Chance meeting
名無しさんがくたくたになって帰ってくると、見かねた遊馬がお茶を入れる。
熱いと飲めないだろうと思ったのか、氷を2,3個落とし入れた。
そして、名無しさんのお気に入りのマグカップを差し出す。

「ふぁあ…ありがとうございます、遊馬さん」
「いいのよ、気にしないで」

包帯だらけの手でマグカップを包み込んで持ち上げる。
取っ手の部分に指を入れても指を曲げることができない状態なので、持てないのだ。
別に指を骨折したわけでがないが、切り傷が開くのが怖い。

未だにぴりぴりと痛む指先をいたわりながら、マグカップをそっと傾ける。
曲弦師のもとに弟子として入って1か月がたった。
家賊と離れるのが寂しいが、これも強くなるため、と頑張っているが。
師匠にはぜんぜん勝てないし、遊馬にも勝てない。

何というか、ちょっとしたホームシックになっていた。

「…私って才能ないですかねぇ…」
「や、あるでしょ。私なんてよりもずっと本当の曲弦師に近いもの」
「だって、遊馬さんの方が全然強いじゃないですか」
「それは経験の差でしょ」

経験の差。
それは大きいものだろう。
今まで普通の学生として育ってきた名無しさんは、もちろん戦闘能力なんてない。
しかも身体が弱くて体育も満足にできなかったのだ。

曲弦糸はあまり体を動かして使うものではないので、それだけが救いではあるが。

「すぐにばてちゃいますし…」
「だから、慣れれば大丈夫よ」

遊馬さんも師匠も同じようなことを言うが、どうしても名無しさんは分らない。
名無しさんの周りの家賊は強くて、名無しさんは守られてばかりだった。
だから、早く自分も一人前になりたいという焦燥にかられているのだ。

「ほら、いいからあやとりしたら?」
「…そうします」

飲み終えたマグカップを台所に置いて、名無しさんは近くにあったピアノ線であやとりを始める。
普通なら指を切断してしまってもおかしくない強度の糸だが、そのくらい操れないと曲弦師になんて慣れないということで、毎日の日課だった。

遊馬に手伝ってもらいながら1日のノルマを終えようとした。

「…名無しさんは才能があるよ」
「へ…?なんですか?突然に…」
「名無しさんは零崎なんでしょう」

名無しさんはあやとりの手を止めた。
止めた手の中でピアノ線は橋になっている。

遊馬には零崎を名乗ったことはなかった。
零崎を名乗るか名乗らないか迷ってやめたのだ。
遊馬は間違いなくあの世界の住人ではないから。

「もともと曲弦糸は人殺しのためのものだから」
「…そんなことはないんじゃないですか?」
「うん。それ以外にも応用は聞くよ?だけど、やはり殺しに特化されたものが最初の曲弦糸だって言われている」
「それが究極の曲弦師ってことですか」

そうだよ、とゆっくり言う遊馬は真剣そうだった。
だが、それもあっという間に崩れる。

かちゃり、と玄関のドアが開く音。
それには遊馬にも名無しさんにも緊張が走る。
どういうことか、そのドアは紛れもなく遊馬が締めているのを名無しさんは見た。
合いカギは…とも思ったが、この部屋はオートロック、あくはずがない。

リビングのドアを蹴破って入ってきたのは、見覚えのある、赤だった。

「おっはー!遊馬!」
「!?え、ちょっとまって!?どういうことなの?!ねぇ、鍵は?鍵はどうしたの?!」
「ん?遊馬との愛を遮るもんなんて存在しなかったぜ!」
「壊したのね!?」

いつものクールさは完全に飛んでいた。
テンションの高い赤に無理やり上げられている…というよりは上げざるを得ないのか。

名無しさんは茫然として二人を見守るほかできることはなかった。
曲識の探す赤い彼女は名無しさんの目の前にいた。
ちょっと曲識と変わってあげたいと心底願うのだが、いろんな意味で。

「?およ、お前、あんときの名無しさんじゃんか!」
「あれ…覚えていたんですか…驚きです。お名前は、できましたか?」
「おう!哀川潤っつーんだ、今は。潤でいいかんな!」
「そうですか。潤…さん」

なんというか…うん、やっぱり自分よりもずっと上の存在だなぁ、とは名無しさん考えていた。
あまりにも目の前の刺激が強すぎるのだ。
彼女は前に見たよりも大人っぽく、美しく成長していた。
なんというか、もう嫉妬もできないくらいの大きな差になっていると思う。

「ところで、遊馬さんと潤さんはどういう関係なんですか?」
「友達!」
「らいしいです…」

どうも複雑な関係であるようだった。

蹴破られたリビングのドアはどう考えたって業者に頼まないと修繕できないレベルで。
恐らく玄関の鍵も業者に頼まないといけないのだろう。
あの時と変わらない真っ赤な髪に少し大人びたぴったりしたワンピース。

つなぎの兎耳のついたパジャマを着ている私とは全く違いすぎた。

「つーか、さん付けやめろよ!張っ倒すぞ?」
「…じゃあ潤ちゃんでどうですか」
「ちゃんか…可愛すぎないか?」
「やや、良いじゃないですか、たまには年相応というのも」
「そか!じゃあそれでいいや!」

相変わらず、ずぼららしい。
それでも潤をちゃん付けなんて、と名無しさんは思ったがここで逆らえば張っ倒されることもよく分かっていた。
ちゃん付けはせめてもの譲歩。
ああ、それにしても、どうすればいいのか。

なんだか言い争いをしているらしい2人を尻目に、名無しさんは一度キッチンに戻った。
そこでココアのおかわりと、潤の分をつくってもう一度リビングへ。

「潤ちゃん、ココア飲みますよね?」
「お、さんきゅ!」
「遊馬さんも落ち着いてください、冷静になって…」
「…そうだね、叫んでたら疲れちゃった…」

ようやく立って言い争いのような、じゃれあいのようなことをしていた2人がソファーに落ち着く。
湯気の立ったココアに口をつけて、ふう、とため息をついた。

「あいつ元気か?名無しさん」
「元気ですよ、戦争も収束しましたし…みんな各々好きなようにやっているようですけれど」
「そっかー。また会いてぇな」
「彼もそう言ってますから、縁が合えば会えますよ」
「そうだな!」

無邪気に笑う潤の言葉は本物なのだろう。
彼女は零崎は嫌いだが、名無しさんと、曲識の歌は好きらしい。
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