月明かりの下で
彼女の幸せは、どんなものなのだろう。
どんな形?どんな色?どんな香り?どんな味?温かいのか?冷たいのか?熱いのか?重いのか?軽いのか?硬いのか?柔らかいのか?
…考えても答えは出てこないが、きっと温かくて、柔らかくて、優しいものだと思う。
それらは彼女が追い求めていたものであるし、そして、得られなかったものだ。

彼女の求めたものは、とても女性的なもので、僕ではうまく与えられないものだった。
僕は彼女にどんなものでも与えてやりたかったが、彼女は多くを求めなかった。
ほんの少しのものを欲しがったが、僕はそれを叶えてやれなかった。

名無しさんの欲しがるものは、僕の持ち得ないものだった。
僕は少なくとも温かくはないし、柔らかくもないし、そこまで優しいわけでもない。(名無しさんにだけは特別だったと思うけれど)

だから、彼女は欲しいものを得るために、夢の世界へ行ってしまった。
そこには、きっと、名無しさんの欲しいものがすべてあったと思う。
だから、名無しさんは帰ってこない。


名無しさんが幸せを求めて行ってしまってから、もう10年近くが経つ。
学校を卒業するときに、寝かされていた名無しさんを一緒に連れてきた。
眠りについてしまってからも、僕は名無しさんが好きだった。
一種の気狂いのように、名無しさんのことを好きでいた。

名無しさんは今、とある部屋のベッドに寝かされている。
その部屋は、広いわけでもなく、狭いわけでもない。
ただ特徴的なのは、その部屋にある床から天井まである大きな窓だった。

窓の天井近くにはステンドグラスが嵌められていて、きらきらとしていて綺麗だ。
その窓の傍にはアンティーク調の猫足のチェアーが置かれている。
自分が座るわけではない、ただそこにあるべきだと、僕はそう思った。
名無しさんが起きたときに、きっとそこでまた外の風景に目を細めてくれるのではないかと、そう思ったからだ。

その姿を、僕が見たかったからだ。
僕の求める幸せは、それだからだ。

ベッドの脇にはサイドテーブルがあって、そこにはノートと写真立てが1つずつ置かれていた。

ノートは昔、名無しさんにプレゼントしてもらったものだ。
シンプルなデザインのそれは、今は分霊箱として、僕の魂を納めている。
いつか、僕に何かあったときに、その魂が僕の代わりになって、名無しさんの傍にいてくれる。

その隣の写真立ては、僕が名無しさんにプレゼントするはずだったものだ。
彼女が林檎の木が好きだとそういったから、林檎をあしらってみた。
僕は結構手先が器用だから、こういったものを手作りするのはそう難しくはない。
普段は滅多にやらないが、珍しく彼女が「写真立が1つ欲しい」とそう言ったから。

これを渡す前に、彼女は眠り姫になってしまったから、今は彼女に見てもらうべく、ベッドサイドに置かれている。
写真も入っていて、この写真と一緒に名無しさんに手渡す予定だった。
その写真は、僕の友人がこっそり、図書室の僕らを撮ったものだ。

勉強をしている名無しさんと、それを教える僕が写っている。
分からなかったところが分かるようになって、少し微笑む名無しさんの姿が写されている。
微笑む名無しさんを見られるのは、この1枚だけだった。

「名無しさん、まだ帰ってきてくれないの」

ぽつりと口から零れた言葉は、弱弱しくあたりの空気を震わす。

僕はもう成人して、自分のやるべきことをやっている。
こんな弱い姿は誰にも見せられなくなった。
本当の僕を見せられるのは、あのときから変わらず、名無しさんだけだ。
名無しさんだけは、どんな僕でも受け入れてくれると、そう思っているから。

すきで、すきで、たまらない。
年月が経ち、僕は大人になった。
だけど、その心は何も変わらない。
臆病で欲しいものばかりで、強い振りをした形ばかりの心。

ベッドで眠る名無しさんの姿は、眠り始めた頃と何一つ変わらなかった。
年月が経ったが、子どものまま。
無垢で、静かで優しく、無欲な塊。

時が経てば、いつかは名無しさんのことを忘れられるのでは?と思ったときもあった。
だが、時が経つにつれて、いつしか名無しさんがいないなんて想像もできなくなった。

名無しさんがいなかったら、こんな弱った姿を誰に見せよう?
もう、僕自身を認めてくれるのは、眠る名無しさんだけなのに。

「ねえ、目を覚ましてよ…!」


(鈍く光る写真立てとその中の永遠)
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