5.
中学3年の夏休み、紘子は溶けるほど暇な日々を送っていた。
そのころは部屋の冷房を付けることも許されておらず、無気力に首を振る扇風機を眺めながら漫画を読んだり、ゲームをしたりしていた。

ジーワジーワと鳴くセミの声の隙間から、携帯のバイブ音がしているのに気が付いたのは、本当に偶然だった。
恐らく、音を出してゲームをしていたら気づかないくらいの音だった。
机の上にある携帯を胴を伸ばして気だるげに取って、そこに書いてある数字の羅列に首を傾げた。

携帯電話ならアドレス帳に入っている人からであれば、その人の名前が出てくるはずで。
つまりは登録外の人からの電話だった。
番号は携帯のものだったから、誰かアドレス帳に登録し忘れていたクラスメイトだろうかと思って電話に出た。

「はい?廣道ですが」
『ああ、廣道。橘だ。悪いな、突然』

一瞬、身体が金縛りにあったかのように固まったのは言うまでもない。
内心、誰から番号を教わったのだろうとか久しぶりに橘の声を聞いたとか、色々考えていたけれど、それをすべて喉の奥に押し込んだ。

紘子は手から滑り落ちそうになった携帯をぎゅっと握りしめて、平穏を装って、どうしたの、と聞いた。

『今日の夕方、暇か?』
「え、まあ。暇だけど」
『夏祭りがあるからいかないかって友苗から聞いてないか?』
「聞いてない…橘もくるの?」
『ああ。俺は雅也の手伝いがてらだが』

雅也、と聞いて、それが誰だかわからなかったが、そうなんだ、と答えておいた。
いつの間に夏祭りに行くことになっていたのか疑問だったが、友子のドッキリである可能性が高い気がしてきた。
友子は紘子の橘に対しての気持ちに気づいていて、彼を誘ったに違いない。
その行動に感謝しつつも、心臓に悪いなと少し不機嫌になった。

橘は外にいるらしく、友子友子と雑踏が混じった音が聞こえる。
彼が手伝いで何をしているのかも気になった。

「雅也って誰?」
『うちの部の奴でな。苗字は桜井だ。友苗と家が近くて幼馴染なんだそうだ』
「あー!あのちょっとリーゼントっぽい人!」
『ん…?まあそうか、言われてみれば。桜井の家で夏祭りの屋台を毎年やっているらしくてな。今年は人手が足りないと相談を受けて、部の奴らで手伝ってるんだ』

そういえば、橘を初めて見た時に友子がそんな話をしていた。
1つ年下の後輩で家が近所だっけ、とぼんやりと思いだした。

廣道も来るだろ?と念を押されたので、紘子はもちろん、と返した。
大体の場所を教えてもらって、電話を切って、すぐにシャワーを浴びた。
突然だから浴衣はないのが残念だったけど、休みの日の橘に会えるのであれば何でもよかった。
休みの日ということは、制服でもユニフォームでもない私服の橘が見られる。
そう思うととても楽しみだった。


自転車でうっすらと覚えていた友子の家に向かった。
その途中で浴衣を着た人に何回かすれ違った。
金魚の尾ののようにゆらゆら揺れる帯が視界の端に写るのを無視して、紘子は自転車のペダルを強く踏んだ。

「友子!」
「あー紘子。来たね」

自転車で友子の家に付いた時にはもう、彼女は浴衣姿で玄関先に立っていた。
なんで教えてくれなかったの、と浴衣を着られなかった恨みも込めて話すと、驚かせたかったと笑われた。

「でも、電話越しの橘くん、良かったでしょ?」
「そりゃあまあよかったけど!でも私も浴衣着たかったんだけど?」

ばっちり浴衣で決め込んでいる友子を眺めながら、紘子はそういった。
心の底から浴衣を着たかったが、突然だったから諦めざるを得なかった。
ごめんね、と友子は謝っていたが釈然としなかった。

自転車を友子の家に置かせてもらって、紘子は商店街へと向かった。

「雅也の家は電気屋さんなんだ。で、毎年綿菓子やってるんだけど、今年はそれにプラスで宣伝も込めてタイピーエンもやるんだって」
「タイ、え?何それ」
「熊本では何気に有名な春雨スープみたいなやつらしいよ。屋台だからなんちゃってだって橘くんが言ってたけど」

そういえば、橘は熊本出身だった。
発端は桜井が夏祭りで何か新しいことをやりたいと呟いたことだったらしい。
普段から桜井家には送迎でお世話になっていたテニス部が、そういうことならと全員で今回の夏祭りの手伝いをしようということになり、目玉になる品をそれに選んだらしい。
友子曰く、おいしいそうだ。

夏祭りの提灯や神輿を模した飾りが施された商店街には、たくさんの店が並んでいる。
もう暗くなり始めているから、提灯には火が入っていた。
時刻は6時過ぎになろうとしていた。
冷やしパインを並べている八百屋を通り過ぎたところで、久し振りにさっぱりとした短髪を見た。

「橘!」
「ああ、廣道。来たのか」

青い法被にねじり鉢巻きをした橘が桜井電機と書かれた店の前にいた。
その傍には、他のテニス部員もいた。
友子が桜井のご両親に挨拶をしている間に、紘子は橘の傍に寄った。

「似合うねー、法被」
「ああ…廣道は浴衣を着なかったんだな」
「急だったから準備してなくてさ」
「そうだったのか。悪いな、もっと早く言えばよかった」

別に橘が悪いわけではないから、紘子は慌てて気にしないでと微笑んだ。
橘はまだ納得しきれていないのか、眉を寄せていた。
どうしたらいいのかわからなくて、目を逸らした。

まもなく花火が始まる時間帯で、商店街の人通りは疎らになり始めていた。
花火は商店街を抜けた先にある河川で行われるから、大抵の人たちは川辺へ集まるのだ。
流れるように商店街を抜けていく人々をぼんやりと見ていると、友子がちょいちょい、と手招きをした。

「橘さん!ここはもう大丈夫なんで、花火見えるとこ取っといてもらえませんか?」
「私と雅也はもう少し店番してるからさ。2人とも行っておいでよ」

2人で、と言われたのではっとして周りを見渡したが、いつの間にか他の部員の人は居なくなっていた。
橘はお玉を置いて、桜井の方を見た。

「え、他の人は?」
「あとで食べ物と飲み物持って追いかけるんで、大丈夫っす!」
「先行って場所取っててね」

他の部員はどうやら店の中にいるらしい。
すりガラスの向こうで忙しなく動く影が見えた、もしかしたら運ぶ用の飲み物をクーラーボックスに詰め込んでいるのかもしれない。

紘子は困惑して友子を見たが、ぐっと親指を立てるだけだった。

「わかった。じゃあ席取ってくるよ…それでいい?」
「ああ、構わないが…お前ら、荷物平気なのか?」
「鍛えてるんで大丈夫っすよ!友子に持たせる分なんてないっす!」
「そうか、ならいいんだが」

橘は一度、人の流れて行く方を見た。
商店街の出口には信号待ちで立ち止まる人が沢山いて、皆、その先の海を目指しているようだった。
確かに早めにいかないといい席はなくなりそうだ。


同じことを橘も考えたらしい。
行くか、と紘子の手を少し乱暴に引いて人の流れに乗った。
橘と二人っきりの時間が発生することが嬉しいような、緊張するような、どうしたらいいのかわからない気持ちになる。

「場所、わかるの?」
「去年も来たから、なんとなくは」

橘の硬い肉刺のある手が、紘子の手をしっかりと掴んでいて、逃げることも離れることもできない。
握られた手の熱さは思考回路を溶かしていくかのようで、面白い話の1つも出てこないから、無難な話を適当に続けること以外にできることはなかった。

海に近づけば近づくほど人は増えていき、橘の握る手に力が込められた。
紘子もそれにこたえるように、強く彼の手を握った。
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