08.
斜陽が2人のいる小路だけを避けるように青柳家に当たっていた。
小路でスズを隠すように抱いていた三好の耳朶に、細いスズの吐息が当たる。

「場所を変えましょう。ここではいけません」

三好ははっとしてスズの瞳を覗きこんだ。
静かすぎる、動揺の一切見られない黒曜石の瞳が三好を捕らえていた。
白肌は一部も朱に染まることはなく、唇だけがいやに赤い。
抱いた身体も一気に熱を失ったような気がした。
まるで石膏像を抱いているかのような感覚に、三好の額には冷や汗が伝った。

細くかさついた指が、三好の手のひらに触れる。
どこまでも冷たい指が、三好を青柳家の外へと誘った

裏口から人通りの少ない裏路地を抜け、更に商店街の裏の小路に入る。
都市化が進んできたとはいえ、裏路地はまだ整備が行き届いていない。
入り組んだ小路はろくに舗装もされておらず、土が剥き出しであったり、雑草が足元を埋め尽くしていたりしたがスズはそれを一顧だにせず、青柳家の廊下を歩くかのように進んだ。

進むにつれて、徐々に家の趣が変わっていく。
青柳家のような石作りの家ではなく、木造の家に変わる。
明らかに低級者用の住宅街のさらに奥、スズはいくつかの扉が着けられたトタン屋根のあばら家の前で止まった。

「どうぞ」

右から2番目の扉を開けて、スズはそう言った。
隣からは微かにくぐもった男女の声が聞こえている。
その男女がまだ日も落ち切っていない時間帯から何をしているのかは、もうスズも理解している歳だろう。
ただ、その男女をスズが気にする様子はなかった。
三好は眉を潜めながら、尾行や出口の位置などを確認したう上であばら家中に入った。

あばら家の中は非常に狭く、背の高い福本や甘利が立とうものなら頭をぶつけるであろうところに天井があった。
汚らしい外見とは裏腹に、室内は意外にも綺麗であった。

三好自身、綺麗好きであることを自負しているが、ここなら座ってもまあいいだろうと思えるくらいには清潔に保たれている。
部屋には小さなちゃぶ台が真ん中に、その両脇に汚れのない綺麗な布で覆われた座布団、部屋の壁には布の運搬に使われていただろう古い木製の箱がいくつか並べられ、そこに本が納められていた。
途中の箱には布が被せられていて、何が入っているのか分からないものもある。
その箱の上には櫛や鏡が置かれていて、女の部屋であることが伺えた。

「ここに貴方を連れてきたのは、他でもない、助けて頂きたいからです」

目の前のスズは、仕事の時と同じような涼やかな声でそう言った。
座布団の上できちんと正座をして三好と向き合うスズは、強い決心の元に行動している者特有の鋭い眼光を彼に向けていた。
三好は予想外の展開ではあったがそれをおくびにも出さずに、スズに向き合っていた。

あくまで自分の方が上であることを、スズに理解してもらう必要がある。
助けて頂きたいということは、頼みがあるということだ。
相手に頼るということは、その相手をきちんと立て、話をする必要がある。
自分の方が立場的に上であると三好は感じていた。

「結論を申し上げます。あなたが探っている中国系レジスタンスの情報を受け渡す代わりに、彼らをうまく中国に返して欲しいのです」

スズの唇から零れた言葉を理解した瞬間に、三好は今までの考えを全て吹き飛ばした。
彼女は、自分が中国系レジスタンスを探っていることまで調べ尽くしていた。

走馬灯のように、すべての話が繋がっていく。
スズが早い段階で三好のことをスパイだと勘付いていたとしたら。
彼女は関口家からの紹介で、青柳家の女中になった。
元々は関口家の経営する工場…主に立川の被服工場で働き、そこで中国系の従業員と仲良くなった、きっかけは育て親の外村。
きっとその時はレジスタンスの話など聞かなかっただろう。
ただ、何かきっかけがあって、レジスタンス側の者として動くようになった。
関口家はキナ臭いと疑われていた、だから、そこから日本軍の情報を得るのは難しい。
ならば、同じように中国と貿易をしている青柳家にスパイを送り込めばいい―――。

「私は、イトと言います。スズの双子の妹でございます。今日は、青柳家にスズを置いた状態で、貴方と会いました。尾行はなかったと思います」
「尾行はなかった」

双子。
ミステリ小説に置いてはタブーであるが、ここは現実世界だ。
気付ける点はいくらでもあったはずだった、本のように情報に限りがあるわけではないのだから。

便利すぎる身上を利用し、イトはアリバイも何もかもが届かない場所でスパイをしていた。
尾行に気を使っているのは、常日頃からスズが2人であることを隠すためだろう。
スズとイトが入れ替わる場所を、他人に見られてはならないのだから。

「私は、あなたが園田さんになる前から、スズになったり、ならなかったりしながら生きてきました。スズは社会的に存在していますが、私は生まれついてこの方、戸籍がありません」

無戸籍者。
今も貧しい農村では間引きの一環として、生まれた子どもに戸籍を持たせないことがある。
意図的な場合もあれば、本当は間引きをする予定がうまくいかなった場合もある。
1人の人間として認められないため、村では下人のように扱われ、都会に出ても働き口がない、あったとしても碌な賃金はもらえないと聞く。

そのためイトはスズの名前を借りて、彼女の代わりに仕事をしていたのだ。
三好は、時折スズが子どもっぽく笑ったり、祥子に指摘されたことに悲しむ姿を見ていた。
あの時のスズは、イトではなくスズ本人であったのだろう。
顔の造りはそっくりであるが、性格や仕草に若干の違いがある…そこを見抜けなかった。

スパイ活動はスズと言う女中に成り代わった妹が行ったことであった。

「なぜ、僕に気付いた」
「園田さんは元々、スズではなく私を好いていたようでした。彼はあまり賢くはありませんでしたが、私とスズの見分けがついていたようです」

三好はとんでもない失態をしたと感じていた。
複数犯の可能性を想定しなかったこと、スズの微細な差に気付けなかったこと…何より、イトは三好が園田になったその時から、三好に勘付き始めていたということ。
スタートラインがそもそも違い過ぎていたのだ。
いくら追いかけようとも追い付かない場所まで、イトと言うスパイは逃げ切っていた。


敗北。
三好の脳内でその言葉が浮かんですぐに消えた。
しかし、まだ取り返しはつく。
イトは三好を頼らなくてはならない立場にある。

失態をうまくやり過ごし、最終的な成功に導くこと。
それが今やるべき最優先事項であった。

「僕をここに呼び出した意図は何だ」
「先ほどもお話しましたように、立川の工場に勤める中国レジスタンスを中国に戻したいのです。そのためなら、二重スパイもやります」
「そうじゃない。そうしたい意図は何だと聞いている」

三好すらも騙すことに成功していたこともそうだが、イトのスパイ活動は随分とうまくいっていた。
しかし、イトは恐らくわざと三好とスズを引き寄せてきたのだ。
立川の工場の火事や煙草もすべてはスズが犯人であるようにこちらに気付かせるためにやったことだ。
こちらとの接触をわざと誘発していた。

その理由があるはずだった、それを知らないことには簡単にはいかない。
二重スパイは便利ではあるが、裏切りのリスクが付いて回る。
そのリスクを軽減させるためにも、イトの意図を知る必要性があった。

イトは目を伏せて、美しい顔を歪ませた。

「私は、スパイを命じた人間に弱みをいくつも握られています。スパイを続けていればそれらが暴かれることはないと言いますが、もう信頼なりません」
「具体的には」
「…育て親を人質に取られています。彼を助けたい。あとは、私が無戸籍者であることを知られていますから、それを指摘されるだけで私だけではなく、スズにまで迷惑がかかります」

外村蓮太郎。
神永の資料に彼の名前があったが、その横にはバツ印が加えられていた。
彼は中国人と仲が良かったが、平和を愛する男で心証はシロ。
実直で見返りを求めないお人好しが災いし、もともとは子爵家の者だったというのに勘当、挙句の果てには下人のような生活をしている。
しかしそれでも彼はその生活を気に入って、安い賃金で働いている変わり者だ。

お人好しの外村に引き取られた双子は、大よそ幸せに幼少期を過ごしたのだろう。
だからこそ、彼が今、中国系レジスタンスの者に狙われていることが許せない。

「スズは青柳家でうまくやっていますし、園田は私がいなくなれば祥子お嬢様に落ち着くでしょう。私はどうなったって構いません、存在しない人間ですから」

存在しない人間など、現実にはいない。
スズも園田もすぐにイトがいなくなったことに気付くだろう。
三好は整った眉を寄せて歪ませた。

「どうなったって構わない、ね。軽々しく言っていい言葉じゃない」
「そうお思いでしょうね」

イトは微笑んだ。
スズの笑い顔はよく見ていたような気がするが、イトのそれは彼女の笑顔とは一線を画していた。

三好はそれを見た瞬間の怖気を、未だに覚えている。
強い意志を感じられるでもなく、幸せを感じるでもない。
あまりにも純粋すぎる、純度の高い諦念。
老衰を目の前にした人のような、死という絶望を受け入れた顔。

「ですが、私には義があります。育ててくださった外村さんに恩を返さないと、死ぬことも許されないでしょう」

死ぬことは愚かなことであると理解しているが故に、死ぬことは何も意味しないことを理解しているが故に、どこまでも影として人々が幸せに生きるための犠牲になり続けることを選んだ存在。
道理に従い、利害を捨てた無垢な羊は三好の前に用意された。

「…お前は僕をうまく利用した。その能力を買おう」

イトは愚かであるが、馬鹿ではなかった。
自分をうまく使い、正しく捧げる人間を選ぶことが重要であることを理解していた。
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