苗字さんは赤い傘をくるりと右回りに一回転させた。
どうやら癖らしい、先ほどもくるりと左回りに一回転させていた。
雨は苗字さんが来た時よりも、弱まっていた。
雨音で苗字さんの声がかき消されるという心配がなくなって、俺の心は晴れやかである。
「そういえば、苗字さんはノートの表紙に何も書かないんだな」
「え?」
帰宅途中のサラリーマンや塾に行くのだろう高校生の傘の間を縫って、俺の黒い傘と苗字さんの赤い傘が並ぶ。
なんとなく、これだけで幸せだった。
話の内容は特に何の考えもなしに、ただ気になっただけのことを振ってみた。
こういうことから、意外なことが分かったりもするし、分からなかったりもする。
苗字さんは突然なんだ、といわん限りの視線をこちらに向けた。
これは特に何もないのかもしれない。
「…私、字があまり綺麗ではないから」
「そうか?」
「好きじゃないの。うまく書けるときと書けないときとあるし」
意外な欠点がわかった。
とはいえ苗字さんに時に対して、俺は特に思うところはない。
この前、図書室の貸出カードで初めて俺は苗字さんの字を見た。
むしろ、同年代の女子と比べると綺麗な方だと思うのだが、苗字さんはそう思わないらしい。
苗字さんは少しだけ傘を傾けた。
俺からは苗字さんの顔が見えなくなる。
「赤司くんは字が綺麗?」
「読める程度には」
「…まあ、読めない字を書く人いるからね。そこまでではないけど」
そもそも、綺麗の定義が難しい。
苗字さんがどのような意味で綺麗を使っているのか、俺にはまだ分からない。
まあ、字が綺麗なことに越したことはない。
自分はもちろん、読む人に対しての思いやりとも取れる。
中には、自分にしか読めない字を書く馬鹿もいる。
例えば青峰とか、黄瀬とか。
あいつら、何とかならないものだろうか。
部誌が毎回酷くて、俺と緑間の解読班が作られたくらいだ。
そう言った極端な例が身近にいるから、極端なことを言ったが、苗字さんの主旨には添わなかったらしい。
「たとえば、女子らしい可愛い丸字とか。書体の問題」
「ああ、なるほど」
どうやら苗字さんは苗字さんなりに、思うところがあるらしい。
俺としては、苗字さんの書くあの基本に忠実な綺麗な字のほうが好きだ。
しかし、女子としてはああいった丸っこい字が可愛いと思うのかもしれない。
「ノートって、勉強の象徴な感じだし、それにあんまり堅苦しい字で表紙を書いちゃうとやる気がそがれるから。それならむしろ書かないほうがまし」
「なるほど」
つまり、字が綺麗すぎて嫌になるということか。
俺には少しわかりかねるが、気持ちの問題だ。
「苗字さんの字、俺は読みやすくていい字だと思うよ」
俺は女子特有のあの丸い字があまり得意でない。
全体的に丸いものだから凹凸が少なく、目が滑る。
そういえば、マネージャーの書く日誌や得点ボードの数字も、丸い。
よく言えばころころとしていて可愛らしいのだろうが、落ち着きがないともいえる。
ある程度角がないと読みにくいのだ。
ある程度の角と丸み、はらい、それらがバランスよく組み込まれている字。
胡蝶は誰にでも読みやすい字を書くように心がけているのだろう…無意識なのかもしれないが。
そういうところに、苗字さんのよさがある。
字は人を表す、ということだろう。
「どうも。でも、それとこれとは話が別。」
「…まあそうだな」
傘をもう一度回転させて、苗字さんはきっぱりそういった。
まあ、読みやすくていい字が万能なわけではないということなのだろう。
可愛らしいものに明朝体で文字を書かれたら台無しになる。
「読みやすい字がいいというのはわかっているけど、可愛らしさが欲しくなる」
「ああ」
「でも私ってあまりそういうガラではないし、似合わない」
「そうでもないだろう」
苗字さんが丸文字を書いていようが、桃井のように可愛らしいノートを作っていようが似合わないことはないだろう。
俺自身、今まで苗字さんのことを他の女子よりも大人びていると思ってはいた。
だが、こうして話してみれば他の女子とちっとも変らない。
大人びているところを気にして、可愛くなりたいと悩む姿なんて健気でいい、かなり好ましい。
やたらくるくる回している傘だって赤地に白のドット柄で可愛い。
意外と苗字さんはそういうところに気を使っている。
「そう…?」
「いいと思う。傘も可愛い」
「…赤司くんがモテる理由がわかった気がするよ」
苗字さんは赤い傘を左にくるりと左に1回転させた。
街灯の光で、苗字さんの赤く染まった頬がちらりと見えた。
もう雨は止みかけていて、周囲は傘を畳み始めているというのに、苗字さんは傘をゆらゆらと揺らすばかりだった。