Polaris
月に一度、アルバイトの給料日はちょっといいカフェで美味しいコーヒーを飲むのが、玲の細やかな楽しみだった。
マンダリンの香りを楽しみながら本を読んでいた玲の邪魔をしたのは、サイレントマナーモードにしていた携帯である。

8割方伏せられている玲の携帯が珍しく伏せられておらず、尚且つ、本のページを捲るためにコーヒーカップを手放すタイミングで着信があったのだ。
普段なら無視するのだが、名前を見て、玲はすぐに携帯と貴重品を身につけて外に出た。

着信は遥か遠くのドイツからで、相手が三好だったからだ。
そうでなければ無視している。

「三好さん?いかがされたんですか?」
『玲、今どこに?』
「え?ああ…大学の近くのカシオペアですけれど」

電話越しの三好の声は、どこか焦燥をにじませているようだった。
玲は困惑気味に自分の居場所を伝える。

玲の通う大学の傍には昔ながらのカフェがある。
カシオペアは昭和の品のいいカフェを思い出すような雰囲気を纏った店で、玲のお気に入りだった。
三好とも来たことがあるから、彼も知っている場所である。

外は雪がチラついていて、なかなかに冷え込む。
一体どうしたのだろうと思いながらも、貴重品と共にコートを持ってこなかったことを後悔した。

『波多野は?』
「…波多野さんですか?今はいませんが…三好さん?どうされたんですか?」
『ようやく、思い出した。玲、無事なんだな?』
「え、」

ぽとり、と手に持った財布を落としてしまった。
それを拾うことなく玲は携帯を持った左手を右手で支えた。
寒さではなく、驚きと興奮で手が震えていた。

思い出した、と三好は言った。
このタイミングで思い出したなんて言葉を言われてしまったら、期待をしてしまう。

『前に、玲を失ったのは丁度、君が18の冬だった。今がそうだろう』

伝えたい言葉があったのに、玲の喉は痙攣して声にならない。
何か言うべきだと思っているのに、言葉にできないのはあの時と似ていた。
震える手を携帯ごと握りしめて、ずるずるとしゃがみ込んだ。

確かにそうだ、前に玲が死んだのは18歳になったばかりの冬のことだった。
雪の降るような寒い日で、三好の手の温かさが酷く身に染みた。

『玲?』
「っあ、」
『…すまなかった。ずっと玲は覚えていたんだろう、僕のことを。やはり、玲は薄幸だな』

違う、薄幸なんかじゃない。
三好が記憶を持っていないことを悲しんだこともある。
だが、機関生と女中と言う身分も柵もない状態で1から関係を築けることに喜んだことも確かだった。
初めて玲は恋をした、前は恋をする暇もなく、いつの間にか愛していたから。

三好は勘違いをしている。
決して玲は不幸なんかじゃなかった。
勝手に決めつけないで欲しい。
昔からそうだ、三好は勝手に決めつけて、勝手に去っていく。

「…忘れたんですか、約束」
『…聞こえていたのか、最後のあれ』
「聞こえていましたよ、ちゃんと。三好さんは最後に、私に約束してくださいました。反故にするおつもりですか?」

混乱していた玲は怒りを覚えることで、落ち着くことができた。
最期、三好は死に往く玲に次は幸せにすると言った。
玲は返事こそできやしなかったが、きちんと聞いていたのだ。

あの時伝えられなかったことを、伝えるのはまだ先でいいかもしれない。
それこそ、三好が約束を果たしてくれた後でもいいはずだ。

玲はようやく立ち上がった。
スカートの裾についた雪を右手で払い、落としてしまった財布を拾い上げた。

『随分なことを言うようになったものだね』
「前の私とは違うということですよ」
『そうみたいだ。年末に一度、そちらに戻ろうと思う。その時にゆっくり話そう。約束のことも』
「はい。楽しみにしています」

玲は携帯を握りしめて、笑顔でそう伝えた。
寒かったはすだが、あの時と同じように左手だけは温かだった。
prev next bkm
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -