02.学者と少年
イルミは飛び起きて、頭を何かにぶつけた。
随分と低い天井だ、と頭上を睨んだが、天井は自分の頭上の大よそ1mほど上にある。
一体何に頭をぶつけたのか、と頭上に手を伸ばしたが、何にも触れることはなかった。
その代わりに、自分の周囲の温度が変わった。
今の一瞬で、温度が下がったのだ。

はっとして周囲を確認する。
見知らぬ部屋である、そして、人がいる。
人間を確認したら、まず警戒しなくてはならない。
瞬時にイルミは人の首元にナイフを突きつけようとした、が、それはできなかった。
人に触れる30cmほど手前で、ナイフは何か硬い壁に当たって弾かれた。

「…お前は誰だ」
“私はエルビス・オングという学者。君が私の家のベランダに落ちていたから拾った”

エルビス・オング。
どこかで聞いたような名だ、恐らく有名な学者に違いないとイルミは考えた。
ただ、その学者が一体どの様に凄いのかまでは分からない。
分かることは、エルビス・オングと言う学者が念遣いであることくらいだ。

念文字はちょうど壁のあたりにペンで書いたように浮かび上がっている。
イルミが一文を読み終えたあたりで、次の一文が浮かび上がる。

“君の怪我は治したから、お父さんやお母さんに連絡が取れるなら帰りなさい”

文字を追うのに夢中になっていたイルミは、そこでようやく人を観察した。
人は文字を浮かび上がらせるばかりで、イルミの方を一切振り向かない。
机に齧りつくような姿勢で、一心不乱に何かを書き続けている。
手元でペンを握りながら、背後で念文字を浮かべることができるなんて、非常に器用で優秀な念遣いに違いなかった。

自分と同じような黒髪は乱雑に首元で結ばれ、華奢な肩に掛けられて前に垂れている。
身体の骨格やなだらかな曲線を見るに、この学者は女であるようだった。

“連絡を取りなさい”
「…ベランダに何か落ちてなかった?」
“あなた以外は特に”

観察するイルミを咎めるように、先ほどよりも大きな文字が他の文字たちを押しやって浮かび上がった。
イルミはそこで履いているズボンのポケットを軽く触った。
そこに通信機を入れていたはずなのだが、ない。
どこかで落とした可能性が高いが、この高さであるし、通信機は助からなかったのだろう。

学者もイルミの言わんとすることを理解したらしい。
面倒くさそうにバリバリと頭を掻いて、ようやく彼女はイルミと対面した。

“連絡手段は他にないの”
「電話を貸してくれたら自分で掛ける」
“この家に電話はない。ここから降りて、どこかで借りる他ないわ”

自分とは違う、澄んだ黒だった。
水の中に沈めた黒曜石のような煌めきが、雪色の肌の中に埋め込まれている。
いつも見ている血液の色よりもずっと鮮やかな赤がすっと肌の中に浮かんでいた。
怪訝そうに寄せられた形の良い眉は、彼女が面倒くさがっていることをイルミに伝えていた。

その一瞬だけは、不思議と電話のことも両親のこともどうでもよくなって、目の前の女性をとにかくナイフで傷つけてみたい感覚に陥った。
寒空の下、足跡1つない真っ白な雪の上に、自分の足跡をつけて回りたいと駄々をこねた弟の気持ちが、初めて分かった。

“玄関はあっち”
「今日はここにいる」
“それは別にいいけど。ご両親に連絡を取ってからにしなさい”
「無理。すぐ飛んでくるよ」
“なら、そうしたほうがいいでしょう”

あっち、と書かれた文字の隣に矢印がある。
そちらの方に視線をやることもなく、イルミは答えた。
彼女の言う通り、早いところ両親に連絡をした方がいいことは確かだ。
ただ、もう少しここに居たいという気持ちが、イルミの冷静な判断を奪っていた。

何も言わないイルミに、エルビス・オングはため息をついて、椅子を立った。
その少しの動きだけで、イルミは瞬時に臨戦態勢に入る。
エルビス・オングには、彼が一般的な少年でないことが分かっていた。

エルビス・オングの認知している“一般的な少年”は念文字を読めないものだから。
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