09.
三好と神永は2週間ほど大東亞文化協會から姿を消した。
それと入れ替わりに若い女中が大東亞文化協會にやってきたから、機関員は2人のことなど気にも留めずに、女中に興味深々であった。

「貴様ら、薄情だな…俺なんてとばっちりだ」
「神永には同情するがなあ」

帰ってきて早々にその場にいた甘利と波多野に言うには、三好の失態に巻き込まれたということだった。
神永の任務、それから福本の任務、三好の任務がすべて繋がっており、それを繋げていた一人の女に三好が引っかかった。
三好が最初に相手方にスパイであることを認知され、その後芋づる式に相手のスパイがこちらに気が付いたらしい。
その上で女は自ら三好と対峙し、二重スパイとして動かせてほしいと願い出たらしい。
結城中佐は恐らく、この任務の全容を想定したうえ三分割し、各々割り当てた。
誰がこの女に気付くのかを試していたのだろう。
結果として、本来であれば追っていた木ノ瀬と女の関係、女の出生に気付けなかった神永、逆に接触された三好は結城中佐に大層説教され、各々別途訓練に出されたのである。

「どうでもいいな、本当に。三好は笑えるが、お前は笑えもしないし」

テーブルを囲んでいる波多野は気だるげに後頭部に両手を当てて、椅子を半身浮かしながら神永を見た。
彼は若干痩せたようで、ワイシャツのカラーが若干余っているようである。
三好はまだ見ていないが、同じようなものだろうと推測できた。

波多野がどうでもいいと言ったことにムッとしたらしい神永は数分にわたって愚痴愚痴と文句を垂れていた。
波多野からしてみれば、神永が気付けなかったのは本当に調査不足だったのだろうから笑い話にもならない。

一方の三好は、何があったのか詳しく聞かねばならない。
機関員の中でも優秀な三好がどのように踊らされたのか、聞けば笑えそうだった。

「なあ、女中ってのはどこにいるんだ?」
「んー?今の時間だと…たぶん洗濯場だ。でもそろそろ戻ってくるだろ」

神永はふと食堂を見回してそう言った。
聞けば神永は女中に会ったことがなかったらしい。

女中は朝早くに起きて、福本がいれば彼と共に朝食を作り、掃除、洗濯をした後に、昼食の準備に取り掛かる。
今日は福本分時間がかかるだろうから、彼女はいつもよりも早めに食堂にやってくるだろう。

「噂をすれば。イト!」
「はい。いかがなさいましたか、甘利さん」

静かに扉を開けて入ってきた女中の姿を甘利はしっかり捉えていた。
女中、イトは驚くこともなく自然に甘利を見て唇だけを動かした。

神永は少し目を大きく開いて、イトの姿を確認した。
その女中がまだ年端もいかぬ少女であることを理解して、更に目を大きく見開いた。

「イトはまだ神永に会ってなかっただろ?」
「はい。初めまして、イトと申します」
「神永だ。よろしく」

先ほどまで不機嫌だった神永が、好意的な笑みを浮かべてイトに手を差し出した。
神永は女好きの生来がある。
イトの姿を一目見て気に入ったのだろうことは、波多野や甘利にとっては火を見るより明らかなことであった。
そしてイトがそれを歯牙にもかけないであろうことも、である。

イトは差し出された神永の手に軽く触れて、握手した。
ひんやりとした華奢な手が気に入ったのだろう、神永は控えめに差し出されたイトの手を強く握って離さなかった。

「…あの、昼食がありますので」
「ああ、ごめんね」

ごめんね、と笑った神永だが、まだ手を握ったままである。
それでもイトは表情筋を微動だにせず、神永のライトブラウンの瞳を見つめていた。

「…何してるんだ?」
「神永のいつもの悪い癖だよ」
「いい加減にしろ。…イト、頼まれていたものだ」
「ありがとうございます、小田切さん。台所に置いてもらっていいですか」

手を握り合ったままの2人を見た買い物袋を手にした小田切が怪訝そうに声をかけた。
どうやら今日の買い出し係は小田切と実井だったようだ。
小田切はイトに言われた通りに、買い物袋を持って台所へ向かった。
それに続いて小田切の後ろに隠れていた実井が笑顔で食堂の中に入ってきて、事態は急転した。

実井は笑顔のまま、イトの手を離さない神永の向う脛を蹴り飛ばした。
痛みと驚きで神永はイトの手を離した。

「いっ…て、実井!」
「イトも嫌ならそう言っていいんですよ」
「大したことじゃありません」

イトがその場に立ったまま実井にそう言ったものだから、波多野が大笑いした。

「おーおー、神永。大したことないってさ」
「…煩いぞ、波多野」

盛大に笑う波多野と含み笑いの甘利、微笑みを深くした実井、一気にふくれっ面になった神永を置いて、イトは台所へ向かった。
台所では珍しく小田切までもが肩を震わせていた。

イトは少しだけ首を傾げて、買い物袋の中身を仕舞いだした。
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