身に覚えのある痛みだった。
不思議なものだが、初めての痛みではないとナナは感じていた。
遠くで声が聞こえる。
女性の声だった。
それが今自分を支えてくれている女性の声なのか、それとも過去に痛みを感じたときのものなのか。
それはいまいちよく分からない。
「やめなさい!相手は子どもよ!?」
「うるさいぞ、アイリーン!子どもでもスパイかもしれん!」
「そんなわけないでしょ!?ここが誰かに知られているわけないじゃない!」
女性、アイリーンはあせっていた。
腕の中にいる少女は痛いのかローブを握り締め、泣き叫んでいる。
痛みで何度も意識を回復させられてしまっているのだろう、ローブを握り締めた掌は真っ赤に充血していた。
今のところはまだ泣く体力があるが、この子が泣かなくなったらそれは死を意味する。
やめさせなければ、この子の命はない。
アイリーンは必死だった。
必死で気づいていなかったのだ、この屋敷が変に音を立てていること。
壁が軋み、皹が入り始めていることに誰も気づかなかった。
その異変にいち早く気がついたのは用事を終わらせて帰ってきたヴォルデモートとオリオンたちだった。
「…何事なのでしょう」
「ナナはどこに行った?」
「ナナの自室にもいないようですが…」
アブラクサスが廊下の壁の皹を杖でなぞる。
直そうとしたが、一瞬ふさがるだけでその後すぐにまた皹が入る。
オリオンはこの異常がナナによるものだとすぐ気がつき、ナナの自室に向かったのだが自室はもぬけの殻。
ヴォルデモートの部屋に帰ってきたので、そこにナナがいないことも分かっている。
だとすると、ナナがヴォルデモートの言いつけを破り、部屋から勝手に出たことになる。
「…下が騒がしいな」
ヴォルデモートはナナに何かあったと気づいていた。
階下がやけに騒がしい、今日ここに集まっているのは死喰い人だけのはず。
敵だとすればもっと騒がしくなるはず。
階下から聞こえてくる声は男性と女性1人ずつだけだ。
ヴォルデモートはローブを翻し、エントランスのほうへと向かった。
「…何事だ」
「我が君!」
「!…我が君、」
エントランスには数名の死喰い人がいた。
その中で言い争いがあったようだ。
男のほうは杖をもち、女のほうに向けていた。
死喰い人同士の決闘でもあったのかとも考えたが、どちらも怪我をしている風ではない。
それよりも、女の抱えているものが気になった。
くもぐった泣き声が聞こえる。
「アイリーン、」
「…我が君、どうぞお助けください。ただの子どもなのです」
女の顔は知っていた。
アイリーン・プリンス、優秀な純血の魔女だが甘い一面がある。
子ども好きで、情がありすぎるというところが欠点だと思っていたのだが今回はそれに助けられたようだ。
医療に携わる仕事をしている彼女がいなければ、腕の中のナナはとうに死んでいただろう。
…もう死んでいるのだが。
「うわああああん!」
「それだけ元気に泣ければ問題はそうなさそうだな、ナナ」
「っく、うぅ…痛いよぉ…」
ランはヴォルデモートの姿を見つけると、泣きながら手を伸ばす。
相当に怖く痛い思いをしたのだろう、声を上げて酷く泣いていた。
アイリーンからナナを受け取り、自分の魔力を少し多めに与えておく。
もともとナナはゴーストなのだから死ぬことはないが、強いショックを受ければナナの中の魔力が暴走しかねない。
それを抑えるための魔力をリングに流し込み、落ち着かせる。
精神的な部分はまだ落ち着いていないのか、エントランスのシャンデリアが不安定に揺れていた。
「クルーシオか」
「はい…その子、我が君のお子様なのですか?」
「違うが、重要な役割をもった子どもだ」
「わ、私そうとは知らず、スパイかと…」
「黙れ、言い訳は聞かぬ」
未だローブの中で泣き続けているナナをなだめつつ、そう言い放つ。
せっかく手に入れたナナと言う存在を壊されそうになったということもあり、ヴォルデモートは怒っていた。
不穏な空気にぐずっていたナナは涙を拭いながらヴォルデモートを見上げた。
「…どうするの?」
「お前には関係ない。あれほど部屋にいろといっただろう」
「ごめんなさい…、」
赤く腫らした目を向けるナナを咎めるようにヴォルデモートは冷たく言い放つ。
ナナは何もいえずにしゅんとヴォルデモートのローブの中に潜り込んでしまった。
疲れていたので眠ってしまいたかったが、その場の雰囲気がナナの眠気を飛ばしていた。
それに気がついたのか、ヴォルデモートはその場にいた全員にこの場に留まっているに、オリオンたちもそこにいるように命令し、ナナを2階の自室に連れて行った。
「ヴォルデモート…、私がいけなかったの。あの人、何も悪くない」
「そうかもな。だが、お前を傷つけたことに変わりはない」
「…私、あの人が消えてたらやだよ。私がこの屋敷と繋がってる限り分かっちゃうんだからね」
ヴォルデモートはナナをベッドに座らせた。
ナナはもう泣いてはいない、しかしその代わりに真剣な目をしている。
力を得て実体化したナナは、屋敷に入る人間の魔力をすべて記憶している。
まだ人が少ない今、ナナは魔力とその人の姿形を覚えてしまっているのだ。
だから、もしナナを襲った男の姿がその後見えなくなってしまえばナナは気にするし、また不安定になるだろう。
それを考えると安易にナナを襲った男を殺すのは良くない。
それはヴォルデモートにも分かっていたが、自分の大切にしていたものを傷つけられたということもある。
イコール、ヴォルデモートのプライドを傷つけられたということだ。
黙っているわけには行かない。
「ヴォルデモート」
「…さっさと寝ろ」
まだ何か言いたそうにしていたナナをヴォルデモートは無視して部屋を出た。
エントランスでは言いつけどおり、先ほどのメンバーがその場にいた。
ヴォルデモートを見ると、ほとんどのメンバーが怯えたように身体を震わせた。
しかし、アイリーンだけはヴォルデモートの姿が見えると声をかけてきた。
「あの…先ほどの子、大丈夫でしたか。我が君がいらっしゃるまで酷く泣いていたようだったので心配だったのですが」
「問題ない。今はもう落ち着いている」
アイリーンは本気でナナのことを心配しているらしい。
10歳程度の子どもがクルーシオの呪文を受けたのだ、ただじゃすまないことがアイリーンには分かっていた。
しかし生憎ナナは“普通”の子どもではないので、回復が非常に早い。
「オリオン、アブラクサス、ナナを見ておけ」
「はい」
とはいえ、子どもは子ども。
それなりに冷たくあしらってしまったので傷ついてはいるだろう。
時々窓のほうから聞こえるぴしり、と言う音が気になる。
オリオンたちが2階に行くのを確認してから、ヴォルデモートは残りのものに向き直る。
顔を蒼白にした男たちはあわてて弁解を始めた。
「我が君、お許しください。ここに我が君と死喰い人以外が住んでいるとは思わなかったのです」
「…今回は不問にする。次は誰がなにを言おうと、命はない」
それだけ言って踵を返した。
後ろで困惑するような素っ頓狂な声が上がるのをヴォルデモートは聞いていたがすべて無視した。
ただでさえ不安定になっているナナにこれ以上負担を書けるわけには行かない。
死喰い人はいくらでも替えがきくが、ナナはたった1人の屋敷の守人である。
ナナの我がままを聞いたほうが、安心だ。
自室の扉を開くと、ナナが突っ込んできた。
「…なんだ」
「ありがとね!」
ナナには筒抜けだったらしい。