終わりの楽園
エリーゼの自室にいたクロロは、“ルクソ地方における民俗学”がいつもの場所にないことに気が付いた。
あの本はエリーゼにとって父親の形見であり、普段は“ルイーゼの瞳”と共に安置されている。
“ルイーゼの瞳”は相変わらずエリーゼのベッドの奥に置かれていて、明るい緋色がクロロを見つめていた。

そう言えば、先ほどエリーゼのオーラが膨れたのを感じた。
何かあったのだろうかとも思ったが、ここはアーデル、“利用規約”に背けばスタッフだろうが客だろうが、店から追い出される。
エリーゼのオーラはまだ階下にあるから、身の危険はないが、何か彼女の琴線に障ったことがあったのだろうとクロロは考えた。
丁度小腹も減ったし様子を見に行ってみるか、とクロロが腰を浮かせたのはいつも通りのことだった。

階段を下りてやってきたクロロにまず気づいたのは、剣呑な雰囲気に耐えられなくなってきたセンリツだった。
カウンター横には扉があって、サヴァがよくそこから出入りしていたのをセンリツは覚えていた。
だから音楽の隙間で微かに聞こえる小さな足音や、ドアノブを捻る音はサヴァのものだろうと考えたのだ。
考えてみれば、サヴァは足音をこんなに静かにできなかったし、ドアノブを捻るときにこんな武骨な音を立てるわけがなかった。

「エリーゼ、“ルクソ地方における民俗学”は…」
「…本当に空気が読めない」
「いや、エリーゼのオーラを読んだ上で来たんだが。どうした?」
「どうした、って…状況見てもらって察してもらっていい?馬鹿?」

ドアから出てきたのは、ラフなシャツとジーンズ姿の黒髪の青年だった。
センリツがはっと息を呑むのと、クラピカとエリーゼがドアの方を見るのとが同時だった。
階下に降りてきたクロロは、同居している恋人に本の在処を聞き始めた。
そこにクラピカがいることも理解して、なおのことである。

クラピカが一気に殺気を飛ばし始めたのを確認しても、クロロは自分のペースを乱すことはなかった。
呆れ半分、焦り半分のエリーゼが馬鹿にしたように言うと、彼はムッとしたのか失礼な奴だな、と言い放った。

「俺にも何か出してもらえるか?」
「え?ああ…トリッパとワインでいいならすぐに出るけど」
「それでいいや。バケットはある?」

エリーゼは?と聞かれたので、自分の分もお願いしておいた。
クラピカのことを憎く思って気が重くなっていたのがスッと消えたようだ。
空気も気持ちも一気に軽くなった。
クロロがいるだけで、こんなにも落ち着くことができるとは、と自分の単純さに苦笑いしながら、エリーゼは席を立った。

先ほどからロックで飲んでいたこともあり、既にほろ酔い状態ではあるがカウンターに入り、棚からワインを取り出した。
ティティヴァールがエリーゼにと買ってきてくれたアルゴー地方の貴腐ワインである。
そのワインを開けて、4本のワイングラスに注いだ。
芳醇なブドウの香りが漂うと、クロロもふと顔を上げた。
アルコールの匂いに敏い男だ。

「いいやつだろ、それ」
「まあね。私に人間らしい感情があったことを祝って」
「馬鹿馬鹿しいけど、乾杯」
「乾杯」

琥珀色の液体が並々と注がれたグラスを片手に、エリーゼはクラピカの傍に寄った。
彼は相変わらずクロロを睨んでいて、その目は緋色に染まっている。
なんだかそれが可笑しくて、エリーゼも同じように瞳を緋色に染め上げた。
エリーゼのオーラの質が変わったことに気づいた2人はクロロから目を離して、彼女を見た。

蕩けるように緋色に、薔薇色に染まった頬、上擦った声が追いかける。

「本当に馬鹿馬鹿しい。クルタだろうが何だろうが、私は私なのに」

2杯目のワインを一気に飲み干したエリーゼは歌うようにそう言った。
クロロがクラピカを目の前にしても何も変わらなかったように、クラピカがクロロを目の前にして怒りをあらわにしたように、ルーツや真実がどうであれ、エリーゼはエリーゼであって、彼女がここまでに至るまでの経歴に変わりはない。
エリーゼはクルタに興味がなかったし、クロロが好きだ。

エリーゼはクラピカの手を取って、無理やりグラスを持たせた。

「ここは音楽と食事を楽しむ場だからね、クラピカ。死も憎悪もここには相応しくない。害するなら退店するのがルールよ」
「…生きた緋色を見るのは久しぶりだ」
「そうでしょうとも。まあ、これはサービス。…ちょっと待って、貴方確か未成年だったわね?」
「ああ。申し訳ないがそれは頂けない」

クラピカが訓練で瞳の色を変えることができるように、エリーゼもそれができる。
クロロから言わせてみれば、ベッドに組み敷いた時よりは鮮やかな緋色にはなっていないらしいが、それを知るのは彼だけで十分である。

不意に見た懐かしい緋色は、クラピカの逆立った精神を多少軟化させたらしい。
テーブルに丁寧に置かれたグラスをエリーゼは手に取った。

「センリツ、アルコール平気だっけ?」
「多少はね」

センリツにそれを持たせて、エリーゼは一気にワインを煽った。
とても気分が良かった。

自分がしっかりと母のことを考えて、母や祖母を迫害した相手を憎むことができていたこと、クラピカに真実を知ってもらうことができたこと、こうして同じ場にいられること。
一度アーデルを出れば、クラピカとクロロはまた元の関係に戻るかもしれない。
ただそれでも、今、こうしていられることが可笑しかった。

「“いい日ね、我が子たち。わたくしのヴァイオリンをお聞きなさい、もっといい気分になるわ”」

ラミアは最終的に神に認められ、子供を腕に抱くことを許される。
ただしそれは、神の作り上げた庭にいる時だけ。
我が子を抱いた彼女が歌った“愛おしき日々”は、彼女の楽園での暮らしを歌った1曲で、晴れやかな声と華やかなヴァイオリンの序曲で始まる。

エリーゼは争い事が嫌いだ、だからこそ、アーデルで働いている。
サラームの外に出ることも、今は殆どない。
彼女にとっての楽園は、この場所であった。
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