涙が流せるということ
元の場所に戻ったとき、そこは酷い惨状だった。
血まみれの2人、るれろは2人がかろうじて見える距離に逃げていた。

「げらげらげら!」
「君、それしか言えないの?似た者同士かもね」

そこここに、裁縫用の針の大きくなったようなものが散らばり、ちぎられた糸が月明かりに照らされてきらきら光っている。
その中で向かい合っている2人は、戦いを楽しんでいるようだった。

「名無しさん…?」
「っ…」
「なんだよ、曲識、この女…、確か」

気配を感じ取ったのか、名無しさんが振り返った。
柔らかな長い髪は、血で濡れていて硬くなっていた。
名無しさんは振り返った先に逃がしたはずの曲識と、見たことのある赤。
名無しさんは表情を硬くした。

「哀川潤…」
「てめぇ、皆無じゃねぇか!あぁ?なんでこんなところいんだよ」
「あなたには関係ないでしょ」
「関係ねぇわけねぇだろうが!おまえが関わってる事件は毎回ひでぇもんだろうが!」

声音は冷静で落ち着いているものの、その表情は焦燥に駆られていた。
なぜ、ここに、哀川潤がいるのか。
そして、なぜ、零崎である曲識と仲がよさそうなのか。

曲識も疑問に思っていた。
どうして隣の哀川潤と名無しさんが知り合いなのか。
なぜ、凄く仲が悪いのか。
そして、なぜ、名無しさんは皆無と呼ばれているのか。

皆無の名は聞いたことがあった。
それは、と曲識が思い出す前に潤が言い放つ。

「あぁ?答えろ、匂宮皆無!弟はここにゃいねぇだろうが!!」
「っ…だから、あなたには関係のないことでしょ」
「匂宮…?」

殺し屋としての、殺戮奇術集団匂宮雑技団現エースとしての、匂宮皆無。
何もない、感情もない、名無しさんが、そこにいた。

いい加減、話をし続ける名無しさんに痺れを切らしたらしい、橙が襲いかかってきても、名無しさんは微動だにせず応戦する。

「少しあなたも人を待ったらどうなの?いい加減にしなさい」
「げらげら」
「うるさいわ」

橙の平手をする、と流して、そのままカウンターをくらわす。
その一動の流れは、非常に洗礼されたもののように見えた。
しゅるん、と糸の摩擦音が聞こえる。

「哀川潤、あなたの望む狐はここにはいないから。見当違いだったね」
「んだよ、何でも知ってんのかてめぇは」
「そこの人連れてどこかに行ってよ。私はこの子の面倒をもう少し見なければいけないだろうし」
「あたしとしては、お前をさっさと消したいんだがな」
「なら、そこの橙にお願いしたら?」

す、と指さした先にはすでに橙が接近していた。
橙の平手が頬に小さな傷を作り、名無しさんの体勢を崩す。

体制を立て直して、名無しさんは蹴りを入れる。
脇腹から血が滴っているのを気にも留めない。

「はぁ…まじかよー、いねぇのかあの狐」
「ちょっと待ってくれ、名無しさんは一体何者なんだ」
「あ?名無しさん…?それ多分偽名だな。…あいつ何考えてんだ?意味わかんねぇ」
「偽名…、匂宮皆無の方が本名、ということか」

そういうことだな、とっあっさりいう赤。
匂宮皆無、と言えば殺し名の中でも有名な殺し屋だ。
少し前から姿を消したと言っていたが…、と曲識は思う。
そう、姿を消したということを聞いたのは、丁度名無しさんが従業員の応募に来た頃だった。
繋がる。

「お前はなんであいつの仲がいいんだ?」
「…僕の店で働いてるからな」
「は?働いてる?」

哀川潤は素っ頓狂な声を上げた。
名無しさんが働いているというその事実が信じられないようだった。

名無しさんと橙の戦う場所から立ち去ろうとしている潤は曲識がその場から動かないのを怪訝に思っていた。
この戦いは、どう考えてもここにいたら巻き込まれることは目に見えているのに。
るれろも途中であきらめるだろう。
ただ、諦められる前に、名無しさんが死なない確証はない。

「匂宮がバーで働くなんて前代未聞すぎだろ。あそこ、金は腐るほどあんだろ」
「だろうな」

匂宮は暴力の世界や政治の世界にも通ずる、殺し屋集団だ。
仕事はいくらだって入ってくるから、金に困ることなんてないだろう。
だが、名無しさんは働いている。
匂宮の次期頭首ともいえる彼女が。

「そのことは後で考えようぜ。もうここも危ねぇだろ」
「…いや、ここにいる」
「…は?いや、お前大丈夫か?」
「匂宮だろうと、なんだろうと、彼女はうちの従業員だからな」

置いて行くことはできないだろう。
曲識を助けるために、名無しさんは闘っているのだ。
それがたとえ名無しさんじゃないにしても、それでも曲識のために戦っているのだから。
何もできないにしても、逃げたら、名無しさんはそのすきに消えてしまうのだろう。

「…行ってください、私はこの時のためにあなたの従業員になったんですから」
「いやだ、と言ったら?」
「気絶させてでも連れて行ってもらいます。下に弟を待たせていますから、来てもらうこともできます」
「そうか、ならば、ここにいよう。お前の弟に負ける気はしないし、お前に気絶させられる気はない」
「っ…」

匂宮と分かってしまった今、曲識のそばにこれ以上いることはできない。
曲識にも迷惑がかかるし、これは名無しさんのけじめでもあった。
ばれてしまったら、曲識のそばにはいない、いられない。
そう決めたのは名無しさんだ。
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