9.
低音とエンジンの振動が太い腕が絡んだ腹に響く。
冷たい風がフルフェイスの流線型を滑って行く感覚が好きで、身体中が震えるこのバイクが好きで、背中に感じる熱い激情の塊みたいな男が好きだった。
あほらしいと思う反面、幸せだとも思うのが悔しい。

「お前、何考えてるんだ?」
「桔平をどれだけ愛してたのかってことだよ!」

戸惑っているような声音が背後から聞こえた。
フルフェイス越しのくぐもった声は、いつも隣で聞いていた声だ。
危ないからとバイクに一緒に乗るのは禁止されていたから、背後から聞くのは初めてかもしれない。

紘子はハンドルを握りしめ、冷たい風が髪を攫って行くのを無視して飛ばした。
名神高速の橙色の街灯が一定の間隔で紘子と桔平の身体を打っていく。
その後、紘子と桔平の間に言葉はなかった。
本当は、桔平からの愛してるの一言が欲しかったけれど、それを言われたらきっと、どこかのサービスエリアでUターンしたくなってしまうから、これでよかったのかもしれない。



高校を卒業してすぐに紘子と桔平は就職をした。
大学に行くのも考えたけれど、早く自立したいという思いが2人にはあった。
自立して、2人で暮らしたかった。

お互いの両親は、それでもまあいいと許してくれた。
2人とも就職が決まって2年して、籍を入れた。

仕事が早く終わる桔平が食事を担当してくれて、紘子は洗濯と掃除担当。
桔平の料理が上手すぎて紘子が落ち込むこと以外は順調な日々だったのだ。

「…千歳が海外に行く?」
『せや。やっぱ聞いとらんかったかあ…。一応、橘には伝えておいた方がええって、健二郎と話しとったんやけど』
「そうか…、すなまい。知らせてくれてありがとう」
『むしろ勝手に伝えてすまんな。』

晩夏といえる、涼しい夏の夜だった。
いつも通り、先に帰っていた桔平が作ってくれた夕食が置いてあるリビングを通りかかった。
紘子は帰ってきたらまずリビングに行って、桔平の作る夕食を見てから一度部屋に戻って着替えてから夕食にする。
そのルーチンの隙間に、その電話はあった。

千歳は桔平の話の中でよく出てくる、彼のテニスの相棒であり、親友であり、大切な人だ。
紘子は何度も彼の話を桔平から聞いていた。
その度に、少しドキッとしていた、千歳の話をする桔平の顔が、あまりにも幸せそうだから。

「ただいま、桔平」
「…ああ、悪い。おかえり、紘子」
「気にしないで。電話、誰から?」
「大阪の奴らからだな…千歳のことを教えてくれた」

このとき、紘子は、察していた。
千歳が海外に行くこと、あの、ぼんやりしていて自由奔放で目を離すとどこかへ行ってしまうという千歳が。
桔平がそれを気にしないわけがなかった。

何より、桔平は私への想いにはすぐ気づいたくせに、千歳への想いにはちっとも気付かなかった。
私が、それに気づいてしまうくらいに強く想っていたのに、本人はちっとも気付かなかった。
手の届かないところに行ってしまうと分かった瞬間、きっと桔平の気持ちは大きく揺らいだのだと思う。

そこからの私の行動は早かった、すぐに桔平を問い詰めて千歳がいつ出発するのかを聞きだした。
千歳はもう明後日には出国するという、あまりに急な話でついていけないと桔平は答えた。

「あいつはいつもそうだ。自由奔放で決めたら手が早い」
「桔平は大体迷って、後悔するタイプ。そうでしょ」

迷っている暇はない。
夕食を食べて、その次の日の出勤前に市役所に寄った。
それから、職場で明日休みが取れるように、上司に頼み込んだ。

最悪、仕事を辞めることまで考えたが、上司は急な休みを許してくれた。
その上、定時で仕事を終わらせてくれたので、すぐに家に帰った。

桔平はいつもより2時間も早く帰ってきた私を見て、ひどく驚いた顔をしていた。
おかえりとただいまをする間もなく、桔平をリビングに座らせて、どうしたいのか膝を突き合わせて話し合った。

「…すまない」
「いいよ、分かってたことだから。その代わり、絶対に選んで」

話し合いの結果、桔平は印鑑を緑の紙に押した。
3年前に押した印鑑と全く同じ赤だというのに、ひどく涙で滲んで、違う色に見えるくらいだった。
印鑑を仕舞う桔平の腕を乱暴につかんで、私は家を出た。
戸惑う桔平を引っ張って、その腕にヘルメットを持たせて、バイクの後ろに座らせた。

その時になれば、桔平は選ぶことができるだろう。
私はそう思っていたし、選ぶ内容も想像できていた。
だから、フルフェイスのメットを被ったときに覚悟を決めた。
涙で視界が見えなくならないように、しっかりと拭って、バイクのエンジンを吹かせた。
それが2時間ほど前のことだ。
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