じりじりと照り付ける太陽の光を無視するかのように、苗字さんは図書室の奥で静かに本を読んでいた。
図書室の奥は日が指さず、夏場の昼休みでも蛍光灯を付けるくらいだ。
苗字さんの白い肌が無機質な蛍光灯に照らされて艶々と光っている。
長い黒髪は高い位置で一つに束ねられていて、細い首筋があらわになっている。
「私、この青いワイシャツ嫌いなのよね」
「そうなのか?」
「汗かくとすぐに色ついちゃうし。セーラー服が良かった」
図書室は空調が効いていて涼しい。
時々やってくる強い風が胡蝶の髪を揺らすのを見てたら、ふと彼女はそんなことを零した。
読んでいた本から眼を離して、じっと自分のワイシャツの襟をつまんだ。
まあ、苗字さんだとセーラー服のほうが似合いそうではある。
黒髪や白い肌が映えることだろう。
そんなことを口にすれば引かれるので、心の隅に留めておく。
「なんで青なんだろうな」
「青の理由はなんとなくわかるんだけど」
「そうなのか?」
帝光の制服は冬服が白ブレザーなので、白ワイシャツが合わないことは確かだ。
ブレザーを着ない夏場でも青にしなければいけない理由はない。
だが、学校指定のカーディガンは白…結局上着が白になるのなら、中は白以外になるというのが順当か。
白ブレザーにすると先に決めてあって、それに合うワイシャツの色を考えたのだろう。
「だって、汚れが気にならないから。白って少しでも汚れると、一気にだらしなく見えるじゃない?」
「ああ…そう言う考えもあるのか」
俺はそう考えたのだが、苗字さんは違ったらしい。
洗濯をすることを前提に考えた時のメリットである。
確かに白は汚れやすいし、シミが落としにくい。
汗を書く夏場には適さないといえよう。
「赤司くんは違うの?」
「俺はブレザーが白だからだと思った」
「あー、そっちのほうが理由としては重要そう」
苗字さんは完全に本を閉じて、木製のテーブルの端っこに置いた。
図書室で話すのはあまりよろしくはないが、苗字さんはお喋りがしたいらしい。
幸いなことに、炎天下の今日は涼みに来ている生徒が多く、いつもより図書室はにぎやかだ。
不機嫌そうな司書の先生にばれないように、極力静かに話を進めた。
常連である俺らが話しているとばれると、後々文句を言われかねない。
帝光中の図書司書の先生は中々素直な人で、嫌だったことを生徒にストレートに話してくる。
何もしていなくても、「最近涼みに来る生徒が煩い」くらいの文句はいってきそうだ。
「苗字さんは家庭的だな」
「おばさん臭いともいう」
「いわない」
司書の先生、少しだけ目を瞑っていてください。
愚痴くらいなら後でいくらでも聞かせていただくから。
静かな読書よりも苗字さんとの話のほうが、今の俺には重要。
苗字さんの家庭的な部分を褒めてみたが、軽くかわされてしまった。
大抵、彼女は褒め言葉を素直に受け取らない。
気恥ずかしいからか、皮肉で返してくる。
ただ、苗字さんが褒められるのを嫌がっているというわけではないのは、顔を見れば一目瞭然である。
薄らと色付いた頬や気恥ずかしそうにそらされる目がすべてを物語っている。
「まあ、長いこと鍵っ子だし」
「鍵っ子?」
「え、鍵っ子って知らない?両親が共働きで、家に帰っても誰もいないから鍵を持たされてる子のこと」
「ああ…なるほど。そういえばランドセルに鍵をつけている子がいたな」
「多分それ」
鍵っ子という言葉は初めて聞いたが、共働き世帯であればそうなるのか。
親が家にいなかったら、家には誰もいないというのが一般的である。
うちはそうではないが、俺が例外であることは小学生の時に自覚した。
小学生の時はランドセルに伸びるキーホルダーで鍵をつけていた子をよく見た。
きっと苗字さんもその類だったということだ。
そして、帰宅して自分で鍵を開けて、電気をつけて。
もしかしたら、親に家事の手伝いをしなさいといわれていたのかもしれない。
洗濯物を取り込んだり、夕飯の手伝いをしたり、きっと苗字さんはそういうことを難なくやってしまうことだろう。
「大変だな」
「そうでもないよ、慣れたし」
苗字さんは苦笑してそう答えた。
俺にはその真意が掴めない、寂しくないのだろうか、辛かったのではないか。
慣れてしまったからといって、思うところはないのか。
俺には分からない。
苗字さんと話すたびに、自分がとても無力であるように思える。
俺はそういった苦労をほとんどしないでここまで育ってきた。
温室育ちといってしまえば、それまでだ。
そして、今まで自分と気が合わない人とはほとんど話さなかった。
そう言った人の中に、きっと苗字さんのように苦労を当たり前にやっている人がいたのだろう。
自分に合う人とその環境にだけ甘んじてしまっていて、それ以外の部分をちっとも理解できない。
これではいけない、そう思うから。
「ご両親は忙しいのか?」
「まあ、そうだね。うちはお母さんが大黒柱で、お父さんが支柱って感じかな?2人で仕事してる」
「そうか。じゃあ夕食は苗字さんが?」
「うん」
苗字さんが家庭的であるのは確からしい。
夕食の時間まで両親が帰ってこないとなると、洗濯物や夕食の準備、風呂の支度なんかも苗字さんの仕事なのだろう。
しかも苗字さんはそれを当たり前のこととして行っているのだ。
「時々サボるけどね、面倒くさいと。ストライキだってするよ」
「そうなのか?」
「あんまりいい子って思われるのも癪だし。主にお小遣いの交渉とかどこかに遊びに行きたい時はそうやってストライキして我がまま言うの。そう考えると、お手伝いだって結構便利」
真面目なだけじゃダメなのよ、と胸を張って言われた。
まあ確かにそうかもしれない、僕らは一般的に思春期とか反抗期とか言われるくらいだから。
でも、もし苗字さんがこれを本気で言っているなら、彼女は相当不器用だ。
普通、子どもは理由なく親に我がまま言うものではないか。
俺も人のことは言えないけれど、青峰や黄瀬や紫原の話を聞いている限りだと、そんな感じがする。
少なくとも、我がままと何かと天秤にかけることはそうないだろう。
「なるほど」
「赤司くんは…あんまり我がままとか言わなそう」
「あながち間違いではないけど、やりたいことは大抵やらせてくれる家だからな」
我儘らしい我儘を言った覚えは、あまりない。
やりたいことは大抵やらせてくれた…あえて言うなら、バスケだけは我儘を通したような気がする。
これは父には反対されて、母とともに我がままを通したのだ。
俺はバスケが好きでやりたいと思った。
でも、父には反対されて、それでもやりたいと思った。
そういうものが少ない、つまり自分はあまりものへの執着がないのだろう。
好きだと思うことがそもそも少ないのだ。
だから我儘を言う必要性があまりない。
苗字さんは複雑そうな顔をして、そうなんだ、と返した。
彼女も俺の真意に気付いたのかもしれない。
そして、彼女自身もそういうところは俺に似ている。
「ただ、普段我儘を言わない分、我儘を言った時は意地でも通すな、俺は」
欲しいものは絶対に手に入れる。
時間がかかっても、手間がかかっても、割に合わなくても。
俺はきっと、そういうやつだ。
苗字さんは、あー確かにね、とちょっと引きつった苦笑いを見せた。