00.
大東亞文化協會の扉に手を掛けるのは、実に一か月ぶりであった。
前回開けた時に比べて扉が重く感じるのは、自分が少し痩せたからと言うのと、疲れているからだろうと三好は当たりをつけていた。

扉を開けると、玄関の名残の段差がある。
段差の下には砂埃が溜まりがちであることを、綺麗好きな三好は知っていた。
一か月も放置されていればさぞ気になるだろうと、億劫な気持ちを抑え込みながら、三好は顔を上げた。
驚くことに、埃は溜まっていなかった。
寧ろ非常に清潔に保たれている。

ここが今の下宿だと言うのに、別の場所に帰ってきてしまったかのような気さえした。
三好はその違和感を嚥下し、帽子を脱いで食堂へ向かおうとした。
玄関の先の廊下に、見慣れた黒く長いスカートがちらついた。

黒髪は綺麗に纏めあげられて、白い項が暗闇に浮かび上がっている。
エプロンでしっかりと絞められた柳腰は、華奢な体躯を妖艶に見せる。
どうにも目につく、美しい女中である。

「お帰りなさい。園田さん」
「…三好」
「失礼いたしました。お帰りなさい、三好さん」

微笑むこともない、冷淡な女中は園田の名を口にした。
彼女の処遇について、三好は何も知らなかった。

あばら家を出た後、三好はイトのことを結城中佐に報告した。
中佐はそれを聞き、彼女を二重スパイに仕立て上げることにしたようだった。
その後は早かった。
イトは元々素質があったようで、二重スパイとして思うように動くことができた。
レジスタンス側の情報を機関に売り、福本がそれをもとにレジスタンス側のさらに奥に入り込んだ。
福本はそこで新しいスパイを作り、中国のスパイマスターに任せて戻ってきた。

三好の失態は、ある意味任務を早急に解決する鍵となった。
とはいえ、失態は失態。
結城中佐から別途訓練を言い渡された三好は、足早にその任務から離れたのである。

「あの後、結城中佐に女中としてであれば居てもよいと」
「ああ…そうでしたか」

女はスパイには向かない。
感情だけで殺し、死ぬ可能性が高いからである。
イトはもう残りの生涯でスパイになることはないだろう。

女中、イトは丁寧に食堂の扉を開けた。
紫煙がイトの白磁の肌を滑り、流れていく。

「では、三好さん。今後もよろしくお願いいたします」

丁寧に腰を折ったイトの向こうには、機関員たちのニヤついた顔が並んでいた。
三好はしかめっ面でそれらを確認して、燻る食堂へと足を踏み入れた。
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