最近従業員になった、少し年上の女性。
もちろん、それなりのプロのプレイヤーだ。
最初に罠にかけてみたが、完全に気付かれていた。
音楽はもっぱら聞く派らしい。
ピアノを習ったこともないそうなので、暇なときに教えたりもする。
明るく、友好的な性格。
大人っぽいような第一印象ではあるものの、案外子供っぽいところもあるような掴みどころのない感じ。
その点では、人識に似ている気もする。
「曲識さん、曲識さん、もうお店閉めますよ?」
「…、ああ、」
長い髪を高い位置で結び上げている。
Tシャツにジーパンというラフな格好ではあるが、どこか魅力的で常連客にも人気のある従業員。
背も高く、モデルのような体系なのに、…なぜこんなところで働いているのか疑問だ。
プロのプレイヤーではあるだろうが、別に目立つところで働いても、問題はなさそうだ。
もっと時給のいい仕事もあるだろうに。
「…?」
全く動かない曲識を疑問そうに名無しさんは見ていたが、また作業を再開した。
フロアの掃除をしている。
曲識が思考に耽っているのを分っているらしい。
そしてその時に声をかけても意味がないことを。
「曲識さん、もう明け方の時間ですけど、女の子を1人で帰らせるつもりですか?」
「…自分がそんなに弱いとでも?」
「まっさかぁ。冗談です。曲識さんを私が送るんですよ」
ふふ、と意地悪そうに笑う。
…正直曲識も、この名無しさんに関しては自分よりも強いのだろうということは気付いている。
それは採用試験の時だった。
「名前は?」
「名無しさん、と言います」
曲識よりも少し歳は上に見える。
双識と同じくらいか、少し下か。
「この店の営業時間は午後5時から翌日の朝5時までで、その間にシフトに入ってもらうことになるが、かまわないか」
「ええ、もちろんです」
「時給は…」
「あの…、話の最中にすみません」
曲識は座って、名無しさんは立って話をしていた。
話し始めて10分は経っただろうか、名無しさんが話に横水を差す形で話し始める。
「あの、精神干渉するのやめてくださいませんか?いい加減辛いんですけれども…や、座らせようとしているのはいいんですけど、普通に言ってください」
「気付いていたのか」
「当たり前ですよ…、いい加減に我慢の限界ですよ。スピーカー壊しちゃいますよ?」
店長を早々に殺してしまうのは良くないと思いますから、あなたの声に関しては自主的にやめていただくのを待つしかないんですけれども。
名無しさんは飄飄とした様子でそう言い切った。
音波は普通の人には聞こえない者のはずだが、あっさり気付かれスピーカーを人質に取られたのだ。
スピーカーを見てみると、スピーカーの周りに糸が張り巡らされているようだった。
曲弦師らしい。
「よく気づいたな」
「自分の身体の不調は誰よりも自分が敏感ですからね。聞こえなくとも感じることくらいは簡単です」
ああ、これは敵わない、と曲識はその時から感じていた。
その後、スピーカーが壁の中に埋め込まれたのは言うまでもない。
店を閉め、雪の中を歩き始める。
早朝と言うこともあり、辺りには誰もいなかった。
「あ、そうだ、困ってるんですよ、曲識さん」
「何にだ?」
「あのですねぇ、最近よく来るお兄さんいるじゃないですか。知ってます?」
「…分らないな」
客のことについては従業員である名無しさんともう一人に任せているので、客は常連客以外に覚えていない。
名無しさんの話によると、その男は2か月前くらいから通っているらしい。
冬の時期なので、まだ朝日が上っている真っ最中で眩しいことに夢中で名無しさんの話はあまり聞いていなかった。
「その人がですねぇ、やたらプロポーズして来るんです。助けてくださいよ」
「…、殺したらどうだ?」
「え、駄目ですよ。曲識さん少女以外殺さないんでしょ?」
「何で僕がやることが前提なんだ…」
最初から曲識にやらせる気だったらしい。
曲識は呆れたように名無しさんを見るが、一般的にいえば店の不始末なのだから店長がきっちり清算すべきである。
名無しさんは、糸だと世間的に目立つので、と言っていたが、ならばナイフを使えばいいだけの話だ。
もちろん、曲識の音ならばなんてことはなく殺すことができるが。
自分のルールは、うっかり名無しさんに話してしまった。
馬鹿にされるかと思ったが、名無しさんは大変ですねぇ、の一言だった。
「だって、酔った勢いって可能性もあるじゃないですか。そんな、酔った勢いだけで殺されちゃうって言うのも不幸すぎやしません?」
「そうかもしれないがな」
「興味ないでしょう、曲識さん。もう、本当に困ってるんですよ、私」
あいにく、名無しさんと曲識の家は同じ方向で、名無しさんの家の方が近くにある。
名無しさんは口ではそういっているものの、そこまで困っている風でもなかった。
ただ、曲識に話を聞いてもらいたいだけのように聞こえた。
曲識も返答だけはするが、名無しさんの言うとおり、あまり興味はなかった。
「しかもセクハラまでして来るんですよ。バーはお触りパブじゃないんですけどね」
「…そんなことまでしてるのか」
「もちろんしてきたら速攻ではたき落としますけど…、まぁ触られてからじゃないと反応できませんからね」
未然に防ぐことは名無しさんにとっては簡単だろう。
だが、一応相手は客だ。
触られていないのに手をはたくことはまずい。
流石の曲識もそこまでではないと思っていたので、話を軽く聞き流していたがそこまでされているのなら何か改善策を立てなければいけないだろう。
「その客に呼ばれてもいかないようにするのはどうだ?」
「あー、やりましたよ。花くんが行ったんですけど…。向こうから寄って来るんですよね」
花くん、というのはもう一人の従業員だ。
本名、蒼井花。れっきとした男だ。
名無しさんと同じく無名のプロプレイヤーだが実力も普通にある。
ただ優柔不断な優男といった様子で、押しに弱い。
彼ではどうにもならないだろう。
「だから許可がほしいんですよね」
「なんのだ?」
「客殴っていいですか」
「…、それは悪くない」