3.
へし切長谷部はお喋り個体らしく、この本丸の様々なことを教えてくれた。それこそ見栄えのいい場所やら、本丸内の立地だとか、畑の様子だとかまで細やかに話す。湖の上に建つこの本丸は大きく4つの棟に分かれ、各々は渡殿か橋でつながっている。湖の水は山の上から流れてきて、畑を抜けて流れていくそうだ。他の本丸になど行ったことがない私たちにとってそれは興味深い話だった。そんな話を聞いてしまえば、好奇心旺盛な清光が黙っているわけがない。

「ねえ、ここの本丸で散歩してもいい?」
「ああ。俺もついていくことになるが」
「あ、それなら手入れ部屋に前田藤四郎を安置したままなので迎えに行きたいです」
「承知しました。では手入れ部屋に行ってから中をご案内します」

最初は緊張と警戒が織り交ざった状態だった清光も手入れで綺麗になって、その上長谷部から餌付けされたせいか本来の性格が表に出てくるようになったみたいだ。それと合わせて手入れ部屋に置いてきてしまった前田を迎えに行かなくてはならない。堀川国広の来襲でバタバタしていて前田の手入れが中途半端な状態で終わってしまっている。鶯丸に見てもらっているが心配だ。少し待ってもらって前田も顕現させてあげよう。話も聞きたいし。
長谷部はちゃぶ台の上を簡単に片して湯呑と急須を手に席を立った。私たちもそのあとに続く。

「では行きましょう。まずは手入れ部屋からですね」


―――――――――


離から本殿裏の、鍛刀部屋と資源部屋が並ぶ建物の中に入った。それにしてもこの本丸は静かだ。日は高く昇っているというのに、外で遊ぶ短刀の声もしないし刀剣男士たちの声もしない。ただただ水の流れる音や微風が木々を揺らす音しか聞こえず、本当にここが本丸として稼働しているのか不安になるレベルだ。きょろきょろと辺りを見回しながら歩いてみたが、刀剣男士の姿はちっと見えない。
玄関のある初殿に戻り、長谷部が手入れ部屋の引き戸を開いた。清光が私の前に立って警戒をしている。誰かいるのだろうか。

「――ああ、鶯丸。何をしているんだ?」
「いや、雪洞を直そうと思ってな」
「それを張るのか」
「ああ、いいだろう?」

手入れ部屋を覗くと暗がりの中に鶯丸がいた。手には小刀を持っているーー恐らく清光はその小刀に警戒したと見える。長谷部が暗い、と忌々しく呟いて壁の脇に設置されていたスイッチをぱちりと入れた。その瞬間に電気がつく。雪洞だけしかないのかと思っていたのだが、電気も通っているらしい。
明るくなると手入れ部屋の全容がしっかりと分かるようになった。先ほど大いに荒らしてしまった手入れ部屋は綺麗に片づけられ、パーティションが微かに歪んでいる程度しか気にならない。鶯丸は手入れ用の机の上で雪洞に和紙を張りなおしていた。色とりどりの和紙が置かれている。長谷部と清光が大いにため息をついたのが印象的だ。

「あの、前田は無事ですか?」
「ああ、君の前田藤四郎か。大丈夫、ここに居る」

ここに、と言って指差したのは机の脇に据え置かれている資源置き用のと思われる一段低い台の上だった。きちんと刀置きの上に安置されている。鶯丸は丁寧に前田を両の手で掬うように取って私の手の中に収めた。少し霊力を込めると、涙目の前田が私の前に立っていた。
御無事で何よりですとしゃんと立ってそういうので、私は堪らなくなって前田を抱きしめた。練度上限にも達していない短刀一振りで阿津樫山を抜けて私のところに戻ってきてくれた。私を選んでくれた大切な私の刀。本当に無事でよかった。
暫く抱きしめあっていた私たちだったが嫉妬したらしい清光がずるい俺も!と飛掛ってきて3人で笑いあって、前の本丸にいたときのような明るさが全員に戻った。その様子を見ていた鶯丸も長谷部も穏やかそうな顔だった。ちょっと恥ずかしい。

「鶯丸殿、保護していただきありがとうございました」
「いや、気にしなくていい。主の元に戻れてよかったな」

前田が鶯丸に向き合って折り目正しく一礼した。どうやらあの堀川国広の騒ぎの後片付けをしていた鶯丸が鞘に戻して刀置きに安置し見守ってくれていたらしい。鶯丸はよかったよかったと目元を細めて微笑んだ。面倒見の良いお兄さん――彼の打たれた年代を考えればお爺さんなのだが如何せん見た目はお兄さんだ――のように見える。
ただ彼もまた長谷部と同じく、何か過去を持っていておかしくない。ここまで穏やかでいられるのが奇跡である可能性もある。
彼はどんな刀生を送ってきたのだろう。鶯丸をじっと見てみたが、彼に影の一つも見えなかった。

「そろそろ行きましょう。――鶯丸、お前働きすぎるなよ」
「ああ、適度に茶でも飲むさ」
「大和守はどこへ行った?まあいいがーー誰か茶飲み仲間にでも声を掛けてこよう」

長谷部が手入れ部屋の扉の先からそう声をかけてきた。鶯丸の話も気になるところだが、そう土足で踏み入っていい場所ではあるまい。働きすぎの鶯丸というワードだけでもいろいろと突っ込みたいところだけれど。鶯丸と言えば働かないことで有名――というほどではないにせよ、基本的にはあまり率先して働くタイプではないはずだ。やはりなにかあるのだろう。
恐らく働かせすぎないようにと長谷部が誰かに声をかけて、と言ったところで鶯丸の表情が険しくなった。長谷部もその表情の変化に怪訝そうな顔をする。

「いや、――長谷部、対の屋敷には寄らないほうがいい。大和守がそちらに行った。俺はここに居ろと言われたくらいだ」
「――そうか、わかった。まあ誰かとすれ違ったら言っておく」

よろしく頼む、と鶯丸は再度微笑んだ。一人よりは誰かがいた方がいいとは思っているらしい。
それにしても、少し雲行きの怪しい会話だった。対の屋敷というのは本殿の向かいの、先ほど煙管を蒸かしていた同田貫のいた建物のことだろう。その証拠に手入れ部屋を出ると長谷部は来た道を戻る。

「さっきのって…」
「ここの太刀は大抵練度が低いのです。危ないときは対の屋敷には戻りません」
「危ないって」
「堀川国広が騒いだからな。他のも不安になったんだろう」

恐る恐る長谷部に声をかけてみると彼は苦笑いしてそういった。その言葉に突っ込んだのは清光だ。長谷部曰く、堀川国広が騒いだために他の刀剣も落ち着かなくなってしまった。そうなると室内で何かあったときに太刀であり練度の低い鶯丸さんは自分の身を守ることも危うくなる。そのため、対の屋敷から避難しているという。そういった事象は時折ある事のようで、室内戦に強い短刀たちが対の屋敷を警備して回って大人しい打刀以上の刀を退避させているのだという。
そんな話をしながら本殿前の廊下を歩いていると、対の屋敷のひとつの欄干が勢いよく開いた。

「誰か手助けください!」
「髭切さん!落ち着いて」
「―――ああ、ダメだったか。申し訳ありません、ちょっと見てきます」

欄干に身を乗り出しているのは髭切だった。遠くて顔までは見えないが、あの特徴的なクリーム色の髪と白い詰襟は見間違えることはない。彼は背を欄干に押し付け逃げようとしているようだった。右手は乱藤四郎に引っ張られている。どうやら欄干から飛び降りようとしているのを乱藤四郎が止めているらしい。髭切の背と欄干の間に誰かもう一人いて、彼の背を懸命に押している。髭切も何か騒いでいるようだが言葉になっていなかった。
それを見た長谷部は持ち前の機動力で鴬張りの渡り廊下を駆けていく。ぽかんとしている清光の隣で私は驚いていた。他の刀剣なら、この行動を起こしたことに違和感を覚えることはなかっただろう。ただ、彼はへし切長谷部である。長谷部は主命を忘れてしまったのだろうか、あの長谷部が。ここの主である汀さんは必ず客人についているようにと長谷部に声を掛けていたはずだ。彼は今、主命よりも仲間の手助けを優先した。
対の屋敷のほうからは誰かの怒号だけではなく剣戟の音まで聞こえてくる。いったい何が起こっているのだ。清光も私も前田も、何も言えずその場から動くこともできなかった。何とか髭切は部屋の中に収められたようだが、あの欄干窓からは何やら激しい物音がしている。何が起こっているのか全く分からない。

ふと視界の端に黄色い薄い何かがひらめいて、ようやく私はそちらに視線を動かすことができた。揚羽蝶がひらりひらりと湖の上を飛んでいる。水面すれすれを緩やかに上下に飛ぶ蝶はどこかで見たことがある。どこだったか思い出せない。その蝶を追いかけるように錦鯉がうろうろとして、時折水面から飛び上がっていた。揚羽蝶は錦鯉など気にすることもなく、優雅に高くまで舞い上がって渡り廊下の屋根の下まで飛んで行き、渡り廊下を桃色の袈裟を翻して歩く宗三左文字の肩に止まった。なるほど、極の宗三左文字についている揚羽蝶だったか。あれも眷属の一部に含まれるのだろうか。

「おや、客人。無事で何よりです」
「あ――宗三左文字、」
「ええ、どうも。へし切はどうしたんです?」
「いえそれが――先ほど、向かいの屋敷に慌てて行ってしまって。ここならそこまで危険はないから待っていてくれと」

困った人ですねえ、と宗三は頬に柳指をあてて小首をかしげた。戦闘装束ではあるが風呂上りなのか髪が少し湿っていて、火照った様子の頬や鎖骨がどうにも艶めかしい。彼はちらりと対の屋敷を流し見て気だるげにため息をついた。

「そうですか。対の屋敷が騒がしいですし、何かあったのかもしれませんね」
「ほっといていいんですか?」
「ええ、僕が行かなくても誰かしら動いていますし。それにあなた方を置いておくわけにもいきません」

しれっと手伝いにはいかないと言い切ったあたり宗三左文字らしい。その一方で客人を一人にしてはならないという本丸のルールもきちんと守る。どうやらこの宗三左文字は面倒なことに首は突っ込まないが、やることはやる刀のようだ。じっと宗三左文字を見ていたせいか、彼がこちらを向いてうっそりと微笑んだ。

「どうです、この本丸は。退屈はしませんでしょう」
「まあね。宗三はどういう刀剣なの?」
「加州清光、好奇心は猫をも殺すって言葉知ってます?」

退屈という言葉で括ってしまっていいのだろうかと思うところはあるが、宗三左文字は何でもないことのように笑う。清光は私と同じように退屈の言葉に思うところがあったようだ。ここの堀川国広――新撰組所縁の同胞がああも変わり果てた姿でいることを退屈しないの一言で済ませられるのは腹立たしいに違いない。苛立ちをそのままに清光は宗三に問いかけた。
彼は清光の問いかけに対してやはり微笑んだまま、ただ棘のある返答をした。藪蛇だったのだろうか。

「冗談ですよ。僕はこの本丸で鍛刀された、ただの宗三左文字です」
「あ、そうなの」

意味ありげに微笑んでいたが、彼は汀さんに鍛刀された刀だという。兄の江雪左文字、弟の小夜左文字と共にこの本丸に最初期からいる一振り。だからここの内情もよく知っているし、慣れているそうだ。
宗三はちらと対の屋敷の欄干を見る。未だ対の屋敷からは叫びに近いような声が聞こえているし、屋敷の出口からは避難しているらしい太刀や短刀たちの姿が見える。どうやらかなり大ごとになってきているようだ。

「髭切は最近来たばかりで、どちらかといえば大人しい方です。ただ刀見知りが激しくて、あまり慣れていない刀が突然部屋に入ってくると驚いてああなります。ああーー」

大人しいといわれても信用ならないくらいに大暴れしているのだが、あれで大人しいのだろうか。そもそも髭切は刀見知りをするような性格には思えない。ブラック本丸の弊害でそうなったに違いないと思うと言いようのない不安に襲われる。彼らは私たちを憎んでいる可能性が高い。優しい彼らをそうしたのは私たち人であり、彼らを怖がるのは勝手が過ぎるのだろうがそれでも怖いものは怖い。
宗三はやはり微笑んだままで、また私のほうを見た。まるで私の反応を見ているかのように。ただ今回はすぐに視線が外れて、本殿のほうを見ている。清光も何かに気づいたようでそちらの方を見て、私を端の方に寄せた。

「―――大倶利伽羅、髭切がおよびですよ」
「知っている!」

刹那、本殿脇から黒い影がさっと通り抜けた。目を白黒させる私の前で宗三が大倶利伽羅、と言っていたから、今走り抜けていった影は彼なのだろう。宗三は、髭切の面倒見役が大倶利伽羅であるのだと教えてくれた。

「大倶利伽羅が行ってしまったとなれば厨が心配ですね。厨に行きましょうか」
「え、あ、うん」

宗三は私の返事を聞く前に本殿脇の渡殿のほうへと向かう。長谷部と違って私たちの希望よりも本丸のことを優先させているらしい。ただそれでいて主の命令は守っている。奔放ではあるが筋は通っているからそれに思うところはない、宗三らしいとはおもうけれど。宗三は歩きながらこれから向かう建物のことを教えてくれた。向かう先はちょうど本殿を背にして左側の建物で聞けば厨と食糧庫があるらしかった。更にその建物の裏が畑になっており、この建物は半分が水、半分は地面の上に建っているのだとか。またここでは内番に厨番があり、必ず3名以上はその内番にあたる。大倶利伽羅と厨のつながりはあまり想像がつかないが、彼もまた伊達の刀だから料理はできないわけではないのだろう。大倶利伽羅がいないと厨が心配とまで言わしめるのだから、厨番に彼も加わっているのかもしれない。

「今は夕餉の準備に追われている時間ですし、大倶利伽羅に抜けられると大変です」
「大倶利伽羅?なんで?」

ひらひらと長い袈裟が揺れるのを追いかけるように、本殿脇の渡殿を歩く。そのあたりから日の光が入り辛くなって、その代わりに出汁の良い香りが漂うようになった。遠くから先ほどの喧騒とは違う、がちゃがちゃと物が当たる音や威勢の良い声が聞こえてくる。宗三の言う通り、夕餉の支度に追われているらしい慌しさが音になって伝わってくる。
それにしても先ほどから大倶利伽羅の名前ばかりを聞いている。清光もそれが気になったのか小首をかしげて宗三に問いかけた。宗三はにっこりと微笑んでこちらを見た。

「うちの永久厨番は大倶利伽羅ですよ。歌仙は居ますが片付けと食材管理が苦手、燭台切は得意ではありますが料理にさして興味がないので」

皆驚きますが大倶利伽羅も伊達に最も長くいた刀ですし、まあおかしな話ではないです、と宗三は添えてまた前を向いて歩く。確かに大倶利伽羅の経歴は伊達に始まり、伊達に終わるといっても過言ではない。だがあの、ただでさえ馴れ合いを好まず、きちんと慣らさないと戦場ですら単独行動をすることがある彼が厨の長とは。ちなみにうちの大倶利伽羅は戦場において独断で単独行動をして重傷になって帰ってきたことがある。あの時は眩暈がしたし、その後大変に叱った。そのあとからは単独や独断での行動はしなくなったが納得させるまでが大変だった。その印象が強すぎて彼が誰かと協力して料理に励む姿は想像がつかない。
思い返してみれば、ここの大倶利伽羅は戦場でも随分と面倒見が良かった。普段からああだとすれば、確かに他の刀と協力して料理を作ることも吝かではないのかもしれない。
それから大倶利伽羅が厨を管轄していることにも驚いたが、料理に興味のない燭台切光忠には負ける。大倶利伽羅と同じく伊達に長くいた彼は政宗公の料理好きな部分を引き継いで顕現する場合が多い。同じく歌仙も細川の影響を受けて料理は得意なはずだ。それがまさか2振とも厨番に向かないとは。逆にどういう性格なのか気になるくらいだ。
そんなことを考えていると、厨のほうからひょっこりと桃色がかった金髪が現れた。その上からは今噂していた彼がこちらを覗き込むように見ていた。

「おや、燭台切。避難してきたんですか?」
「うん、乱くんと一緒に。僕らじゃ役に立たないだろうから畑にでも行こうかなって」
「賢明ですね」

厨から姿を現したのは内番着姿の燭台切光忠と乱藤四郎だった。避難、というから恐らく彼らもそこまで練度が高くないのだろう。話をする燭台切の傍に立っている乱は彼のジャージの裾を握り締めてこちらをじっと見ている。雨上がりの公園の水たまりを彷彿とさせる青い丸い瞳には警戒の色がありありと見て取れ、人見知りのような状態のように見える。乱はもともと明るく快活な性格のはずだが、彼もまた何かわけありのようだ。
傍にいた前田が乱に声を掛けたそうにそわそわしだしたので、そっと肩をこちらに寄せておく。あまり声を掛けない方がいい場合もあるだろう。

「うん?そちらの人は?」
「客人ですよ。元の本丸を追い出されたそうで」
「へえ、そうなんだ」

燭台切は穏やかそうな目元を細めてちらとこちらを見たが、すぐに逸らした。嫌悪や恐怖は見て取れず、どちらかと言えば関心が無いといった様子である。それにしても宗三は流石というべきか、毒と棘がある物言いだ。追い出されたって確かにそうなのだけれど、もう少し言い方があるだろう。出て行ったわけでもないし、確かに追い出されたのだけれど――的確ではあるけれど釈然としない。それだとまるでこちらにも非があるみたいな言い方だ。無いと断言できるわけではないけど、そこまではないはず。
ただ一切を燭台切は気にしないようで興味なさそうに頷くだけだった。宗三もあまり詳しいことは聞いてこない。

「――なんで追い出されちゃったの?悪いことしちゃったから?」
「そういえば、主もそれを聞いていませんでしたね。あのひと、細かいことは気にしないお方ですし」

ただひとり、純粋でまっすぐな刃を向けてきたのは、今まで何も言わずに燭台切の陰に隠れていた乱藤四郎だった。彼はじっとこちらを見て問いかける。それに便乗する形で宗三がどうでもよさそうに続いた。問いかけの内容を理解した瞬間に、清光が殺気立つ。彼は主である私の辛い事情に土足で足を踏み入れたと思ったのだろう。私も今驚いているが、今の今まで失念していたのだ。私が追い出されたということを。現在の辛さはその程度で済んでいるということなのかもしれないし、他があまりにも印象深かったからだったのかは定かではないけれど。そういえば汀さんになぜ追い出されたのかは話していない。聞かれもしなかったこと、それに気づかなかったことに今更驚く。
本当は泣きわめきたいくらいに辛かったはずなのに、色々なことがありすぎてすっかり忘れてしまっていた。人間という生き物はどうにも適当だ。ともかく宗三に事のあらましを伝えようと口を開く。

「いえ、見習いに本丸を乗っ取られまして。刀剣からもいらないから出て行けと――」
「なんで乗っ取られたの?」

話を割ってきたのはまたも乱だった。彼は変わらず私をじっと見ている。小さな手のひらは燭台切のジャージを掴んだままだが、相当力を入れているらしく真っ白だ。青い瞳は空色とは決して言えないくらいに、濁っている。水たまりのような、と思ったのはそのせいだ。すぐにわかる、きっとこの乱藤四郎はおそらくどこかのブラック本丸から来た刀剣だ。

「乱くん、」
「ねえなんで?見習いさんを僕らが選んだのはいけないことなの?僕らは主を選ぶことができないの?」
「乱藤四郎、黙りなさい。僕らはモノですよ。主を選ぶ権利はありません。今までだってそうだったはずですし、今それをすれば謀反刀です」
「うん、そう。だから僕はあんな―――」

燭台切が彼を止めようと頭を撫でるが、乱は止まらない。宗三がぴしゃりと言い切って乱をじっと見る。乱は宗三の視線に応じて、彼を見た。否、見ているのかは定かでない。先ほどから乱の瞳の色は薄く濁り、私を見ていなかった。ただ私のことを保護された審神者ではなくて、自分たちを使役する主としか認知していないような。私たちから逃げ出せないことを怖がっているような、そんな様子だった。
乱の言う通り、刀剣たちは主を選ぶことができない。その上、顕現時に名乗りを上げてしまえば主の命令から逃げることもできない。宗三の言う通り彼らは神様とはいえ大本はモノで昔から人から人の手へ渡るのが当然だった。だが今の彼らには声も手も足もあり、すぐにでも何かを選ぶことができそうな姿をしているのに契約に縛られている部分に関しては一切の選択権がない。
あんな、のあとに続く言葉がどのようなものであるのか想像するのは容易であるが、容易に触れてはならない部分であることをわかっているつもりだ。だから私は口を閉ざしてじっとその言葉の先を待とうと思っていた。

「乱くん。お野菜取ってこようか」
「―――うん、そうする」
「乱くんの好きなお野菜を選んでいいよ。僕が乱くんの好きな料理にしてってお願いするから」
「本当?僕が選んでいいの?」
「いいよ。さて、乱くんのお気に召すのはあるかな」

ただその言葉の先は燭台切によって止められてしまった。強引に話を止められた乱は怒るでも不機嫌になるでもなく、ただ何もなかったかのように微笑んだ。あまりの変わりように困惑する。
燭台切は自分のジャージの裾を掴む小さな手を丁寧に包んで解かせて、自分の手とつながせた。この乱は自分で選ぶということに強い拘りを持っているのか好きに選んでいいと言われた瞬間にぱっと目が輝いた。嬉しそうに笑ってつないだ手を引っ張る。2人はそのまま勝手口から外へと出ていく。本当に何事もなかったかのように。

「まああなたの話は夜にでも聞きましょうかね」
「あの、乱は」
「あの子は前の本丸で刀ではなくお人形として扱われていたものですから自分で何でもやりたがりますし聞きたがるのですよ。今は手も足も口もきちんと動きますから何でも気になるお年頃なんです」

2人の背中を見届けてから宗三はふむ、と頷いた。乱のことを聞けばさらっととんでもないことを言われた。刀剣男士を人形扱いとはどういう状態だ。言霊を使って縛ってでもいたのか。刀ではなく人の容をとっている彼らに対して人形であれとそういったのか。そうだとしたら胸糞悪い。刀の付喪神というアイデンティティを失い続ければ、彼らは刀剣男士ではなくなる。認識は名前の次に大事なものだというのに、それをゆがめ続けた審神者がいる。その事実だけで気分が悪い。でも一番気分が悪いのは、あの乱に違いなかった。遠くから、きゃらきゃらと高いはしゃいだ声が聞こえるのが、唯一の幸いだった。
ぼんやりとそんなことを考えていたが、隣の前田があっと声を上げて竈のほうへと駆け寄っていく音を聞いてはっとした。前田はどうやら竈にかかっている鍋が吹き零れそうになったのが気になったようで、思わず駆けだしてしまったらしい。傍にあった出汁と見られるものを継ぎ足して、事なきを得たようだ。宗三はちらりと竈のほうを見て柳眉をしかめている。

「で、お前たちは何をしているんですか」
「――いえ、なんとなく隠れようかと」
「えへへ、かくれんぼしてました」
「阿呆なことをしていないでください。客人に何をさせているんですか」

調理をするための大きな机の下から、ひょっこりと桃色が飛び出してきた。柔らかそうな髪を覆うように同じ色のバンダナをした秋田藤四郎だ。バンダナは可愛らしいハートマークが散りばめられていて、明らかに女性ものである。また彼とお揃いのバンダナをした鯰尾藤四郎も出てきた。
悪戯っぽい笑みを浮かべた彼らはごめんなさーい、と明るく謝って鯰尾は鍋の前へ、秋田はまな板の前へと移動する。どうやら彼らが今日の厨番だったようだ。

「数珠丸はどうしたんです」
「大倶利伽羅さんが出て行ってしまったので、青江さんを呼びに行くって言ってました」
「いやあ、俺たちじゃこれが何になるのかわからないですからね!」
「微妙なところですねえ――カレーか、肉じゃがでしょうけど」

じゃあまんぽてやぽてとさらだかもしれませんよ!とジャガイモを握り締めた秋田が言うが、恐らく違うだろう。ジャーマンポテトにしては具材の種類が多すぎるし、ポテトサラダにしては量が多すぎる。秋田の足元には人参や玉ねぎのほかに、ピーマンやトマト、レタス、オクラ、ミョウガなどが並んでいる。むろん、別添えのサラダ用の可能性も高いが――そうだとすれば猶更ポテトサラダはない。ジャーマンポテトの添え物にするにはミョウガが邪魔である。この本丸は温かく、恐らくは梅雨明けくらいだ。季節感を考えれば肉じゃがの可能性も低い。あと白滝が見えないのも気になる、肉じゃがには必要だろう。多分カレーだろうなと思う、ルーが見当たらないけれど。
何でしょうねえ、とのんびり言う鯰尾に秋田が歌うように何でしょうねえ、と重ねた。その上で俺ならじゃあまんがいいですねえ、僕はぽてとさらだがいいですねえ、とふわふわ笑いあう。一気に和やかな雰囲気になっていく。

「うーん、残念。これはカレーだよ」
「僕、かれえも好きです!」
「俺もー」
「それはよかった。さて僕も出そうかな――エプロンとバンダナだよ」

ひょこ、と顔をのぞかせたのは内番服の青江だ。長い髪はきちんと結い上げであり、清潔感がある。手には何やら様々な細かなジップロックが入った大きな袋を持っている。良く見てみるとローレルやハッカク、その他詳しくはわからないが恐らくスパイスだ。なるほどカレーらしい。にっかり笑みでそれらをテーブルに置いてから台所に入ってすぐの引き出しを開け、黒いエプロンとハート柄のバンダナをし始めた。バンダナはハート柄一択らしい、なぜか。秋田と鯰尾はテーブルに置かれたスパイスたちの袋を開けては匂いを嗅いで百面相をしている。前田がそわそわと彼らのほうを見ている。うちの前田は好奇心旺盛だ。
そんな3振をほほえましげに見ながらバンダナをしっかりと頭に被せながら青江はそういえば、と口を開く。

「宗三、あちらは粗方落ち着いたよ。大倶利伽羅は髭切についていて――夕餉は無理だね」
「そうですか。伝えておきましょう」
「あ、じゃあ僕が夕餉を持っていきます!」
「頼みます、秋田」

あちら、というのは対の屋敷のことだろう。青江は対の屋敷のほうで事態の収束に尽力していたらしい。大倶利伽羅が走り抜けていったあの鴬張りの廊下の先。パニックになっていたらしい髭切はどうなったのだろうか。ただここに居る全員があまり深刻そうに振る舞っていないので、怪我人などは出ていないように見える。実際のところはわからないが。
青江は大倶利伽羅が途中まで下拵えしていたらしいテーブルの上のブロック肉を切り分け始める。その隣で秋田がジャガイモを簡単に半分に切って、鯰尾は苦々しい目で玉ねぎを睨んでいた。各々が持ち場についたことを確認したらしい宗三は一つ頷いて後は頼みますよ、と一声かけた。青江がにっかりと笑ってそれに応えるように手を振った。

「では行きましょうか」
「外、平気な訳?」
「先ほどの青江の話聞いていました?というか、僕がついていて危険なんてありませんよ」
「すっごい自信」

宗三は踵を返して厨の外に出た。外は随分と静かになっているから、確かに騒ぎはおわ待ったのだと思う。胡乱げな瞳を清光に向けた宗三は鼻で笑うように危険はないという。確かに彼は極の修行を終えているようだし、屋内であれば下手な太刀よりも強いだろう。宗三らしい高圧的な物言いに清光はなお食って掛かる。どうやら自分は強いと明言されたことがどうにも気に障ったらしい。うちの清光は血の気が多いから。
ただ宗三は気にした様子もなく血気盛んな若い猫をあやす老猫のような気だるさを以てして、清光に言い放った。

「10年以上も刀剣男士やってれば慣れます」

何でもないようにそういって、宗三はすたすたと先を歩いていく。ひらりと翻る袈裟の裾を追うこともできず、清光は立ち止まった。私と前田もそうだ。10年。なんて長い月日だろう。清光と前田は顕現して今年で3年――つまりは私が審神者を始めて3年。ここの主、汀さんは10年以上審神者をしていることになる。10年もの間、傷つき堕ちかけた刀剣と共に過ごし続けている。

「――10年、ですか」
「そうですよ、前田藤四郎。正しく言えば14年目になります」

最初に冷静になったのは前田だった。彼は先を歩く宗三に追いついて問いかける。それに答えた宗三の答えにさらに驚愕する。ちょっと待て、4年はどこから出てきた。ざっくりしすぎだろう。この本丸は稼働して今年で14周年ですね、と宗三は付け加えているがそうじゃない。100年単位で存在している刀剣たちにとって4年なんてそんなものなのかもしれないが、私が審神者になって、乗っ取りされるまでが3年と考えると何だか悲しくすらなってくる。
汀さんの華奢な姿が思い出される。ベテランなのだろうとは思っていたが、まさか10年を優に越しているなど誰が考え付くだろう。

「14年って、え、あの汀さんっておいくつです?」
「今年で23ですね。主は9つの時に拐かされてご就任なさいましたから」
「ブラック政府じゃないですか!」

華奢な見た目通りの年齢で驚愕する。あと衝撃の事実に頭を抱えたくなった。噂に聞く程度だった、違法な手段を以てして審神者を増やしていた悪しき時代。その犠牲者の1人。9歳なんてまだ小学生で、親の元で過ごして毎日元気に学校に行くことだけが仕事みたいなものだろう。私なんて料理なんて家庭科で習う程度で家でなんてやらなかったし、精々電子レンジが使えるレベルの子供だった。どの時代から連れてこられたのかにもよるが、1990年代から連れてこられたなら同じくらいのレベルの9歳児のはずだ。
その9歳児に戦争をさせるなんてとんでもない。ただ、汀さんはそれを経験してきた。想像を絶する。驚く私の前で宗三は苛立ちをそのままに、唸るように言う。

「今でも政府のことは恨みますよ。主はここに本当に幽閉されていて、――−運が悪ければ死んでいましたからね。我々としても、政府のことは許せるものではありません」

主の死は刀剣男士にとって最も恐れる事態である。1人の主に仕えることを本能とする彼らにとって、主が死ぬということは我が身を割くより辛いことであると聞いたことがある。怒気を露わにした宗三の様子から、彼の言ったことがなんの比喩でもないことは分かる。汀さんはなんらかのきっかけで本丸で死にかけた。その原因が政府にあるーーー突き詰めればそもそも政府は主を攫ってここに押し込めた悪しき実績すらある。それらも蓄積されてのことだったのだろうと思う。

「先に言っておきますが、この話は貴女方に話すつもりはありません。誰にも聞くべきではありません。特に――兄様と山姥切国広には絶対に聞いてはいけません。下手をしたらその場で切りかかられますよ。皆、それくらいに怒っていることなので」

もう5年前の話ですけれどね、と宗三は締めくくった。その締めくくりを聞いて、ようやく全員が肩の力を抜くことができた。本当に怒っているのだ、5年前のことではあれど未だに冷めやらぬ怒りを抱いている。それくらいに酷いことを政府は汀さんにした。してしまった。神々の怒りは早々に収まるものではない。収める方法もないような事だったのだろう。

「汀さんは政府のこと恨んでないんですか」
「全く。主はあの時の感情や出来事をほぼ忘れてしまっています――痛めつけられた同胞が、その本丸でのことを忘れてしまったように」

あまりに辛すぎる感情を抱くと本能的にその時のことを忘れて、心を守ろうとするらしい。汀さんも、人と同じ心を持った刀剣男士もまた同じように、辛かった出来事を忘れてしまった。先ほどの山姥切国広の話で忘れることが幸せなことなのか、私にはわからなかった。汀さんが忘れたことも覚えていない方が幸せなんだろうか。忘れた内容にもよるだろうけれど、でも忘れてしまうことはどうにも悲しすぎる。
私たちが歴史修正を止めようとしているのだって、人々が忘れたことすらも忘れてしまう恐ろしさを知っているからだ。汀さんは本能的にその修正を掛けた、自分自身に。そういう事態に陥ること自体が不幸なことで、それらをすべて忘れていることが幸せであるのかと言えばわからない。少なくとも私はそうは思えない。いつまでも覚えていて苦しむよりは幸せなのかもしれないけれど、でも自分の感じたものをすべて削ぎ落とされてしまっていると考えると、それは何だか悔しいし腹立たしい。

「だから僕らは覚えているし怒っているのですよ。主がされたこと、怒っていたこと、政府の罪。主は忘れてしまった怒りを、僕らは決して忘れません」

でも主の忘れた怒りを刀剣たちは覚えている。そうだ、歴史修正の恐ろしいところは忘れたことをほぼすべての人間が忘れていることにある。誰かが覚えていてくれれば、それは夢現ではなくて現実にあったものとして認識してくれていれば、その感情は、歴史は消えることはない。何かの裏に隠れているだけで消失していない。二度とそのようなことが起こらないように、戒めとして存在し続けることができる。
それは一種の救いだと、私は思った。

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