双識は走っていた。
戦争の時もそうだったが、自分は曲識以上に逃げることが多い気がする。
しかし、この鬼ごっこ、可愛いなんてもんじゃない。
捕まったら死が待っている。
先ほど応戦したときの傷が痛んでも走るしかない。
鬼が追われる鬼ごっこ…鬼は、オーバーキルレッドと呼ばれる最強の請負人。
「双識!」
「ああ、愛織!無事だったみたいだね!」
「…!?え、あれって…潤ちゃん…?」
曲がり角で、名無しさんと会う。
ぶつからないようにうまくよけて、また逃げる。
これが愛の逃避行ならどんなに良かったものか!と思う余裕はあっても、口に出す余裕は双識にはないようだ。
名無しさんはふと後ろを振り返って、驚いたように赤を見つめた。
「え、潤ちゃんって…」
「ほかの人が邪魔だね…、気づいてるのかな…、零崎として会うのは初めてだけど…」
「知りあい?」
「うん。私の姉弟子の友達だったから…」
走りながらも、双識に話しかける。
小柄な名無しさんが、潤を見つけられたのは潤が大きいからである。
逆に潤はおそらく大きい双識に目を取られて、名無しさんには気づいていないに違いなかった。
「…、止まろう、双識。潤ちゃんの相手は私がする」
「え!?それは駄目だ!」
先ほど少しオーバーキルレッドと応戦した双識は慌てて名無しさんを止めた。
冗談ではなく、殺される、と思ったのだ。
いくら名無しさんが曲弦師になって強くなっているとはいえ、一抹の不安はぬぐいされるものではない。
「でも、これ流石に逃げきれないじゃない」
「そうだけどね…」
「任せてよ、大丈夫。あの人身内には優しいんだから」
名無しさんは虚勢を張っているわけではない。
それ双識にもよく分かっていた。
「…わかったよ。怪我をしないようにね」
「善処する」
2人はぴたりと走る足を止める。
双識が周りの人を引きつけているうちに名無しさんは潤に近づく。
小柄な名無しさんだからこそ、人の間を縫って走るのは得意だった。
指先に絡めた糸を構えて、走る。
「潤ちゃん!」
「んお!?名無しさん!!何でこんなとこにいんだよ」
「…一応私も零崎だからね」
「あ、そういやそーじゃん」
相変わらず赤い服に身を固めた潤がそこにいた。
友達としてだととても頼りになるが、敵に回すと恐ろしい。
名無しさんはいつ潤に敵と判断されるか、冷静に見極めていた。
「双識を傷つけたのは、潤ちゃんだよね」
「まぁな。あいつなかなかに強いけど、変な奴だな」
「うん、そういう人なの。凄く変態だけどね…私の家族なんだよ」
微笑んで潤と話していた名無しさんから笑みが消える。
名無しさんにとって家族を傷つけられることは、たとえ傷つけたのがだれであろうと、万死に値する行為なのだ。
す、と凍るような瞳を潤に向ける。
間違いなく、それは名無しさんではなく、愛織だった。
「ふぅん…それが零崎の名無しさん、か」
「ううん、零崎の名前は一応別にあるんだ」
「へぇ、なんてぇの?」
「愛織」
愛を織りなすで愛織。
いい名前だな、と潤は納得していた。
家族に愛されて、名無しさんはようやく人間になれた。
その恩は、愛は、名無しさんの中ではとても大きな存在で、感情で。
だから、その愛を傷つけられたら、名無しさんは許さない。
大切な愛を守ること、それが愛織の想いだった。
「哀川さんは私の大切なものを傷つけた」
「ほう…?」
「だから、零崎を始めさせていただきます」
わざわざ名無しさんは潤のことを哀川、と呼んだ。
その名を呼ぶものは敵であると知りながら。
だが、愛織である名無しさんにとって、潤は間違いなく敵である。
愛織と潤は友達ではない。
あくまで友達なのは、名無しさんと潤なのだから。
「そうかよ!ははは!!愛織と闘うのは楽しそうだな!!」
「…そうだね、私も久しぶりなの。愛を確認するのは」
名無しさんは糸を張り巡らせる。
しゅん、しゅん、と空気を切る音はするものの、薄暗いせいで糸の所在は掴めなかった。
名無しさんの細い指がそれらを操っているので、潤は名無しさんの指に注目していた。
黒い手袋をした指。
「遊馬から聞いたが、曲弦師っつーのは指で糸を動かしてんだろ?そしたら、要するに指の動きよりも早く動けばいいんだろ」
「そうですね」
名無しさんはあっさりと肯定した。
指の動きと糸の動きは連動している。
なので、指が動いて、数秒間があいて、そして糸が動く。
指の動きから攻撃を想定し、よけることができれば曲弦師は怖くないということだ。
名無しさんは指を動かす。
潤はそれをよけた。
「ま、そうなりますよね」
「意味ないんじゃね?」
「ありますよ。ほら」
ほら、と言った瞬間、潤の腕に切り傷ができていた。
流石の潤も驚いたようにそれをみる。
名無しさんと話しつつも、名無しさんの指の動きからは目を離していなかったのだが。
一体どうやっているのか、潤にも分らない。
「奥の手というものは、隠しておくべきですからね。…とはいえ、遊馬さんがこれをあなたに教えなかったのは、これが基本的に不可能だと言われていたからなんですけど」
だから遊馬さんを責めないであげてくださいね、と遊馬を思ってかそういう。
ただその表情からは何の感情も読み取れなかった。
名無しさんの様子をくまなく観察しているがなかなかわからない。
走りまわって糸をよけるが、糸の動きに規則性はなく、予測できない。
「くっそ!なんだよこれ!」
潤の身体に傷が徐々に増えていく。
名無しさんは深い傷を負わせるに至らないが、だが優勢だった。
全く名無しさんの糸を読めないし、その上、誘導されているのか名無しさんには指一本触れさせてくれない。
糸のベールに守られているようなものだ。
「ここね」
「っ!あー、くそ!!」
名無しさんはようやく潤に深手を負わせることに成功した。
その場所は、双識が怪我を負ったその場所。
潤が腹立たしげに叫んだその時に、糸はすべて名無しさんの手中に収まっていた。
「うん、これでいいね」
「は?」
「私は相当穏便な零崎だから…、もともと禁欲者だし。殺さないよ」
「なんだそりゃ」
「曲識よりも私は殺しを禁じてる。人間は死んでしまえば愛することはできない。人間は愛し、愛されるために存在しているんだから。だから、私は殺しは極力控えてるの。」
愛を欲し、愛を愛する名無しさんだからこそ。
愛を作り上げている人間を殺すことは愛を殺すも同然。
そのように考えているから、名無しさんは最低限しか殺しをしない零崎だった。
例外として、家族を殺された、もしくは傷ついたときのみ名無しさんは人間を傷つける。
殺されたら、殺し返す。
怪我を負わされたら、怪我を負わし返す。
鏡のようにできる限り同じくらいにやり返す。
「双識は、腹のあたりにそれくらいの傷を負わされたよね?だから仕返し」
「フェアプレイだな、おい」
「人を愛せるのは人だけなのよ?そうやすやすと殺せないわ。だけど、そんな大多数の人間よりも家族はとっても大切だから。私を初めて愛してくれた人たちだから。私を人にしてくれた人たちだから。だから、大切なの」
「はー…、まあ名無しさんのそういうところ嫌いじゃねぇけどさ」
潤は呆れたようにそう言った。
名無しさんはもう愛織から名無しさんへと戻っているようだった。
それを潤も感じ取り、普段の会話に戻る。
もう名無しさんの顔には笑顔も浮かぶし、苦笑もする。
本当に別人のようだった。
もう戦闘をする気はないらしい。
戦闘が長引けば、名無しさんも潤も死ぬ確率がある。
名無しさんがここで戦いを切ったのはそれを早くも察知したから、というのもあった。
そして、同じことを潤も思っていた。