正直、限界だった。
父からの要求、リーダーとしての責任、常勝。
紫原は強かった、尋常ではないくらいに。
俺では止められないと、そう気づいたときに、何かを切り捨てなければならないと思った。
甘いのだ、勝つためにいらないものなんていくらでもある。
それらを切り捨てれば、紫原に追いつけるかもしれない。
そういった足枷を外せば、もっと高みに行けるはずだ。
パズルのピースがはまったというよりも、はまらないパズルのピースを無理やりはめ込んだような気分だった。
どこかを壊してしまったような気がしていた。
廊下の窓は開け放たれている。
いつの間にか、随分と風も冷たくなっている。
指先が冷たいが、手に持った携帯の熱がそれを緩和してくれていた。
「来たね、赤司くん」
「…苗字さん」
「お疲れ。大丈夫、時間はとらせないよ」
苗字さんからメールがあったのは朝だった。
今日の昼に会えるか、という内容だった。
最近、苗字さんと昼を共に過ごすこともずいぶんと少なくなった。
苗字さんからのメールはやはり今も嬉しい。
しかし、それ以上の気持ちが混みあがってくるのも確かだった。
苗字さんを待つといったのは俺だ。
告白して、その答えはまだ先でいいとそう言った。
しかし、早くも俺は待ちきれずにいるのだ。
我儘といえばそれまでだが、我儘というにはあまりに汚い感情だった。
「赤司くん、最近疲れてるみたいだけど」
「そんなことないさ」
「そう」
「それで、今日はどうしたんだ」
屋上に繋がる階段の踊り場は、数か月前から何一つ変わっていない。
苗字さんは相変わらず、使われていない机に軽く寄りかかっていた。
彼女はそこが好きみたいだった。
さやさやと涼しい風が通りすぎていく。
ここだけはいつ来ても穏やかな時間が流れていて、俺も好きだった。
苗字さんに会えたのは嬉しいのに、どうしてか冷たい言葉が出てくる。
心の中では慌てているのに、それをうまく表に出せない。
最近、そういうことが多い。
自分の身体なのに、うまくコントロールできない。
それがとてももどかしくて、苛立たしかった。
苗字さんは俺の言葉を苦笑いで受け流した。
呆れているのか、何なのか。
苗字さんが何を考えているのかわからないのは、今に始まったことではない。
彼女の思っていることを理解で来たことなんて、昔からない。
「ね、赤司くん。私、赤司くんのことが好きだよ」
やっぱり、今も昔も彼女は理解を超えてくる。
苗字さんは机から腰を浮かせて、そう言って微笑んで見せた。
恥ずかしそうに少し頬を赤くして、少し困ったみたいに。
どうしていいのかわからなくて、ただ俺は立ちすくむばかりだった。
本当は嬉しいのに、身体は動かない。
本当はやりたいことがたくさんあるのに、動かない。
好きといってくれた彼女に、言葉を返したい。
しかし、それすらもできなかった。
「だから、大丈夫」
ゆっくりとこちらに向かってくる苗字さんに、俺は後ずさることも、腕を伸ばすこともできない。
電気ショックでも食らったかのような痺れだけが、身体に充満している。
苗字さんが、俺に腕を伸ばした。
俺の腕を掴んで、それを頼りに少し背伸びをして。
柔らかな唇が、触れたのはわかった。
「大丈夫だからさ、少し休んだら?」
目の前に、赤い顔で困ったように笑う苗字さんがいた。
ようやく、肩の力が抜けた気がした。
肩の力が抜ければ、腕がきちんと動く、彼女を抱きしめることもできた。
意外と背の高い苗字さんを抱きすくめると、彼女は俺の背中に腕を回して子供をあやす様に軽く叩いた。
「お疲れさま、赤司くん」
「…ああ、」
気が付いたら、泣いていた。
今まで、身体に張り付いていた重いものがすべて崩れ落ちていくような感覚がした。
苗字さんは優しく笑って、背中に回す手に力を込めた。
どうしようもなく身体が熱くて、その熱を吐き出すように何度かキスをして、彼女の華奢な肩に顔をうずめた。
優しい洗剤の香りが、どこか懐かしくてとても安心した。