3.
その時は、一目惚れが信じられなかった。
あれは一時のことで、何かの勘違いなのではないかと思う気持ちがあった。
その一方であれは間違いなく、恋ではないかもしれないにしろ、自分の中の何かが変わったことは理解していた。
それがなんであるか、確信は持てないでいた。

「それじゃ、廣道はライン引きをしてくれ」
「あー、ハイ」

春先に気が付いたら決まっていた体育委員の肩書に従って、紘子は体育祭の準備に呼ばれていた。
普段ならすでに帰路についているような時間だが、明日に迫った体育祭のために居残りを強いられていた。
本来ならばもっと前から積極的に委員会に参加しなくてはなからなかったらしく、先生の当たりも他の生徒の当たりも若干強いような気がして、紘子は更に面倒になってきた。
午後3時半、太陽は夏を思い出させるかのように強く地面に光を落としていて、グラウンドの土と紘子のやる気はすっかり乾ききっていた。

いつもならサッカー部や野球部が使っているグラウンドは、今日だけとても静かだ。
ただ校舎はとても賑やかだった、外部の部員は皆、校内で筋トレをしているらしい。
エイオーやら、ファイオーやら雄々しい声が背中に当たる。
そんな騒がしいグラウンドで、紘子は黙々と前もってひかれていた薄い線をなぞって進んだ。

「廣道、手伝う」
「え?…あ、橘?」

自分のいる場所に突然影ができた。
影の主の低い声が背に振ってきて、慌てて紘子は顔を上げた。

黒い、ユニフォーム姿のままの橘がガラガラとライン引きを持ってやってきた。
どうしてここに、とか、部活はいいのか、とか気の利いた一言も言えずに固まっている紘子など見えていないかのように、桔平は無言で紘子から離れた。

そして校舎とは反対側の、紘子がこれから引く線の向かい側から線を引き始めた。
ガラガラと錆びたライン引きが押される音で紘子ははっとして、自分も線を引き始めた。
そしてふとした時に前を見ると、無心で線を引く黒い頭が見えて、慌てて彼と同じように首を垂れて線を引いた。

そのうち、彼のNIKEのシューズが見えてきて、彼のライン引きが見えて、そこで顔を上げた。
グラウンドの中央、少し校舎寄りの場所で、ちょうど紘子と橘はもう一度顔を合わせることになった。

カチン、とライン引き同士がぶつかって、線が繋がった。
以前のような身体中を貫くような激しさはないものの、血の巡りはいいようだ。
波打つ心臓を抑えるように、ライン引きの冷たい取っ手を握りしめた。

「ここ以外にどこを引くんだ?」
「あ、えっと…ここで終わりだと思う。それ以外は何も言われてないし」
「そうか」

白い線は真っすぐと紘子と橘の下を走っている。
その白い線を消さないように気を付けながら、ライン引きを手に紘子は橘の傍に寄った。

担当の先生にはこの線を引けとしか指示されていなかったため、紘子はそう答えた。
本当は先生に聞けば別の仕事があるだろうことは分かっていた。
ただ、とっさにそれを言うのをやめた。

「今日は部活いいの?」
「いや、本当は練習がある。だが、こっちを疎かにするわけにもいかないだろ。誰かの仕事を増やすのは忍びない」

友子から前に聞いた、弱小テニス部の話。
橘はそこの部長だということも噂で聞いた。
これから夏にかけて、きっと大会があるに違いない。
だから部活の練習にも力が入っているのだろうと、紘子はユニフォーム姿のままやってきた橘を見て考えた。

どうせ自分は暇なのだから、橘の分まで仕事をしたって誰も困らない。
責任を感じてわざわざ来てくれただけで、桔平の人の良さと誠実さは分かった。

「ふうん、そっか。今日はもう仕事ないみたいだし、戻ったら?」
「…いや、流石にまだあるだろ、仕事」
「ないと思うよ。だって私もこれが終わったら帰っていいって言われてるし」
「そうか?」

橘は辺りを見回して、まだ線の引かれていない場所がないか確認しているようだった。
ただ、下書きの線は薄いから近くにあるもの以外は見えないと思う。
恐らく、グラウンドのコースに下書きの線はある。
既に校舎側のスタートラインを書いた紘子には、それが分かっていた。

しかしもう長い線は残っていないため、橘の手を借りずとも自分だけでも仕事を終えることはできる。
先生に帰っていいとは言われていないが、嘘をついた。

「なら戻るか」
「え、あ。ちょっと」

橘はその言葉を信じたらしく、少し考えてから呟くようにそう言って、紘子の手からライン引きを奪うように取った。
2台のライン引きを持って、橘はスタスタと校舎の方へと歩き出す。
紘子は慌てて不動峰の名前を背負った大きな黒い背中を追いかけた。

ガラガラ、ライン引き2台分の車輪の音と心臓が煩い。
彼と向かい合っているわけでもないのに騒ぐ胸に、紘子は確信した。
これが恋だ、と。
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