ぶいえす ます!
勉強が好きだという人は、知的好奇心が旺盛な人なのだろう。
知的好奇心と一概に言っても、まあいろいろある。
言語学が好きな人は言葉の作り出す無限大な可能性を見出そうとしているのだろうし、数学が好きな人は、数字の作り出す果てなき世界を解き明かそうとしているのだろうし、はたまた考古学が好きな人は今まで人類および生物が辿ってきた足跡にロマンを感じるのだろう。
さて、ここまで国語や英語、数学、社会等々のことを話してきたわけだ。

無論、知的好奇心はここに収まらない。
中学生の学問には含まれない心理学や哲学などもきっと知的好奇心の標的である。
人間を知る、それは自分を知ることであり他人を知ることであり生を知ることであり死を知ることでもある。
そこには人の過去も現在も未来もひっくりめて存在している。
そこに明確なる答えはなく、可能性のみが存在している。

「おーい、名前さん」
「お前のために集まってんだぞ」

そう、私は答えのない知的好奇心が好みであって。

「…数学は、無理ですって。本当に無理なんです。もうこの辺にしましょうよ!」
「この辺じゃまだ赤点範囲内だ、バカ」
「せやなあ…タケさん厳しいからなあ…こら、あかんやろ」

1つだけの答えに拘る数学は許容範囲外。
たった一つプロセスを踏み間違えただけで失敗なんて、なんて残酷な世界。
私の目の前のノートは赤ペンが至る所に走り、無残な姿をさらしている。
数字たちはあざ笑うかのように罰点を誘発させている。

中間テストまで、約1週間
先輩である翔一先輩、真先輩が切迫した様子でやってきたのも約1週間前。
寒い冬空を仰ぎ見ることができる開放的な某コーヒーショップで、私は数学と格闘していた。

「お前、賢そうに見えて全然だな…マジで」

普段嫌味っぽい口調の真先輩に本気で呆れられて、こちらとしては多少なりともご立腹だ。
賢そうにみえるというのは、主に眼鏡と校則に反さないように気こなした制服、それから可もなく不可もない無難な顔による先入観である。
その先入観を持ったまま前期の期末テストを迎え、帰ってきた成績表を開けてみればびっくりというわけだ。

数学は先生の温情としかいえない点数で赤点回避、英語はリスニングだけで赤点回避。
どちらもかなり逼迫した状態で、部活の顧問から直接部長と副部長に話がいったである。
来期もこの状態だと、退部を余儀なくされる可能性が高いと。
私的には、退部になろうとなんだろうと関係ない。
本音を言えば楽をしたいから退部のほうがよっぽど嬉しい、そのためなら赤点の補習だって喜んで受けに行こうではないか。

「まあ、人は見かけによらんしな」

いざ言われてみると腹が立つものである。
自分で言うならまだしも、他人に言われるとその言葉は社会性を持つのだから、ちょっとは考えて発言してもらいたい。
私はいい意味でも悪い意味でも平々凡々なちょっとばかり背伸びをしたお年頃の女子中生である。
だが、それを他人から言われると何だか腹が立つ女子中学生である。

翔一先輩は真先輩を宥めるようにそういった。
宥める相手は本当にそちらでいいのか、問いただしたいところだ。

私が赤点をとることで唯一困るらしいのが翔一先輩、真先輩ともに所属している男子バスケットボール部である。
選手は多くいるものの、きつい業務をこなせるマネージャーはそうそういないらしい。
しかも、自らの手で育ててきたマネージャーが成績不良で退部なんて情けないことこの上ないということらしい。

こちらとしては知ったことじゃない。
その言葉をブラックコーヒーとともに胃に落とした。

「で、名前さん。もうちょい頑張れる?」
「無理です、ギブです。方式は覚えましたけど、そもそも私の問題はそこにないんですし」
「まあ、せやな」

もうちょい頑張るも何も、すでに3時間も頑張っているんだ。
私の胃はコーヒーのせいで荒れているし、最初こそ笑顔だった店員さんも呆れ顔。
問題は何問も解いているが、正答率はほぼ変わらない。
さすがの翔一先輩もこれにはお手上げ状態のようだ。

私は空になったマグカップに口をつけた。
無論、中身など存在しない。

「お前は小学校に戻って百マス計算の紙でも解いてろ、馬鹿」
「それは私が退部するのと同意ですけど」

私は単純計算が非常に苦手である。
主に四則演算がダメでしょっちゅう間違える。
筆算しようとも、繰り上がり繰り下がりで間違える。
これに関しては、数学好きの真先輩には理解出来ない世界だろう。
私も何故この程度の四則演算を間違えるのかさっぱりわからない。

予測するのであれば、数字が旨く捉えられないという可能性がある。
目が滑るという現象だ。
数式は1から9、それから0の10個の記号で成り立っている。
むしろ、その10個の記号しかない。
だからこそ、同じ数字が紙面上にたくさん有るのだ。
しかもそれらは1画で出来上がっているのだから、形も同じようなものが多い。
そう考えれば目が滑るのも当然である。

真先輩は私の言葉に返す言葉が見つからないのか、白いマグカップの淵に唇をつけていた。
代打で翔一先輩が、昼休みの時間だけ付属小学校に行って百マス計算の用紙を貰ってくればいいと具体案を出してきたので慌てて拒否した。
四則演算ができないという理由で卒業生がやってくるなんて、卒業式で何とかこらえていたさすがの先生も泣くだろう。

「…とりあえず明日、部活終わりに集まるで」
「嘘ですよね?私のプライベート時間は?」
「あ?お前先輩のプライベート時間が削られてることのほうが重要に決まってんだろうが」
「いや、ほっといてくださればOKじゃないですか、それ」
「ほっとくと大事になりそうやからな…自分のより重要やで…名前さんの数学」

秋空はすでに夕闇に飲まれていた。
今日は部活がオフの日だったから良いが、明日は部活がある。
部活が終わって7時、そこから勉強会なんて冗談じゃない。
いつも家に帰ってご飯を食べてお風呂に入って本を読んだりゲームをしたりテレビを見たりする私のプライベートはどうなる。

よもや先輩達がここまで本気だとは思っても見なかった。
真先輩は中だるみの2年生だから良いが、翔一先輩は受験生で大変だというのに。
まあ翔一先輩はスポーツ推薦も考えているらしいから良いのかもしれないが…私的には良くない。
あまり頼りすぎたくはない…この人達に恩を売ると大変な事になりそうだ。

「いや、マジで頑張るのでそれは勘弁して下さい」
「ふはっ、信用ならねえよ、バァカ」

そりゃそうだ。
私だって真先輩に明日から嫌がらせしませんって言われても信用なんてできない。
なにか具体案を出さないといけない。

「…わかりました。じゃあ、タケ先生が放課後やっている小テスト、あれを毎日受けます。その点数が70点以下の時は放課後補習、クリアしたらなし。…どうです?」

我ながら70とは向上心が高い数字を選んだものだ。
しかし前期の成績を鑑みると50では不安が残る、60でボーダーといったところ。
そうなると70くらい取っていないと、先輩達は納得しないだろう。
そういう考えだった。

真先輩は馬鹿にしたように笑うばかりだったが、翔一先輩は真面目に取り合ってくれていた。
もともと真先輩が真面目に取り合うだなんて思ってもいないが。
真先輩がこの場に来ている理由だって、馬鹿を見て楽しむ為である。
翔一先輩が声をかけているらしいが、教えてくれるのは専ら翔一先輩で真先輩は私の回答を見て馬鹿というだけなのである。
私のやる気を出させる為の挑発材料としか思っていない。

「んー、まあそうしよか。確かに、俺らも大変やし」
「やった!」

思わず声が出た。
今日一日でわかった、いやこれ本当にきつい。
部活がなかったからまだ良かったけれど、部活の後なんて無理だ。
ただでさえ、部活中に真先輩に嫌がらせされて、他校の視察で追い掛け回されるんだから体力なんて残っていないし。

「じゃ、今日のところはここらで切り上げよか」
「はーい」
「ようやくかよ…」

最後の最後にして真先輩の本音を聞けた気がする。
外は既に真っ暗だった。
店員さんの間延びしたありがとございましたを背中に、扉を開けると乾燥した冷たい空気がスカートを浚った。

慌ててスカートを手で押さえて、一歩店の外に出た。
首元に巻いたマフラーで口元を覆ってもまだ寒い。
冬の足音が着実に近付いている。

「あー…一年って早いなあ」
「翔一先輩、オッサン臭いですよ」
「失礼やな、こっちは感傷に浸ってるんやで」

オリーブグリーンの幾何学模様のマフラーを首に巻いた翔一先輩が、商店街のイルミネーションを見ながらそうつぶやいた。
茶化すように返答したが、私も思う事は同じだ。
私を可愛がってくれた翔一先輩も今年で卒業。
2つ年上だから1年しか一緒に居られない。

反対隣の真先輩とはあと2年も一緒に居なければならないというのに。
でもきっと来年の今頃には、真先輩が居なくなることに寂しさを感じるのだろうと思う。
私はそういう人だ。

「名前さん、俺がいなくなってもバスケ部辞めるんやないで」
「大丈夫ですよ、どうせ真先輩が離してくれません」
「キメェこといってんな」
「ひっど!あーダメです、やっぱり翔一先輩が居ないと退部するかも」
「させるわけねーだろ、バァカ」

真先輩がコートのポケットに手を突っ込んだまま、顔をこちらに向ける事もなく、口だけが達者に動いている。
私はできるだけ明るく努めて、2人の間を跳ねるように歩いた。

口は悪くても、真先輩は仲間だと思った人にはとことん優しい。
翔一先輩は何も言わなくてもなんでもお見通し。
平々凡々の私ができることは出来る限り明るく元気で居ることくらいだ。
できれば、泣くことなく笑顔で2人を送り出せたら良いと思う。
それから、彼らが居る間は出来る限りの努力をして力になろうと思う。
そうやって思えるような人に会えて、本当に良かったと思う。

私は2人の真ん中で、楽しく過ごしていた。
それが今からちょうど3年前のことである。
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