07.雨降る帰路に
窓の外はすでに真っ暗だ。
向かいの校舎もまた真っ暗だが、職員室だけは灯りがついていた。
苗字さんが転ばないように足元に気を配りながら、先を歩いた。
苗字さんは、俺の後ろを足音もなく静かについてきた。

渡り廊下を渡って、廊下を進むとようやく足元に光が差した。
職員室からは、教師の談笑が聞こえる。
テスト前なので、うかつに職員室には入れないため、誰かが出てくるのを待った。
苗字さんはもうすでにやる気を削がれているらしく、廊下の端でぼんやりと窓の外を眺めている。
雨はまだ止んでおらず、校舎の屋根を激しく叩く音だけが廊下に響いていた。

「赤司。まだいたのか」
「すみません、雨が降ってきてしまったので傘を借りようと…それから、苗字さんが忘れ物をしたらしいので2組の教室の鍵をお借りできますか」
「ああ、わかった。鍵を返したら早く帰りなさい」
「はい」

職員室からマグカップ片手に出てきたのは、コーチだった。
事情を説明して、ちらと廊下の端の苗字さんに目をやった。
彼女は相変わらず窓の外に夢中らしく、ちらりともこちらを見ない。

俺は手渡された傘と鍵を持って、苗字さんのもとに戻った。
苗字さんは俺が戻ってきて、ようやくこちらを見た。

「ありがと」
「いや…早く帰るようにと言われたよ」
「ぜひ、そうしたいところだけど」

苗字さんがふいに俺に向かって手を伸ばした。
一瞬、固まってしまった。
なんとなく、手を差し伸べられたような気がして。
反射的にその手を握り返してしまいそうになった。

怪訝そうにこちらを見ている様子から、なるほど、鍵かと気づいた。
鍵だけを苗字さんの華奢な掌に落とした。
苗字さんは掌の中で鍵とプレートをすり合わせて、かちゃかちゃと音を立てて遊んでいた。

「何かあるのか?」
「昇降口の靴と教室と職員室を回るの、面倒」
「ああ…」

俺は教室の鍵が必要になるということが分かった時点で、そのことに関して気づいた。
実は、解決策はいくらかあった。
俺だけが職員室に出向き、傘と鍵をもらい、教室に行く。
その間に苗字さんが昇降口に向かい、靴を持って教室に戻る。
あとは、職員室に鍵を返し、職員玄関から帰る。
恐らくそれが一番効率の良い手である。

しかし、あえてそれをしなかったのは偏に、苗字さんと一緒にいたかったからである。
何か会話があるかもしれないし、そこから苗字さんのことをもっとよく知れるかもしれない。
そういう下心があって、わざわざ遠回りをさせた。

しかし、苗字さんの口から面倒くさいという言葉が出た以上、俺の我がままばかりを通すわけにもいくまい。
何より、自分の我がままで苗字さんの時間を浪費させてしまっているという罪悪感もある。

「なら、こうしよう。俺が鍵を返している間に、苗字さんは靴を取りに行く。職員室で落ち合って、職員玄関から帰ろう」
「ああ…そうだね、そうする。昇降口のあたり、グランドのせいでやばかったし」

苗字さんは納得したのか、させたのか、一つ頷いた。
特に苗字さんは何も考えていないようだが、俺は内心うまくいったと思っていた。
2人きりで下校する口実ができた。
吊り上がる口角を抑えられないくらいには、嬉しい。

教室に辿り着くと、苗字さんは暗がりの中慣れた様子で鍵を差し込み、まわした。
扉を人1人分通れるくらいに開けて、苗字さんは教室の机から、シンプルなノートを取り出した。
廊下側に机があるから、そんなに時間はかからなかった。
何も書かれていない表紙のノートをパラパラとめくって、中身を確認して戻ってきた。

「あったか?」
「うん、大丈夫」

ノートを片手に、苗字さんは鍵を閉めた。
暗いというのにやけに手慣れた様子である。

苗字さんは締め終わった鍵を俺の手の平に乗せた。
ちらと触れた指先はひんやりとしていて、そのまま握ってしまいたくなった。

「じゃあ俺はこれを返してくるから」
「うん。私、靴取ってくる」
「足元、気をつけろよ」
「うん」

苗字さんはノートをトートバックに仕舞って、踵を返した。
俺はといえば、振り向かない苗字さんの背中が闇に溶けるまで見届けた。
…さて、早く職員室に鍵を返して帰ろう。
そして、もう暗いからと言い訳して苗字さんの家を家まで送ろう。
苗字さんは遠慮するかもしれない、…いやそれすらも面倒くさがって流されるままに一緒に帰ってくれるかもしれない。
彼女の家がどこなのか俺は知らないけれど。

職員室につくと、すぐにコーチがやってきてくれた。
どうやらコーヒーを入れるついでに待っていてくれたらしい。

「苗字さんはどうした?」
「靴を取りに行っています。職員玄関から帰ろうと」
「ああ、それがいいだろうな。グラウンドは水はけが悪い」

グラウンドの水はけの悪さは、教師にも周知の事実らしい。
それなら早めに直せばいいのだろうが、外部の活動との折り合いがあるのだろう。
バスケ部のかげに隠れがちだが、帝光は野球部やサッカー部も強豪である。

そのような話をしているうちに、苗字さんが靴を片手に帰ってきた。
俺とコーチを見とめて、軽く会釈をしてみせた。
一応教師を敬う気持ちは持ち合わせているらしいが、近寄って挨拶をする気はないらしい。

「気を付けて帰るように」
「はい。ありがとうございました」

苗字さんが面倒くさそうにまた窓に目をやったのを見たコーチは、苦笑しながら俺に背を向けた。
早くいってやりなさい、ということだろう。
その好意に甘えて、俺は小走りで苗字さんのもとに戻った。

苗字さんは窓から俺に視線を移して、帰ろ、とつぶやいた。
いまだ雨は降り続いているが、その雨音は随分と小さくなっていた。
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