紬は困惑しながらも差し出された緑茶のペットボトルを受け取った。
昨日もらったお茶の銘柄だ、きっと好きなんだろう。
女性は冷蔵庫の扉を閉めると、ソファーのひじ掛けに腰掛けた。
「ごめんねえ、コップとかないんだ」
「はあ…」
「まあ、座って座って」
座って、といわれたものの相手が立っているのに座るのは気が引ける。
結局紬はダイニングテーブルの傍、彼女の目の前に立った。
真尋はそれを気に留めることもなく、飲んでいた炭酸水のキャップを閉めて一息ついた。
「まずは、自己紹介からしようか。私は真尋っていうんだけど」
「…俺は月岡紬と言います。昨日はありがとうございました」
「いえいえ。で、結論から言うね。うちに住まない?」
「はい?」
何の結論なのかさっぱりわからないまま、紬はその言葉だけを受け止めた。
紬の記憶が正しければ、真尋とは昨日の夜に偶然、初めて出会った。
お互いに名前も知らないままだったから、たった今、自己紹介をした。
それでどうして、一緒に暮らそうなんて結論に至るのか、紬にはさっぱりわからなかった。
真尋はニコニコと笑っているばかりで、全く考えが読めない。
困惑気味な紬に対して、真尋は話を続けた。
「洗い場見たでしょ?私、家事がからっきしなの」
「ああ…」
「だから、家事をやってくれる人を探しているんだけど。どう?」
「いや…どうと言われても…」
確かに洗い場はかなり溜まっていたし、冷蔵庫の中はコンビニ食ばかりだった。
忙しい人なのかと思ったが、それ以前に家事が苦手な人だったらしい。
どう、と小首を傾げながら聞かれても困る。
彼女も成人した大人の女性だし、こちらも成人した男である。
いきなり一緒に住むというのは違和感しかない。
一般的な考え方ではあり得ないだろう。
ただ真尋は、そんな常識などきにしていないらしい。
単純に家事ができないから誰かにやってもらおう、というだけの理由で一緒に住もうと言い出しているのだ。
忙しい人に見えるが、なんだか怪しいくらいに一般常識に欠ける。
「家賃、食費、光熱費諸々こっち持ちで毎月3万受け渡し。…この際通いでもいいや」
「いや、それなら普通に家政婦雇ってもいいんじゃ…」
「いちいち連絡したり、頼み事したり、話たりするの面倒臭い」
家に居てもらえれば、必要なところは綺麗にしてくれるでしょ?と呑気に言っているが、そういう問題だろうか。
紬は徐々にこの真尋と言う女性のことが分かってきたような気がした。
かなりの面倒くさがり屋で刹那主義っぽいところがある。
お互いに有益であれば常識などどうでもいいというタイプで世間体を気にしないと言うと、それがしっくりくるかもしれない。
それにしても、条件が良すぎる。
確かに紬は今年で大学を卒業する。
滑り止めの職は決まっているものの、まだ家が決まっていない。
「流石に突然暮らせと言うのは…ちょっと」
「そりゃそうだ」
「…でも友達からならどうでしょう?」
流石にいきなり女性の家に転がり込むのは無理だ。
でも、なんだかこの人を放っておけないような気もした。
それにここでじゃあサヨナラというのは勿体ないくらいに、面白そうな人だと思った。
彼女のお願いを蹴っておいて、そんなことを言うのは失礼かもしれない。
ただ、紬は純粋な欲張りだ。
奇妙な縁ではあるが、それもまた面白い。
面白そうと思っている紬と対照的に、真尋は気だるげだった。
理由は1つだ。
「いや、友達はいらないんだけど。家政婦が欲しい」
「え!?」
「身の回りを整えてくれて、尚且つ顔がまあまあ良ければ誰でもいい」
「…えーっと」
予てから真尋は友達という言葉が嫌いだった。
仲が良い人のことを友達と言う単語で括って、縛る。
何かのきっかけで喧嘩をすれば友達なんだから仲直りしなさいとか、友達を作りなさいとか、どうでもいい囲いの中に入れられる。
小学生の真尋は、その囲いが大嫌いだった。
適材適所、好きな時に好きなように過ごすこと。
そのように生きたくて、真尋は社会の外に出て、家に閉じこもった。
だからこそ、紬の提案が気に食わなかった。
「…わかりました。そうしたら、僕、週に少なくとも1度はここに遊びにきます。お詫びがてら」
「遊びに?」
「あ、もちろん、家事もしますよ」
「家事もしてくれて、遊んでもくれるの?」
紬は、真尋の切り替わりに瞬時に気付いた。
何がきっかけだったのかも明白だった。
家に上がられることを嫌がっているわけではない。
酔っ払いの紬に嘔吐されても気にせず家に上げるくらいだ。
…それくらいに、真尋は人を連れ帰りたがっていたのだ。
家政婦が欲しいと言う割に、会話や依頼が面倒だと言う。
彼女が本当に欲しがっていたのは、家事をやってくれるだけの人ではない。
「人の家に遊びに行ったら、少しは家のことも手伝うものですし」
「そうなの?まあいいや、じゃあそれで!」
真尋が心の奥底で欲しがっているのは、自分ではない気の置けない誰かだ。
友達はいらないと言い切った真尋だが1人が好きというわけでもなさそうだ。
面倒だと言いながらも、誰かと繋がりたいと思う気持ちもある。
とても人間らしい、その上素直な人だ。
紬の真尋への印象はそんなものだった。
無邪気に笑う真尋と、テレビに積もった埃を見てちょっと大変そうだなとも思ったけれど。