8.
誰もいない放課後の教室が好きだ。
グラウンドから聞こえる野球部の掛け声が遠く聞こえる夕暮れ時の教室は、1人でいるととても静かに感じる。
とりあえず開いてみたノートは真っ白で、折り目もついていない教科書はだらしなく湾曲してページを揺らしている。
教科書の隣に置いていたペットボトルは濡れていて、机にシミを作っていた。

最近は日が落ちるのが遅いから、時間が経っていることに気付かないことも儘ある。
グラウンドの端に見える道路で遊ぶ少年たちを見守っていると、後ろから声を掛けられた。

「紘子」
「あれ、桔平。早いね」
「ああ。もうそろそろ大会だからな。オーバーワークにならないようにやってるんだ」

もう気持ちは夏だ。
紘子はてっきり桔平はテニスの強豪校に行くと思っていたが、彼はこの公立高校を選んだ。
また中学と同じようにゼロから始めたいという思いが根底にあったかららしい。
実際、この公立高校のテニス部は大抵地区落ちだったのが、今年は地区予選も勝ち残った。

今年はちゃんと桔平の試合を見に行かなきゃな、と紘子は心に決めている。
中学時代に見た試合のせいであまりテニスの試合を見に行く気にはならなかったが、今年は桔平にも誘われているから見に行くつもりだ。

「今年は見に行くから」
「ああ。今度は勝ち試合を見せてやる」

満足げに笑った桔平を見上げながら、それは楽しみだ、と笑った。

桔平が来たということは、紘子もそろそろ帰らなくてはならない。
付き合い始めてから、帰りだけは桔平を待つようにしていた。
朝練の時間に起こすのは忍びないと桔平が言ったから、せめてもと帰りだけは一緒に帰るからと伝えた。
それ以来、桔平は部活が終わると他の部員に誘われたとしても断って、紘子のいる教室に足を運んで迎えに来てくれるようになった。
それがとても特別なことのように感じられて、紘子は幸せな気持ちになった。

「ちょっと待ってて、片付けるから」
「ああ。急がなくてもいいぞ」
「ありがと」

急がなくてもいいと桔平は言ってくれたが、紘子としては少し焦る。
せっかく早く終わったのだから家に帰って休みたいだろう。
桔平は基本的に優しいが、意外と時間にシビアであることをこの数年の付き合いで察した。
待ってはくれるものの、時間管理のできない奴程度に思われそうな気がして、そう思われたくないという気持ちが紘子を急かした。

中途半端に開けられた教科書を乱暴に閉じて、鞄に仕舞おうとした時だった。

「あっ…あー!もう!」
「大丈夫か?」
「あーうん…洗ってくる。ごめん」

教科書の隣に置いてあったペットボトルに指が引っかかり、倒れそうになったのを抑えようとしたがうまくいかず。
結果として机の上は洪水、その上制服にジュースが零れた。
桔平はさっとタオルを差し出してくれたが、ジュースの汚れを付けるのも申し訳なくて、とりあえずトイレに駆け込んだ。

セーラー服の下あたりとスカートのウエスト当たりから裾にかけて、完全にジュースがかかっている。
こりゃお母さんに怒られると、紘子は涙目になった。
とりあえずセーラー服を脱いで部分洗いをして、スカートは脱いで、下に履いていたハーフパンツだけにした。
格好悪いからかなり恥ずかしいが、お母さんに怒られるよりはましだと考えた。

「ごめん桔平…あ、机ありがと」
「別にいい。ちょっとは落ち着けよな」
「ほんとゴメンって。ちょっと待って、上も体育着に着替えるから」
「…ああ」

セーラー服を教室の窓の桟に軽くかけてから、机に掛けたままだった鞄を覗きこもうと、椅子を引いたところで、腕を引かれた。
腕を引く相手は間違いなく桔平なので、どうしたのだろうと彼を見ようと振り返った瞬間、噛みつくように口づけされていた。
驚いている紘子の身体を抱き寄せて、桔平は椅子を蹴り飛ばすように退けた。

「んっ、う…」

あまりにも突然の出来事に紘子は何も言えず、薄く水の張った瞳をしっかりと閉じた。
口内を蹂躙する桔平の舌に逃げまどうばかりで、何もできやしない。
呼吸すらも怪しくなってきた頃なって、ようやく桔平は唇を離した。

「お前、それは誘ってるとしか見えない」
「っは…?え、きっぺっ…」

桔平に太ももを触られてはっとした。
ハーフパンツを織り込んでいたのを、すっかり忘れていた。
家に帰るといつも制服を適当に脱ぎ捨てて、そのハーフパンツ姿でいたからあまり警戒していなかったが、冷静になってみれば太ももが相当露わになっていた。

首筋に掛かる荒く熱い吐息、噎せ返るような暑さの教室、誰かが来るのではないかと思うと気が気ではなかった。
きゅう、と桔平のワイシャツを握りしめて太ももから腰へ伸びる手に耐えた。

「っ、紘子」
「あっ、ん…」

熱さのせいで頭が蕩けてしまったかのように、意識は揺蕩う。
その中で鋭く光る獣のような瞳に、紘子は身悶えした、堪らなく身体が疼く。
彼の短く刈られた頭を胸元に抱き寄せて、紘子は机に腰を乗せた。

「桔平、っ」
「…いいんだな?」

いいか、と聞かれたときに何をされるかは十分察することができるくらいには、大人だった。
ただ、その経験はない子供だった。
子供なりに、必死に首を縦に振って握りしめていた桔平のワイシャツから手を離した。
ワイシャツのボタンをもどかしげにはずして桔平の胸元に顔を埋めた。
汗の匂いと熱を一身に受けながら、紘子は身体を彼にゆだねた。


今思えば、こういうシチュエーションでとか、ああいうことの後にとか、夢を見ていた節もあったから少しショックを受けていた部分もあったと思う。

しかしそれを伝えたところで、目の前の桔平が止まってくれるとも思ってはいなかった。
遠のく理性の中で、視界の端で揺れるセーラー服が終わるころには乾いているといいなあと考えたあたりで、よそ見をするなと言わんばかりに彼はまた紘子の視界を奪うように覆いかぶさった。


行為は一度が限界だった。
腰が立たずにへたり込んでいる紘子を支え、椅子に座らせると桔平は席を立って、教室を出て行った。
その拍子にできた桔平の汗の匂いが混ざった風は、紘子の身体の底をずくりと疼くような匂いがした。

火照る頬を汗の滲んだ両手で隠すように包むと、手からはレモン石鹸の匂いがした。
桔平に机の横に掛かっている、閉まりきらずに端だけ開いている鞄から覗くタオルに顔を埋めたい気持ちを抑えて、紘子は彼のいなくなった机に伏せた。
レモン石鹸の匂いなんかよりもずっと桔平の匂いの方が好きだ。

「制服は乾いたな…とりあえず身体はこれで拭け」
「ああ…うん、だいぶ遅くなっちゃったね」

彼が持ってきてくれた冷たい濡れタオルが熱を溶かしていくような気がした。
いつの間にか教室の中は薄暗くなっていて、遠くに聞こえていた生徒の雑踏や声もしなくなっている。
低い桔平の声だけが紘子に届き、その度に心臓が煩くなった。

歩けそうか、と差し出された手を握って立ち上がった。
腰は重いが歩けないことはなさそうだ。
厚い掌が愛おしくて、汗ばんだ手で一生懸命握った。
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