Hellow,how are you?
ここは田舎ではあるが、そのおかげで何をしても近所迷惑とかはあり得ない。
だからこその、この大乱闘だろう。

「てめ!放せ兄貴!!」
「駄目だよ、人識くんは放っておくとどこかに行ってしまうじゃないか」
「こんなクソ田舎になんで来なきゃいけねぇんだよ!放せ!!」

庭の草木にホースで水を遣っていた名無しさんはその口喧嘩を聞いた。
そっと垣根からのぞいてみると、小さな少年と、大きな青年が踏んだり蹴ったりしながら歩いてくる。
見覚えのある青年とない少年に疑問と嬉しさを感じながら、名無しさんは水道の蛇口をひねった。

「いらっしゃい、双識」
「やあ、名無しさん。久しぶりだけど元気にしていたかい?」
「ぼちぼちね。その子は?」
「?…兄貴、誰だよこいつ」

女性に向かってこいつはないよね?と優しく言いながら、後ろ手に分解した自殺志望を持っていることを名無しさんは知っていた。
少し呆れた様子で、名無しさんは2人を見つめる。

「弟だよ。ほら、人識、自己紹介ぐらいしたらどうだい?」
「もう兄貴がやってんじゃんか!!」
「全く…反抗期か?」

双識の口調が変わったところで、名無しさんはこれ以上埒があかないと感じた。
すでに双方とも喧嘩モードに入っていて、お互いに見せてはいないものの武器に手をやっている。
ため息をつきつつ、水道の蛇口をさっきとは反対に捻る。

「兄弟喧嘩はこんなところでしないでねー」
「おわ!!」

ホースで水をぶっかけて、頭を冷やさせようという作戦。
どうも効果はてき面だったらしい。

全身ぬれ鼠状態の2人をたしなめるように、名無しさんは一言。

「はい、全身ぐっしょになったかな?双識、縁側から上がって着替えてて。私、水やり終わらせちゃうから」
「…そうだね、そうするにしよう。ね、人識」
「俺の着替えあんのかよ?」
「うん?あるんじゃないかな。何より着物は丈が合わなくても何とかなるし…、大丈夫さ」
「は、着物?俺着方わかんねーよ」
「私が着せてあげるから大丈夫だよ」

げ、と嫌そうに顔をしかめる人識を半ば引きずる形で、家に連れて行く。
名無しさんは気を取り直して、ホースを植物に向ける。
半年前に植えた植物で、庭はいい感じに埋め尽くされていた。

季節ごとに違う花が咲くので飽きない。
なんというか、隠居生活だった。

「2人とも着られた?」
「うん、なんとかね。人識はやっぱりもっとカルシウムを取った方がいいね」
「そうね、もっと頑張って成長しなくちゃ」

ほっとけ、と一蹴された。
身長の低い人識は着物の長い袖を紐でたすき掛けにしている。
裾も相当長いらしく、上げてもまだ長い。
これは、人識専用の着物を買うべきだと、名無しさんも正直に思った。

双識、曲識、軋識はそんなに身長も変わらないので(若干曲識が小さいが)同じ着物で事足りていたのだ。

「もしかして、私の着物着せた方がいいのかもね」
「それは駄目だよ」
「何で?」
「そんなのズルいじゃないか」
「…そう」

名無しさんは通常の女性よりも小柄なので、丁度いいのかもしれない。
女ものでも地味なものはあるし、と思ったのだが。
双識が即答で駄目だと言うのでまあ、諦めようと思う。
このまま双識を無視して着せたら、人識が危ないだろう。

「つか、何だよここ。曲識の兄ちゃんとか大将も来てんのか」
「ん?ここはね、私たちの隠れ家みたいなものかな。何かあったら、ここで落ちあったり、傷を治しに来たり。これだけ田舎だし、ほとんどの敵からノーマークな場所だから」
「ふぅん…それを俺に伝えておこうってわけか」
「そうだよ」

名無しさんの住むこの家はそのような了解らしい。
確かにこのあたりは人もいないし、交通の便も非常に悪い。
何より、このあたりの土地は実はいろいろトラップがあったりするのだ。

双識が退屈まぎれに作ったものから、名無しさんが侵入者がないように作ったものまで。
それらは、今のところひっ掛った試しがないため、実際に効果があるのかは全く分からないが。
ただ、都会で落ち合うよりもよっぽどここまで逃げた方が安全ということはある。

「今のところはここはただの溜まり場になっているだけだけどね。私はいつでもここにいるからいつでも暇なときに来てね」
「…は?あんたここに住んでんの?」
「ん?そうよ?何か問題でもあるの?そんな、女が住んでるからって遠慮することないし…」

名無しさんは全く的外れに解釈したようだ。

人識が言いたかったのは、この田舎で名無しさんが一人で住んでいるという事実が信じられないらしい。
たしかに、来る間に何もなかった。
それは比喩でも誇張表現でもなく、本当に何もない。
あるのは荒れた田んぼや野原ばかり。

後ろは手つかずの山。
さっき、人識は野生の狸をはじめて見た。

「…嘘だろ…、こんな何もねーとこに住んでんのかよ…年中無休で?」
「まぁ、諸事情でね。別荘に避暑、なんて優雅なことをしているわけではないの」

ようやく人識の言葉を理解した名無しさんは困ったように笑う。
住めば都とはよく言ったもので、本当に名無しさんにとっての都になりつつあるのだ、この田舎は。
呼吸もそれなりに楽だし、何もないけど、身体を動かすにはもってこいの広さ。

都会では呼吸困難に至るが、このあたりでは毎日が高地トレーニング、という程度だ。
まあ、高地に住んでいれば、その空気の薄さにも慣れるわけだが。

「ふぅん…あ、そうだ。姉ちゃん、名前は?」
「ああ、そうね、忘れてた。私は、零崎愛織。本名は名無しさんよ」
「へぇ、本名あるんだ」
「生みの親からの唯一の愛の形だからね」

人が生まれて、一番最初に与えられる愛の形。
名無しさんにはまだそれがあった。
零崎に成ったとはいえ、その愛を捨てたいと名無しさんは思わなかった。
こんな形ではあっても、それは間違いなく愛の一部だから、名無しさんは捨てられない。

だから、名無しさんは名無しさんとして、愛織として、2つの自分を持つ。

「君は人識くんでいいんだよね?話は聞いていたけど」
「人識でいい。…んで、俺、これからどうすんだよ」
「え?1週間くらいここにいたらどうだい?」
「…なんつー拷問だよ」
「ホームレスしているよりはよっぽどいいと思うけどね、私は」

私は3日くらいしかいられないけれど、と双識は残念そうにこぼす。
どうも、仕事があるらしい。
仕事というよりは、生命維持のためだろうが。

人識の拷問の一言にはその意味も入っているのだろう。
人っ子一人見当たらない、この田舎では殺人鬼は生きていけない。
とはいえ、名無しさんは生きていけるのだが。
名無しさんは曲識と同じく、禁欲の殺人鬼。
その分、その禁が破られた時の強さは半端ないわけだ。

「耐えられなくなったら、いつでも帰ればいいのよ。そして、また来ればいいの。みんなそうしてるわ。曲識以外は」
「あー、曲識の兄ちゃんは平気なのか。じゃ、愛織の姉ちゃんも同じベジタリアンってわけか」
「ま、そういうこと。…あ、私のことは普段は名無しさんって呼んで。愛織って呼ばれるのはあんまり慣れてないし…。家族だけなら名無しさんでお願い」
「ややこしいな…」

面倒くさいようだ。

「…まー、いっか。じゃ、俺好きなだけここにいるわ」
「そうしなさいな。そのうちやみつきになるかもよ?」
「うわー、想像したくね」

人識は気分屋みたいだった。
確かにホームレスよりは名無しさんの家にいた方が衣食住に困ることはない。

軋識に電話して、人識用の着物を頼んでおいた。
彼は仕事が早くて助かる。
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