結局闇ゲドウ騒動からロウガは一度も教会にはやって来ず、ひたすら同じ生活サイクルを繰り返す日々が続いていた。昔と全く同じはずなのに、湊はどこか虚しくぼんやりしている。そんな湊の様子を気にかけつつ、バディ二人は何も言わずに見守っていた。
ロウガの身に何かあったのではないかと気が気でないとき、WBCカップが開催された。バディファイトが好きなロウガのこと、ロウガの友人のために奔走しているとはいえ、参加するだろうと踏んで湊も中継を見ていた。実際ロウガは日本代表の大会まで登りつめていたが、ステージを破壊して失格になり、それ以降の行方は掴めていない。
湊もロウガを探そうと何度も考えた。せめて見つけ出して無事を確認したい。
けれど、できなかった。見つけたところでロウガの何の力になれるだろう。何を言われるだろう。ずっと教会から出たことがない湊は、考えただけで体が震えて息ができなくなる。結局、臆病で卑怯者で自己中心的なのだ。
だから。WBCカップ決勝戦に突然ロウガが現れ、次の言葉を聞いてテレビの前からしばらく動けなくなった。
「その名は捨てた」
仮面をつけた少年は確かにそう言った。湊はキョウヤと共に去る少年の後ろ姿を穴が開くほど見つめ続ける。すでに映らなくなったその背は、ロウガがやってきたあの日のように胸がきりきり痛むほど寂しい。
あの男は荒神ロウガじゃない。じゃあ一体誰だって言うの。どうして止めるって言ったくせにそばにいるの。そればかりを考えて、湊はまともに眠れなかった。次の日になっても授業も家事もまともに手がつかない。何をしても上の空で、授業の内容も耳に入らないし、重いため息が無意識のうちに何度も出る。
「湊、やかん沸騰してますよ」
「え、あ、やばっ」
アガレスに言われ、ようやく目の前のやかんが沸騰していることに気付いた。慌ててガスを止める。
「……昨日から注意散漫ですね。皿を落としたり、壁にぶつかったり」
「ご、ごめん」
注意されてうなだれる。あからさまに暗くどんよりとした湊に、アガレスは気品ある顔を歪ませた。
「別に湊に怪我がなければいいんです。私たちは」
「そうそ、ご主人がただ暗い顔しているのが嫌なだけだからさ〜」
「……ありがと」
テーブルで一人将棋をしていたカルラも相変わらずの軽薄な口調で笑う。しかし、声には慈悲深くなだめるような温和さがあった。どこまでも優しい二人に湊も張り詰めていた緊張がほどけ、唇がほころぶ。
ようやく小さな笑みを浮かべた少女を見て、アガレスが提案した。
「……気になるなら、あそこに行ってみたらどうです?」
「あそこ?」
「臥炎タワーとかいうネーミングセンスのない建物。あいつがいるかどうかは分かりませんし出てくるかも分かりませんが、行かないよりはいいでしょう」
「確かにねえ。今日はかなり遅いし、明日行ってみたら?」
臥炎タワー。超東驚の中心部にある大きな建物だ。その名の通り臥炎財閥が建設しており、そこには総帥の座に戻ったキョウヤがいるらしい。今キョウヤの傍にいるなら、少年もいるのではないか。アメリカにいるままかもしれないし、もっと別の場所にいるかもしれないが、いる可能性はゼロではない。アガレスはそう述べる。
「……うん。そうしてみる」
湊はその提案を呑み、やかんを持って準備していた茶葉へ注いだ。爽やかな香りが広がっていく。それを嗅いでも、湊の心はちっとも晴れやかではなかった。
「いるのかな」
人通りが少なくなり、空に橙と藍が混ざってきた頃。湊は一人で臥炎タワーにやってきた。アガレスとカルラも付き添おうとしたが断った。これは湊の問題で、家族に手伝ってもらうことではないのだ。
――――それは建前で、もし泣いてしまって縋ってしまうかもしれないのが怖かっただけだ。
唾を飲んで入口へ向かう。アポイントなんて取っているわけがないし、そもそも入れるかも分からない。それでも湊は行くしかなかった。やけに重い足をどうにか奮って歩く。
「何しに来た」
背後から、聞き慣れて耳に染み付いた声がかかる。湊は息を呑んだ。そして、ゆっくりと振り返る。
一見、目の前に立つ少年は何かが変わったようには思えない。テレビで見たときと同じ謎の仮面をつけているくらいだ。だが、纏う空気はあのときのように悲哀に満ち、諦めと後悔が仮面から覗く瞳にうっすら浮かんでいる。
一歩退いてしまいそうになるのをこらえ、湊は身を乗り出して言う。
「ねえ、何あれ。名前捨てたってどういうこと」
「そのままだ。俺はもはや荒神ロウガではない」
「意味わかんないこと言わないで。じゃあロウガじゃないって言うなら、今のあんたは誰なの?」
「……俺は、ウルフだ」
いつもの湊なら、「ウルフ? は? 馬鹿じゃないの?」と顔をしかめて心底呆れている。しかし、真剣にその名を口にする少年を目にして、ロウガは別人になり切ろうとしているのだと信じざるを得なかった。教会に出入りしていたとき、ロウガが名前に頓着がなさそうだったことを思い出す。今はまさにただの狼として友達の傍にいようとしているのだ。
名前について言及するのはやめた。胸の痛みをこらえ、静かな怒りと悲しみが混同した目をまっすぐ見据える。
「あんたの友達は何がしたいの?」
「……俺に、友はいない」
仮面の少年は湊の質問には答えない。だが、友はいないと力なく否定した。それに湊の心がさらにざわつく。あれほど友を救うのだと言っておきながら、友はいないと吐くのだから。
友から否定されても友だと思い続けた結果がこれなのだ。なのに、何もかもを犠牲にしてまで傍にいようとする。二重の苦しみが湊の胸を襲う。少年の苦い決断と、少年の友達に対する思いに。
「用件はそれだけか。ならば去れ」
少年が、ウルフが冷たく吐き捨てた。去れの響きに目の奥が熱くなる。これ以上何か尋ねたら立っていられない気がした。
俯いて、湊はゆっくりウルフの隣まで歩いた。ウルフは離れることも突き放すこともしない。無言で表情の見えない湊に視線を注ぐ。
「…………うそつき」
帰ってきてくれるって、言ったくせに。
声を震わせないよう、必死に耐えて小さく呟く。言葉とともに涙も落ちてしまいそうになる。
こんなことを言いに来たわけではないのに。もっと冷静に振る舞うべきなのに。一番傷ついているのは少年のはずなのに。どうしても抑えられない感情が飛び出てしまう。
うそつき。呻くような苦しい声を聞いて、何となく隣にいたウルフが目を伏せた気がした。
最後にひとつだけ聞いておきたいことがある。しかし、これ以上言葉が出てこない。喉が、胸が詰まって声にすることもできない。唇を噛みしめ、拳を握りしめる。
湊はうなだれたまま、臥炎タワーから去った。ウルフは追ってこなかった。
その後どうやって教会まで帰ったのか、湊は覚えていない。いつの間にか教会の門に立っていた。とっくに日は暮れて冷たい風が、体を、心を追い詰める。
家の扉を開け、リビングに向かうと、ティーカップを持ったアガレスが湊におかえりなさいと静かに微笑んだ。近くのソファで古めかしい書物を読んでいたカルラも、湊が帰って来たと分かった途端顔を上げてにっこり笑う。二人ともお得意の毒のあるものではなく、驚くほど柔和な笑顔だ。二人でいると大抵口喧嘩しているはずなのに。今どんな表情をしているか湊はちっとも分からなかったが、よほどひどいことだけは伝わった。
ただいまと何とか返事をし、また玄関を出る。そしていつもの場所に向かう。
誰もいない冷えた空気が蔓延する聖堂で一人、闇の中輝くステンドグラスを見つめる。あのときこの世の何物よりも美しかった極彩色の光に色は見えない。この聖堂だけが世界に切り取られたようだ。
湊はチャーチチェアに腰を下ろし、青白い唇を動かした。
「私ばっかり好きみたい」
――――俺は、お前が好きだ。
そう、あんなにもまっすぐな目ではっきりと告げるものだから。湊は本当にそう思ってくれているのだと信じることができたのに。でもあれを嘘だと決めたくはなかった。ロウガが軽々しく異性に好きだなど言う性格じゃないことなど、それなりの時を過ごして理解している。
それでも、やはりキョウヤの方が上なのだと知らされて。以前まで長い間頬を伝うことがなかったものが、ゆっくりとだがとめどなく溢れてくる。
悲しくて、痛くて、苦しくて泣くことはなかった。誰も助けてくれはしないから。今だってそうだ。それでも湊は服へ落ちる涙を止めることができない。
せっかく可愛げのないモノトーンの服から、清楚で可愛らしいワンピースになったのに。帰ってきたときに少年が何か反応をくれるのではないかと思って勇気を出して買ったのに。可愛いと言ってくれるのではないかと期待していたのに。お気に入りの服が惨めな涙で濡れていく。
夕暮れの聖堂で流したのは、感動と歓喜の涙だった。今夜の聖堂で湊がひたすら流しているのは、絶望と悲しみの涙だった。
闇の色が濃くなり始めても、拭うこともせずに静かに悲しみを目から零した。
もう忘れてしまおうか。そんなことすら考えた。けれど、力強く深い青の瞳が、抱きしめられたときのあたたかさが、不敵な笑みから想像もつかないような穏やかな微笑みが。すべて思い返すと甘く清らかな思いでいっぱいになった。
同時に、体が冷えていくのを感じる。あまりにも寒くて冷たくて、膝を抱えた。どれだけ腕をこすっても息を吐いても、むしろ寒くなっていく一方だ。
このまま氷像になってしまいそうになるほどの冷たさを感じたとき。湊は最後に仮面の少年へ尋ねようとした言葉が頭に浮き上がった。
――――私ってあんたの何?
きっと少年は答えられないのだろうと思って喉奥にしまった。結局のところ、現状が答えなのだ。でも、本人の口から答えて欲しかった。湊よりずっと低くて、どこか不機嫌で、硬くて、芯の通った声で。
湊は荒神ロウガのことが好きだ。
気の利いたことは何にも言えないけれど、ただ隣にいてくれるだけで何かを伝えてくれた。湊を、嫉妬深くて自分勝手な少女を好きだと少年は告白してくれた。そんな不器用で、でもとても優しいひとが好きだ。
凛々しい声で名を呼んでほしい。奥底に炎がちらつく青い瞳に自分を映してほしい。同い年よりずっと逞しい腕で抱きしめてほしい。少し硬い唇でキスしてほしい。誰もいない聖堂や自室で、そんなことを悶々と頭に巡らせてしまう。完全に馬鹿だ。浮かれている。いつか読んだことのある『ロミオとジュリエット』のように、好きなひとが恋しくてたまらない。そして我に返っては叫んだり、唸ったりした。
湊は、ロウガに何もしてこなかったのに。好きだと言ってくれたのだ。
湊がしたことといえば、料理を作ったことと、傷ついたときに傍にいただけだ。
行かないで。傍にいて。それすら口にできないほど意気地なしなのに。
何も知らないから。迷惑をかけてしまうから。言い訳をして何もしてこなかったのに。
だから、好きなひとを失ってしまったのだ。遠くへ行ってしまったのだ。
ロウガのことだけではない。友達ができなかったのも、家族がいるのを妬んで心のどこかで馬鹿にして、家事という大義名分をつくって一線を引いていただけだ。
何もしなかったから何もないのは当然だ。湊は乾いた笑みをつくって自嘲した。
――――なら、何かしたら。行動を起こしたら。再び、ロウガは湊の隣にいてくれるんじゃないか。
当たり前のことだが、湊は天啓を受けたように閃いた。
空虚な瞳に再び光が宿る。そうだ。もう一度会って、待たせたくせにあのザマだから引っぱたいて。そして、湊はどんな存在であるのか尋ねよう。できることなら取り戻そう。氷柱だった自分の体が溶けていく。ステンドグラスは月ではなく、太陽の光に当たられたように輝き始めた。
もう一度好きな人に会いに行こう。あの諦めと後悔を浮かべた顔を殴って、この胸の高まりを伝えなければいけない。
「ご主人、寒くなかった? 風邪引くから、お風呂入りなよ」
「その前に紅茶でも飲みますか?」
家に戻ると、まだリビングにいたバディたちが声をかけた。
湊の目は赤く腫れているだろうし、先ほども死人のような顔をしていたはずだ。臥炎タワーで何かあったことは明白だが、詮索せず普段通りに接してくれる。正直アガレスとカルラにはかなりの頻度で鬱陶しいと感じたり、気持ち悪いと軽蔑したりもする。しかしやはり長い間生きているからなのか大人で、悪魔と神様とは思えないほどとても優しい。
湊は充血した目をほころばせる。
「アガレス、カルラ」
「はい?」
「何?」
「ごめんね。いつも、ありがと」
二人は目を合わせて、湊へ優しく笑った。ひどく邪気のない笑顔で、本当に悪魔と神様のようには見えなかった。
決断したら後は早い。まず、湊はロウガがキョウヤの次に執着していた人物に会いに行くことにした。
「あの、未門牙王、君……ですか?」
「そうですけど……」
翌日の放課後。相棒学園初等部へ赴いて出待ちしていると、さっそく目的の人物に会えた。
未門牙王。相棒学園初等部六年生。数々のバディファイト大会を勝ち抜いて、今やキョウヤと戦って世界チャンピオンに上り詰めようとしている少年。とはいえ、実際会って話すのは初めてで、会話が得意ではない湊は牙王が年下とはいえ言葉が途切れ途切れになってしまう。
周囲には牙王のバディである太陽竜バルドラゴン、タスクとバディのジャックナイフドラゴン。それから顔は知らないが、牙王の友人であろうツナギの男子と眼鏡をかけた女子がいる。共にいる印象が強かった世界大会上位の虎堂ノボル、黒須ガイトとバディのアビゲールはいないようだった。
「時間、少しもらえませんか?」
「えーと、俺たち……」
「私、ロウガの関係者、みたいなものなんですけど」
ファンか何かと勘違いされたらしく、どう断ろうか迷っていたような目が変わる。全員が驚愕の表情を湊に向けた。
「荒神先輩の!?」
「……牙王君、場所を変えよう」
口をぽかんと開けて呆然とする牙王たちの中で一人だけ冷静なタスクが言った。タスクは驚きを混ぜながらも、剣のように鋭い視線を湊にぶつけている。無理もない。キョウヤに協力しているロウガの関係者とあれば、バディポリスであるタスクが疑問に思わないわけがないのだ。
ということで、湊は牙王の家に行くことになった。皆時々視線を投げかけてきたため、二歩ほど後ろを歩いていた湊は居心地が悪かった。注目されるのは嫌いだ。首をすくめて猫背になる。
着いた牙王の家は大きかった。聖堂や墓地を含めれば湊が住む教会もかなりの広さだが、住宅地の中でこれは大きい。視線をあちこちやりながらお邪魔する。
笑顔がいっぱいの可愛い妹、優しげな父と不思議な祖母。中に入ればそんな人たちに出迎えられ、胸に小さくも深く暗い穴が開くのを感じた。
「改めて、貴女は誰ですか?」
湊以外が軽く自己紹介をしてから空気が変わった。広いリビングのソファに座っている全員の目が湊に向けられる。タスクの厳しい声音に、湊は唾を飲み込んで答える。
「私は相棒学園中等部二年の黒瀬湊。ロウガの関係者っていうか、なんていうか……」
「えっと、黒瀬、先輩。荒神先輩とはどういう関係なんだ?」
「えーと……」
牙王の最もな疑問に言葉が詰まる。ここで彼女だ恋人だと明言するのは羞恥が勝った。それに、ロウガとどういった関係なのかは自分が今知りたい答えだった。
「だが、ディザスターに貴女のような人はいなかったはず。貴女は臥炎キョウヤとも繋がりがあるということですか?」
「でぃざすたー? ……ごめん、私、そういうことは何も知らないの。本当に、何にも……。それに、臥炎総帥とは何も関係がないよ。私はロウガとしか会ったことがない」
ディザスターなんて単語を始めて聞いた。いや、臥炎カップで耳にしたディザスターフォースならば耳にしたことがある。それくらいで、ディザスターなんてチームや組織の名前など知らない。本当に、呆れるくらい湊は何も知らなかった。何も聞かず、何も教わらなかったから。
目を伏せた湊にタスクはさらに問い詰める。
「ディザスターも知らない、臥炎キョウヤとも関係がない、けれど荒神ロウガとだけ会ったことがある……どういうことですか?」
「えっと……」
タスクはますます不審そうに湊を睨みつけている。キョウヤのスパイなのではないかと勘繰っているのかもしれない。
どう言ったらうまく和らいだ表現になるか、もういっそのこと一から話してしまおうかと悩んだとき。眼鏡をかけた女子、宇都木くぐるが手を打った。
「もしかして、なんですけど……黒瀬先輩、荒神先輩の、恋人、とか、ですか?」
一気に顔が沸騰したように熱くなった。初対面の小学生にはっきりと口にされてしまい、湊はスカートをぎゅっと握る。脂汗まで出てきた気さえする。そんな湊の反応に周囲がさらに驚きに包まれた。
「あ、荒神先輩の彼女ォ!?」
「びっくりバル!」
「あの荒神ロウガに……?」
「意外だな」
「つーか、くぐる、よく分かったな……」
「荒神先輩の知り合いに女子ってソフィア元副会長くらいしか思いつかなくて……ディザスターでも臥炎キョウヤの関係者でもないけど荒神先輩の関係者っていうと、恋人かなって」
くぐるがすらすらと言う。まったくもって完璧な推理である。眼鏡女子は伊達ではないようだ。本当に恋人であるのかは、湊ですら分からないのだが。
タスクは驚愕と戸惑い、それからどこか照れが入った眼差しを湊に向ける。先ほどの責めるような強気な態度とは大違いだ。
「黒瀬さん。その、貴女は、荒神ロウガの、恋人……なんですか?」
「……私も、よく分からないの」
「どういうことだ?」
注目される中、躊躇いながらも湊はゆっくりと最初から話した。
ある日突然ロウガにファイトを申し込まれたこと。ファイトに負けたが、以後偶然出会っては話すようになったこと。そのうち好きになったこと。キョウヤの計画を止めてから告白されたこと。そして、昨夜のこと。
切なさとやるせなさ、悲哀。すべてを帯びた目をする湊に、口を挟む者は誰もいなかった。黙って話に耳を傾けている。
「だから、私、何も知らないの。本当に、何にも……。だから、君たちが期待しているようなものは何にも持ってない」
何も知らない。何も持ってない。自分で口にするとさらに胸に傷ができた。何度も自分で傷つけているから慣れているはずなのに、けれど、もう何も知らないですませてはいけないのだ。もう待ってばかりの都合のいい女でいるのは、卑怯で臆病な子供でいるのは、やめなければいけないから。
湊は、仮面の少年が、荒神ロウガが好きで、大好きで、そして――――きっと、彼を愛しているから。
それが、聖堂で考え込み悩んで分かった唯一のことだった。
湊は打って変わって強い瞳で牙王と、タスクを見た。
「だから、教えて欲しい。あいつのこと」
「……僕たちの知ってる範囲でよければ、お話します」
湊をじっと見つめていたタスクが、口元に微笑みを携えて言いった。疑いの眼差しは消え失せている。それに安堵した湊もはにかんだ。
「ありがとう」
それから全く知らなかったことが雪崩のように話される。
実はロウガはクリミナルファイターだったとか。角王に認められて闇ゲドウを倒す協力をしたとか。キョウヤは世界を滅ぼして創り変えるとか。衝撃的事実に頭がついていかないし、湊には縁のない言葉が飛び出すぎて宇宙言語を話されているのかと思った。
臥炎カップの後、それから地下シェルターでのロウガの背中を思い出す。あの背中に世界の命運なんてものを負っていたのか。通りで広く見えるはずだ。
「……ということで、僕らはそのドラゴンドライについて調べているんです」
「……そうなんだ」
キョウヤはまた世界を滅ぼそうとしているのだという。今度こそ世界を創り変えると。
正直な話、湊にとってそんなことはどうでもよかった。とりあえずウルフなんて名乗っているロウガを引っぱたいて、黒瀬湊は彼にとって一体何であるのかを問いただして。そして、今度こそ共に日常を過ごせたらいいのだ。教会という小さな世界で育ち、出ることもなかった湊には全世界なんて、全人類の命なんて重すぎる。そんなものは牙王やタスクに任せればいい。なんて他人任せでひどい奴なんだろう。根本的に成長していない自分を心の底で嘲った。
「分かった。私もどうにか調べてみる。今日は本当にありがとう」
家から去ろうと立ち上がる。すると、牙王が声を張り上げた。
「あの!」
湊は牙王へ振り返る。
牙王の目には迷いがない。その瞳に宿る光は明るく輝いて、誰もが見ただけで素直になってしまいそうな、そんな力があった。希望や勇気、喜びを灯した強い目。ロウガがよく牙王のことをどこか楽しそうに話していたのが、何となく分かった気がする。
「……何?」
だが、湊に太陽は眩しすぎる。牙王は、ずっと狭い世界で生きてきた湊の目には痛かった。
そんな湊に気付かず牙王は真剣に言う。
「黒瀬先輩といる荒神先輩って、どんな人でしたか?」
そんな質問をされるとは思わず、湊は少し固まった。視線を泳がせる。それから教会で共にいた日々を思い起こす。
出会って早々ファイトを申し込まれ、負けたら散々言われた日。あのときは強いからそんなことが言えるのだと、自分を否定されたと、ひどく屈辱的だった。
無理矢理とはいえ料理を振る舞って「まあまあ」なんて評価を下された日。本当になんて失礼な奴なんだろうと腹が立った。
湊は目を伏せながらこぼす。
「……基本的に思ってることは何にも言わないわ、私以上の不愛想だわ、デリカシーないわ、バディファイト馬鹿だわ、ほんとイライラすることが多かったな。でも――――」
雨の中にひどく寂しい目をしていた日。傲岸不遜なロウガがそんな目をするとは思わなくて、胸が締め付けられた。
突然下の名で呼ばれた日。苗字を呼ばれるものだと思っていたものだから、まるで親しい間柄になったかのようで、顔も胸も何故か熱くなった。
家族の墓参りに付き添ってくれた日。理由は明確に言ってくれなかったけれど、バディや保護者がいてもずっと独りだった湊はそれがひどく嬉しくて、泣きそうになってしまった。
キョウヤに友ではないと言われて湊の元へやってきた日。自分はロウガの頼れる存在なのだと、あのときなおさら胸が幸福になった。
夕暮れに優しい顔つきで好きだと告げられた日。湊の醜い部分も全て受け入れてくれたから、生まれて初めて愛された気さえした。
出会っておそらく一年ほどになる。十四年のうちの一年は短くて長い。宝石のように美しく色鮮やかな記憶が、湊にはすべて愛おしい。
「優しかったよ。不器用だけどね」
そう言って、湊はとろけるように甘く微笑んだ。
強くて、不器用だけど優しくて、弱いひと。それが湊にから見た荒神ロウガだった。
牙王は湊の言葉を飲み込み、満面の笑顔を向ける。
「俺も、荒神先輩は優しい人だと思います!」
それに湊もまた唇をほころばせた。
――――好き。大好き。きっと、貴方を愛してる。だから、お願いだから。離れないで、そばにいて。
ひとしきり殴った後は、そう伝えると心に決めた。
まだ体は少し寒い。だから、寒さを埋めてくれる人を連れ戻さなければ。湊は帰り道一人で笑った。