朝靄の中で
早朝に降った雨が靄になって足元を漂う。
濡れた煉瓦は色味を増して、重い気分にさせる。
纏わりつく雨の匂いを振り払うように、1人の男が歩いていた。

男は気怠げに溜息をつきながら、雨に濡れたスラックスの裾を引きずりながら歩いた。
仕事で帰りが遅くなってしまった。
妊婦の妻が待つ家に早く戻らなければならない。
男は早く家に戻り、キッチンに立っているだろう妻の横顔にキスをしたかった。

あとはノクターン横丁で有名なカフェバーを通り過ぎ、その先の曲がり角を曲がれば我が家だ。
無骨なアパートだが、住み心地は悪くない。
早く帰りたい、そう思いながら早足で曲がり角に差し掛かったとき、男は曲がり角に蹲る人影を見た。

「おいおい、こんなとこでなにやってんだ?」

普段なら声などかけなかっただろう。
ここはノクターン横丁、物陰で蹲る人など掃いて捨てるほどいる。
しかし、男はその人影のシルエットを見て、声を掛けるしかなかった。
長い赤毛の女のようだが、蹲る人影は大きい。
それは女が丸めきれない身体をしているのが原因だった、妊娠している。

時刻は夜8時半、晩夏も過ぎて秋らしい気温になりつつある。
自分の妻が寒いからとカーディガンを羽織っていたくらいだ。
男も軽い羽織を着ていたが、女はまるで寝室から出てきたばかりであるかのような服装だ。

「おい、生きてるか?」
「…ええ、一応ね」

2度男が声を掛けてようやく女は顔を上げた。
まだ若い、20歳くらいの女だ、顔色は悪い。
男はどうしたものかと思ったが、ここに捨て置くのは気が引けた。
声を掛けてしまった時点で、この女の面倒を男が見るしかないのは分かっていたこと。
妻に勘違いされないといいが、と思いつつ、男はうちに来るか、と話しかけた。

若い女は一つ頷いて、男とともに濡れた煉瓦道を歩いた。


普段なら夜勤はずが上司命令で昼勤に切り替わるわ、残業になるわ、妊婦を拾うわ、愛すべき妻に引っ叩かれるわ、ここのところ男は散々だった。

「悪かったよ、アンタ」
「いいよ…勘違いされると思ってたからな…」

夜9時、家に戻った男を迎えたのは夕飯のいい匂いと妊婦の妻だった。
彼女は帰りの遅い旦那を心配し、夕飯を作って待っていてくれたのだった。
そこに旦那が女連れで戻ってきたとなれば、拳の一つでも飛んできておかしくない。

乱暴な口調だが申し訳なさそうにしている妻の額にキスをして、男は焼きたてのパンを千切った。
拾った妊婦は妻が即座に風呂に入れた。

「あの、ありがとうございます」
「いいんだよ。アンタも子どもがいるんだ、身体は大切にしないと」
「食欲はあるか?食べられそうなら食べた方がいい、酷い顔色だ」

風呂から上がった女に椅子を譲り、男はキッチンに向かった。
向かいに妻が座っている状態だが、彼女もまたせっせと女が食べられそうなものを見繕っているようだ。
スープをよそって、さてどうしたものか、と男は考えた。
髪や服装は多少汚れているが仕立てがしっかりしているし、痩せているわけでもない。
おそらくは、ノクターンの住人ではない。

では、ノクターンの住民でない妊婦がノクターンにいるのか。

「アンタ、何でこんなとこにいるんだい?」
「それが…覚えていないんです。気がついたらここに…」
「そりゃまあ…大変だ」

女の話を聞けば、家に来客があって玄関に出た瞬間から記憶が曖昧だという。
玄関先で襲われて連れ去られた可能性が高いが、それであれば、ノクターンに捨てられている理由がわからない。

ない頭を捻ってもしょうがない。
男はこういうときの相談役をよく知っていた。

「OK、わかった。俺はヴィヴィオ。ここはノクターンだ。こういうワケわからんことには慣れてる。とりあえず相談役に話してみる」

ノクターンではよくわからないことが定期的に起こる。
いきなり孤児が増えるだとか治安が悪くなるだとか物価が上がるだとか、まあ色々だ。
そういう困ったときに相談すると何とかしてくれる人間がノクターンには数人いる。
そのうちの1人がヴィヴィオの家の近くに住んでいた。

ノクターン横丁三丁目のカフェバー、オリュンポス。
そこの店主である名前さんとリドルに相談しておけば間違いない。
とりあえず明日出向いてみるか、とヴィヴィオは考えながら、女の名前を聞いた。
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