ふと、目をさました。
ゆるやかな、ピアノの音が聞こえる。
小さい音、かすかに聞こえる。
ぼんやりする視界の中、ふらり、と名無しさんはベッドを出た。
「…曲識さん?」
「ああ、名無しさん。…起こしたか?」
「あ、いえ、目がさめたら、ピアノの音がしていたから」
曲識は長い髪を少し高めに結って、ピアノの前に座っていた。
名無しさんの存在に気がついたのか、手ではピアノを奏でながら、器用に話す。
「まだ、聞いていても?」
「もちろん」
ピアノに一番近い席に座って、名無しさんはピアノと曲識を見た。
あの時と、同じ、心を失った名無しさんさえもを魅了した、その音。
あの時、曲識は精神干渉など行っていなかった。
それなのに、名無しさんが動けなかったのは。
ただただ、感動していたから。
なかったはずの、壊されたはずの心が、震えたから。
あの時は、泣けなかった。
ただ、戸惑うばかりだった。
だけど、今は違うから。
「名無しさん…?」
「っあ、あはは…、やっぱり、好きだなぁ」
大好きな音、大好きな人。
初めての気持ち。
それらの大きな感情は波となって、涙となって。
逃げ場をなくした、それら。
前まではあった逃げ場も、もうない。
溢れ出す感情は、これは、。
「好きだよ、名無しさん」
「…先越しましたね、曲識さん」
「先に言われるのは良くない」
笑ってても、泣けてくる。
今日、この日がおわってしまえば、名無しさんは皆無になるほかない。
だが、せめて、今日だけ、まだ、
「まだ、名無しさんでいさせて…?」
「ああ」
「大好き、曲識さん」
「名無しさん…、」
幸せだった。
名無しさんとしての幸せ。
名無しさんは曲識の体温を感じつつ、少し冷える店の中。
お互いに、愛し合った。
「ふぁ…、」
「姉ちゃん眠そうだけど大丈夫かよ。今日から仕事だぜ?」
「いいよ…飛行機で寝る…」
ごろごろとキャリーケースを引きずる。
出夢の着替えなんかは異常に少なかったので、名無しさんと出夢で一つのキャリーケースで来た。
そのため、交替でキャリーを引きずる。
先ほどから名無しさんはキャリーの角に足をぶつけてばかりいるので、出夢が見かねて代わったばかり。
「ここまでお見送りとは…ありがとうございます」
「むしろ俺らは来ない方が良かったんじゃねぇの?」
「それじゃあ、出夢がかわいそうでしょ?」
「そうそう、僕の存在を忘れんなよ」
見送りに来てくれたのは曲識、双識、人識、伊織。
花は別のバイトがあるので、昨日までだったそうだ。
先に眠ってしまって申し訳なく名無しさんは思った。
軋識は、他の用事で一足先に京都に戻っていた。
「名無しさん、」
「なんですか?曲識さん」
「次に会う時までに敬語をなくしておいてくれ。一応名無しさんのほうが歳上だろう?」
「あー、はい、悪くないですね」
お茶目に笑う。
一応名無しさんの年齢は27歳。
曲識の2つ上であることを昨晩カミングアウトしてみたのだ。
あまり驚いてはくれなったが。
「じゃあまた。京都に来ることがあったら連絡くださいね」
「ああ」
雪は今日は降っていなかった。
また雪の降っているうちに来るのも、いいかもしれないと、名無しさんは思った。