つだけだ。一方の湊は仁王立ちでこめかみがひくひく動いている。意外と気が短い湊は怒ると怖い。本気で怒るともっと怖い。ケルベロスは飛び火しないようにと身を縮めた。
「てかこいつ、また上半身裸だし! 何考えてんのよ。馬鹿だから風邪引かないってこと?」
罵倒する湊の頬は赤い。もう一度湊がロウガを強く揺さぶった。ケルベロスも手伝ってみるものの、ロウガが起きる気配はない。
以前ならこんなことはなかった。誰かが近づけばロウガは目を開き、その身を起こしていたのに。それほど張り詰めた空気を纏って生きていた男だった。今だって見知らぬ奴なら目を覚ましているだろう。だが、眠り続けているということは、黒瀬湊という少女にはそれだけ気を許しているということだ。キョウヤとケルベロス以外にそんな存在ができるなど想像もしなかった。しかも、あれほど特別関心を示したことのない女である。
「……湊か」
何度か繰り返しているうちにロウガが目をうっすらと開けた。
「湊か、じゃない! 全く、早く着替えてご飯食べに来てよね」
言うだけ言って湊は出て行った。まだ寝ぼけ眼のロウガがドアを見つめている。
「早くしねーと、飯が冷めて湊がまた怒るぞ」
「……ああ」
平穏な会話があまりにも自然と出てくるものだから、ケルベロスは頬が緩むのを抑えきれない。
平和ボケしたと言えばしているのだろう。しかし、今の生活が嫌だとも抜け出したいとも全く思わなかった。
「何笑っている」
「何でもねえよ」
ロウガは不思議そうに眉をひそめてから、いつもの服に袖を通した。
リビングに向かえば、すでに食卓に食事が並べられていた。その床下にはケルベロス用と思われる受け皿がある。
湊の作る料理は美味い。ケルベロスは軽く味付けされたりんごと肉を食べながら思う。ロウガが湊と付き合う前、ここに通うようになったのはこれのせいもあると睨んでいるほどだ。臥炎家で出されたものとはまた違う味。豪奢なだけではなく、あたたかさを感じる。高級料理ではないが、手を込めて作ったと思える料理。臥炎家の料理で舌が肥えていたロウガやケルベロスも十分美味いと断言できるものだった。一時期、野宿生活続きでまともな飯が食えなかったときがあり、ケルベロスはひどく湊の料理の味を恋しく思ってしまった。
「ごちそうさま。私、そろそろ学校行くから。あ、アガレス、お皿だけ洗ってくれる?」
「はい。もちろん」
アガレスは裏表ない笑みを湊に向けた。
公爵アガレス。マジックワールドのモンスター。見た目は優男に見えるが、悪魔の名に違わず性格の悪さは筋金入りだ。自分の妹であると豪語する湊ならともかく、ロウガにはそれが丸出しだった。しかも湊の話では貴族のくせに元ヤンキーらしい。とんでもない奴もいたものである。
「カルラはゴミ出しちゃんと行って」
「はいはい」
カルラは軽薄に笑った。怒気を含んだ湊の声を聞いて、どこか嬉しそうにも見える。
神鳥迦楼羅天。カタナワールドのモンスター。へらへらした顔や言動とは裏腹に、実はキョウヤやアガレス以上に腹の内が見えない男だ。しかも湊限定でマゾとかいうとんでもないものまでついている。
こんな一匹と一柱がバディなんて、湊も本当に苦労しているとケルベロスは同情する。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃい〜」
「怪我すんなよ、湊」
「……気を付けろ」
ロウガもぶっきらぼうに、だが優しさのこもった言葉をかける。湊もそれに気付いて目を細めた。
「うん」
湊を見送り、食べ終えたロウガは立ち上がる。
「……行くか」
「おう」
「どこに行くんですか?」
「キョウヤのところだ」
あれ以来、ロウガは学校には通わずキョウヤの元へ通っていた。キョウヤの元に戻りはしなかったが、ただ住んでいないだけのことである。湊はキョウヤに苦手意識があるらしくあまりよく思っていないようだ。時々そうやってケルベロスにこっそり胸を打ち明けてくれる。
キョウヤのボディガードのようなことをしているが、用があれば好きな時間に帰ればいいとのことで、働いている感覚は少なくともケルベロスにはなかった。
「遅くなるなら連絡してくださいね。私は別にお前が行方不明になろうが構いませんけど、湊が心配するので」
「……分かった」
それから、ロウガもいい加減連絡手段を持った。ロウガがウルフであった頃にキョウヤが与えた携帯電話である。今までロウガから湊に連絡することがなかったため、アガレスの言葉と視線がロウガに刺さる。
湊がいなければアガレスはいってらっしゃいと声をかけることもなければ、ロウガも何も言うこともない。そのまま無言で家を出た。
キョウヤの家で過ごしてから、教会へと戻る。今日はカードショップにも、強そうなファイターを探す気もないようだ。
教会への道は途中からどこか異界じみてきて、別世界へ続く道のようですらある。静謐な、それでいて不気味なような。ケルベロスは慣れたが、最初は少し恐怖を感じていた。
ちらりとケルベロスは仏頂面で歩くバディを観察する。愛想がないのは変わらない。しかし、その横顔は昔と違う。見た目は変化がないように見えるが、どこか穏やかさがある。一年前には絶対になかった顔つきだ。
ケルベロスはあの頃のロウガが好きだった。獰猛で傲慢でただひたすらに勝利のみを渇望し、強いと噂されていれば誰でもバディファイトを挑んでいた頃。デンジャーワールドに住んでいたときと変わらないように感じ、楽しさすらあった。
だが今のロウガも悪くない。そう思っているのなら、俺も変わったのかもしれない。ケルベロスは口角を上げた。
「……ただいま」
そんな当たり前の言葉ですらまだ違和感を感じてしまう。ロウガもむず痒いのか、どこかそわそわしている。
「おかえりなさい」
湊が微笑んで返す。それにロウガもうっすらと笑い返した、ような気がした。
ただいまと言えばおかえりが返ってくる場所。それがロウガにとってどれほど大事なものか、ケルベロスには分かっている。
「今日はどこにも寄らなかったんだね」
「ああ」
「ま、どっかふらふらされるよりはいいけど」
「……」
湊が皮肉をこめて言う。思い当たる節の多いロウガは黙ってそっぽを向いた。
部屋に向かおうとすると、湊が声をかける。
「あ、あの、ケルベロス。……また、いいかな?」
「ん? ああ、いいぜ」
主語がないので何のことやらと思ったが、すぐに思い当った。ケルベロスの返事を聞いた湊の顔が明るくなる。その表情は可愛らしく、年頃の少女そのものだ。
ケルベロスの許可を得て湊はケルベロスに抱きしめた。
「はー、もふもふ……」
湊はケルベロスの毛並みを気に入っているのか、こうしてたびたび抱きしめては感触を楽しんでいる。湊のことは嫌いではないし、むしろ好きだ。雑に扱うわけではなく、丁寧に、それでいて敬意すら感じる手つき。嫌がらないように優しく触れているのだから、むしろ気持ちがいい。
とはいえ、ロウガの視線が痛い。俺にまで嫉妬すんのかよと呆れる他ない。独占欲の強い方だとは知っていたが、よもやここまでとは。
しかも湊はそれに全く気付いていない。無邪気にケルベロスの体に擦り寄ったり、優しく撫でたりしている。それが妙に心地いいので、ケルベロスも嫌と拒否するわけにもいかずにされるがままにしている。
それに、いつもロウガにアガレス、カルラといった奴らを相手にして疲れているであろう湊がこれくらいで癒されるのならいい。幼子のような表情にケルベロスも破顔してしまう。ロウガもそれをきっと分かっていて、とやかく言わないでいるのだろう。目は思いきりケルベロスを咎めているが。
「はい、ごめんね。ありがとう」
「いいってことよ」
他の奴にされたら噛みつくが、いろんな意味で世話になっている湊ならば仕方ない。
「じゃあ私洗濯もの畳むから」
そう言って別れた後もロウガは不機嫌なままだ。ケルベロスはふうとため息をついた。
「おや。今日は早いですね」
同じリビングにいたアガレスがロウガに話しかけた。傷ひとつない白い手には小難しい本がある。
「特に用もなかったんでな」
「そうですか。着替えたら外に出てください」
特別興味がなさそうに言って、アガレスは本をテーブルに置いた。
相変わらず冷めた反応をする奴だ。ケルベロスは華奢な背をあくまで軽く睨みつけた。
ロウガは素直にアガレスの言葉に従い、着替えて墓地の方へ向かう。ちょうど墓地と家から中間、道から外れたところに開けた場所がある。アガレスは腕を組んで待っていた。
「準備運動したら始めましょうか」
ロウガは心身ともに強くなることに重きを置いている。以前はトレーニングルームなどで体を鍛えていたが、この教会にはそんなものはない。代わりにアガレスに武道を指南してもらっているのだった。
見た目は線の細い優男だが、その一撃は強く重く速い。昔暴れていたらしいというのも頷ける。ケルベロスは傍で見ているだけなのに、自分に当てにきているような気迫と殺気を体中で感じ、毛が逆立つ。
ロウガはというと一方的にやられている。しかし、それは稽古を始めた頃に比べて格段に動きのキレが違っていた。アガレスの教えは優しさの欠片もないが的確で、自分の脳で考えれば分かるものだ。ロウガに対してムチ十割の男ではあるが、そのあたりはきちんとしているらしい。
「……まぁ、以前よりはマシになりましたね」
そう呟いたアガレスは、息を荒げ汗だくのロウガと対照的に涼しい顔をしている。
あの悪魔が、ロウガを褒めた。日に最低三度はロウガを罵倒しないと気が済まないのかと思うほど、優しさなどない悪魔が。ロウガもケルベロスも目を見開く。
「どういう風の吹き回しだ」
「普通に褒めてやっただけなんですが、何ですかその言い方」
「貴様が俺を褒めるなんてどうかしたかと思うだろう」
「私だってお前みたいな奴褒めたくありません。ですが、バディファイトも体も強くなろうという気概とそれを実行に移す行動力は認めます。……事実、湊を笑わせているのはお前ですからね、荒神」
アガレスの言葉にロウガが怪訝な表情をした。全く思い当る節がないらしい。このバディは人の感情に疎い。まともな愛情を与えられず、人とろくに接してこなかったせいもあるだろうが。
「……お前に会うまで、彼女はあんなに自然に笑うことがなかったんですよ」
黄金の瞳はいつもの狡猾さや不穏さは消え失せ、憂愁の色が濃く浮かんでいる。湊と接するときのこの男は、誰かを誑かし貶める悪魔ではなく、ただの心配性で過保護な兄のようであった。
湊は、いつも独りだったという。誰とも関わらず、小さな世界で過ごしてきたのだと。カルラやアガレスはよく口にする。昔はもっとガラスのような無表情だったと。確かに初対面はロウガと同じくらい不愛想な女だとケルベロスも感じた。
今の湊はよく笑う。それは太陽のごとき笑顔ではない。だが、ふとしたときにこぼす笑みは、この世の至福を享受しているようであった。ケルベロスも彼女の笑みを見ると胸が明るくなる。一番そんな笑みを向けられているロウガもきっとそうだろう。
「私たちは湊のしたいようにすればいいし、無理にどこか連れて行っても傷つくだろうと思って……あのままにしたんです。ですから、これでも私もあのクソジジイも貴方には感謝しているんですよ」
まるで悪魔とは思えぬ優しい横顔だった。兄を自称するアガレスも、カルラも、昔から湊を見守り、彼女を第一に考えていた。それが突然現れた少年が湊を明るくさせたのだ。喜びもあれば悔しさもあるだろう。
しんみりとした空気が流れる。ロウガもケルベロスも黙ってアガレスの言葉に耳を傾けていた。
「まあ、お前に感じる苛立ちの方が上なので特にお前に優しくなどはしませんが」
「……」
つけ加えられた言葉のせいでせっかく多少アガレスの株が上がったと思えば暴落した。やはりこの悪魔は敵である。ケルベロスは再認識した。ロウガも仏頂面のままそう思っているに違いない。
「……そろそろ夕飯の時間ですね。戻りましょうか」
日が沈む空を見て歩き始める。悪魔の背は、どこか哀愁が漂っているような気がした。
「今日はフィレ肉添えのパンとビーフシチューです」
食卓に向かえば湊が楽しそうに告げた。うまそうな肉の匂いがあたりに満ちている。
「ケルベロスはビーフシチューに使ったお肉ね」
SD化しているケルベロスと目線を合わせるため、湊は屈んでそうつけ加える。尻尾を振って待っていると、大きな皿がケルベロスに差し出された。ソースがかかった牛肉はかすかにワインの香りがする。中にまでワインがしみ込んでいるようだ。よだれが出そうになるのをこらえた。
四人と一匹が食事の挨拶をして食べ始める。
「明日は和食がいいなあ」
「作ってもらっている身で何わがまま言っているんですかクソジジイ」
「リクエストがあった方が作りやすいじゃん。ねえ、ご主人」
「何でもいいよりは。和食かあ、魚とか?」
「何でもいいけど今はマグロが美味しいよねー」
「マグロですか。美味しそうではありますが」
「マグロなんて買わないとないよ」
「買えばいいじゃない。小僧荷物持ちにして」
「いやあんたが荷物持ちでしょ、そこは……」
「……別に構わん」
「ほら、小僧もそう言ってるし」
「あのねえ……まあ、ロウガがいいならやってもらおうかな。じゃあ明日はお願いね」
「ああ」
他愛ない会話。けれどロウガが今まで交わしたことのない、当たり前の家族の会話だ。肉を口にするロウガの横顔は、たっぷりワインを煮込ませた牛肉のように柔らかかった。
動いた、食べた。少し休むかとケルベロスはリビングのソファに座り込んだ。あくびを三頭ともしたところで、湊の気配を感じた。見上げると、予想通り湊がにやにやと笑って立っている。
何か用か、と言おうとしたところで口をつぐむ。ケルベロスに用などいくつか決まっているようなものだ。ひとつはロウガのこと。もうひとつは先ほどのもふもふ。
「今日は洗わせてもらうからね」
二週間に一度、湊はケルベロスを洗う。以前はそこまで頻繁でなかった体を洗う行為に嫌気が差していた。しかし、あまりにもしつこいのと湊の真顔が恐ろしかったのでもうどうにでもなれと諦めた。実際慣れると洗った方が気分もいい。鏡を見ると心なしか威厳も上がったように感じる。
「おう。今日も頼む」
ソファから降りて風呂へと向かう。この教会の敷地もかなり広いものの、風呂場まで豪華というわけではない。一人と一匹が入るとちょうどいい程度である。
「お湯かけるよー」
湊の合図でお湯がかかる。三頭は伏せて目をつむった。あとは湊に任せるだけだ。
「気持ちいい?」
「おう。極楽だ」
「それはようございます」
くすくす笑って湊が洗っていく。あくまでも優しい手つきに、ケルベロスは眠ってしまいそうになるのをこらえた。ロウガが洗ってくれたときは正直雑だったので、丁寧で優しい洗い方に心身ともに心地よくなってしまうのだ。
「はい、またお湯かけるよ」
タオルで水気を取ってもらってから乾かしてもらう。
「……またやってるのか」
リビングで乾かしてもらっていると、ロウガがやってきた。また呆れたような、羨ましいような顔をしている。ロウガだって髪を乾かさないでいると湊が文句を言いながらロウガの髪を乾かしにくる。それが時々わざとであることをケルベロスは知っていた。
「だって何日も洗ってないと汚いでしょ。……あ、今お風呂空いてるし、ロウガ先入っててもいいよ」
「……分かった」
ロウガはやはりむっすりとどこか怒りが感じられる仏頂面で言う。ロウガの気持ちに気付かない湊は、ロウガの背を見ながら首を傾げた。
「何、あいつ。ケルベロス、何かしたかな、私?」
「……さあな」
ロウガも鈍いが、湊も結構鈍いな。ケルベロスは湊の膝の上で伏せた。
シャワーを浴び終えたロウガは、与えられた部屋のベッド上でデッキを組直している。ケルベロスも床で眠気と戦いながらそれを見守っている。せめて終わるまでは見ていようとあくびをすると、朝と同じ軽いノック音がした。
「入ってもいい?」
「ああ」
ロウガの許可を得て湊が入ってきた。風呂に入った後だからか、白い格好からTシャツにショートパンツとラフになっている。
二人の邪魔をしないでやろうと目を閉じた。だが、二人の仲の進展具合はかなり気になる。普段とあまり変わらないのか、それとも外に出ると見かけるバカップルとやらになるのか。意識は眠気に負けぬよう二人に向けた。
「あ、デッキ組んでたんだ。ごめん」
「構わん」
「ケルベロスは寝てるの?」
「……みたいだな」
「そっか」
ベッドが少し揺れ、シーツが擦れる音が聞こえる。隣に座ったのだろうか。
それから会話はない。うっすらと片目だけ開ける。ロウガはカードを並べて考え込んでいる。女がせっかく部屋にやってきたのに放置だ。そんなロウガを見つめる湊の目には、慈しみと愛があった。それを見たケルベロスの胸が少し甘くなる。気付いてやれよと茶々を入れたくなるのをぐっとこらえる。
しばらくして、湊が言った。
「ほんと、バディファイト好きだね」
「お前は違うのか」
「私は好きっていうか……嫌いってわけでもないけど、ロウガたちほどじゃないな」
「なら何故バディファイトをしている」
「小さい頃、神父さんが一人じゃ寂しいだろうって買ってくれたんだよね。でも一緒にやる子とかいなかったから、そんなに好きにならなかったけど。アガレスもカルラも戦いたいかなってデッキ組んでるの」
「あれでか」
ロウガが面白そうに言った。これが他の相手なら完全に馬鹿にしていた言葉だろうが、少し冗談めかしている。湊は顔をしかめているものの、本気で怒ってはいない。
「う、うるさいなあ。今はもっとちゃんと勉強してるし。いつかロウガにだって勝つからね」
「ふ。やってみろ」
ロウガはうっすら笑った。湊は優しさを感じる笑みに頬を赤く染めて口をつぐむ。
唇を尖らす湊をよそにロウガがカードを片づけていく。
「あれ、もういいの? ……って、何? 重いんだけど」
湊の問いに答えず、ロウガは頭を湊の膝に預けた。相棒を膝に乗せたりしていたのがよほど羨ましかったらしい。女に甘えるなど、以前のロウガなら絶対にしなかった行為だ。
俺に対する湊の好意はあくまで親愛、そして動物を可愛がるような態度だろうに、バカだな。ケルベロスはため息を心の中にしまう。
湊は湊で満更でもなさそうにロウガを軽く睨んだだけだった。
「やってる方は結構疲れるんだからね、もう……」
つまり、何度かすでにしたことがあるということか。ケルベロスの知らないところで二人は甘ったるい時間を過ごしているらしい。
ケルベロスはキョウヤの次にロウガと共にいた自負があった。キョウヤよりもロウガの傍にいたとも思っている。そんなバディの知らないことが増えていくのは、嬉しくもあり悲しくもあった。
湊が軽くロウガの頭を撫でている。頭というよりは髪の感触を楽しんでいるようにも見えた。やはり湊の表情は柔らかい。
「……ガキ扱いするな」
「されるようなことしてるのはあんたでしょ」
「……」
まさしくその通りで、ロウガは黙って起き上がった。
そしてまた沈黙が訪れる。二人の間に気まずさはなく、ただ共にいることに心地よさを感じているようだった。二人はもう独りではない。誰かと共にいられる幸せを享受している。晴れた森に吹く風のように穏やかで、静かな月の光のように優しい時間。寝たふりをしているケルベロスの胸にも安らぎが染みていく。
「……あのさ」
「何だ」
再びケルベロスは片目だけ開いた。
目の下を薄赤くさせもじもじしている。視線を泳がせては口をもごもごと動かす。その仕草はいじらしく、可愛らしい。ロウガは急かさず、黙って湊を見つめている。無表情のせいで何を思って湊を見つめているのか分かりにくい。片目をうっすら開けては閉じてを繰り返しているので余計だ。
ついに決心したのか、湊がロウガの手に小さな手を重ねた。
「……ぎゅってして」
唇に可愛らしい欲望を乗せた湊の恥じらいが顔中に広がっていった。ロウガはというと、やはり口を結んだままだ。湊の羞恥や焦りが伝染したかのように、ケルベロスまで鼓動が速まる。
少し間を空けて、そっとロウガが湊の体を抱きしめた。真っ赤な湊は目を見開きながらも、おずおずとロウガの背に腕を回す。
女との接することがゼロに等しかったロウガは、抱きしめるだとか、女に甘えるだとか、それらの行為にもっと照れがあると思っていた。いくらケルベロスが寝ていようとも渋りそうだとばかり。慣れか、それとも女にはっきり関心が出てきたのか。先ほどから相棒の意外な点を発見していて、ケルベロスはいちいち反応しそうになってしまう。
ロウガが同じ年の少女と抱き合う姿など想像もしたことがなかった。しかし、こうして実際盗み見ていると不思議と違和感はない。むしろケルベロスの胸にもあたたかいものが灯る。べたべたした薄っぺらい愛情ではなく、何だか甘酸っぱいような、同時に優しさすら感じる愛情が二人の間にはあった。
ロウガの青い瞳は熱っぽい。ロウガが湊の頬に手を添えた。急に触れられた湊も甘い顔をしている。
「あ……」
ロウガの顔が湊の顔に近づいていく。
……さすがにこれ以上覗き見るのは野暮というものだ。ケルベロスは目を閉じ、今度こそ眠りについた。
生ぬるいが、とても平和で幸福なこの日々が続けばいい。そう思うのだった。