Prologue:
声が出なかった。
寒さも痛みもなく、ただ彼のアルトテノールの声だけが耳に届いていた。
静かな世界で、彼の声だけが聞こえていた。
とても安心できた、温かな彼の手が、私の左手を握っていたから。

「…本当に、薄幸な奴だ。ようやく楽しくなってきたというのに」

そう、とても楽しかった。
まるで本当の新妻のように、彼を愛していた。
帰りを待つことがあんなに楽しかったのも、食事を作ることに拘ったのも、肌の温度をあんなに近くで感じるのも初めてだった。

視界は雪がチラついているかのように、まばらに白く霞がかっている。
その奥で、彼のワインレッドの渋い赤が揺蕩っていた。

「すまなかった。僕が連れてさえ来なければ、こうはならなかっただろう」

繋がっている左手が強く握りしめられた。
女は声を上げようと、懸命に息を吐き出そうとしたが、出てくるのは苦しそうな吐息だけだった。
違うと叫びたかった。

彼が連れてきてくれなければ、そんな幸せは知らなかった。
連れてきてくれたことに女は感謝していたし、偽りであったとしても愛してくれたことは彼女にとっての宝になった。

「すまなかった、玲。あの人の言葉を信じるわけではないし、僕はそこに辿り着けるとも限らないけれど…またどこかで会えることを祈っている。その時は、必ず、もう一度幸せにするから」

彼の声は遠くなっていく。
手を伸ばして、喉を掻きむしりたいくらいだった。
どうして伝えられないのか、彼を悲しませたまま、往かなくてはならないのか。
悔しかった、悲しさよりも悔しさが玲の頬を濡らした。

彼は頬に伝った涙をキスで舐め取った。
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