67.アクアリウム
部屋の中はまだ暗く、周りのベッドからは寝息が聞こえる。
カチ、コチ、と時計の音が耳について眠れなくなってしまった。
うるさい時計の指す時間は早朝3時を半分ほど過ぎたあたり。

「お風呂に入りたいな…」

ぶるり、と震えた体を抱きしめて、なまえはそう呟いた。

『お風呂ねえ…寮のやつはあまり好きじゃないんだっけ』
「あんまり。でもこの際そこでもいいかな、温まれれば」

いつの間にか出てきたリドルが独り言に返事をする。
なまえは声の聞こえたほうを見た。
リドルはいつも通り、澄ました顔でなまえを見ている。

なまえの指すお風呂は一般的な英国人のいうお風呂とは違う。
英国人のお風呂とはシャワーのことを指すが、なまえのお風呂は湯船に浸かるという意味を持つ。

一応、湯船のあるお風呂が閣僚1つはある。
しかし、スリザリンのそれはあまり好ましいとはいなかった。
なぜなら。

「…でもあの雰囲気は…」
『それは僕も同意するね。昔からああなんだ、スリザリンの寮の風呂は』

リドルは苦笑しながらそう言った。
スリザリンの風呂は地下にあるせいか洞窟風で暗く、湿っぽい。
よく言えば雰囲気があるが、はっきりいって心休まらなかい。
なまえが求めるお風呂は、もっと明るくて清潔感のある場所であった。

なまえがそれでもスリザリンの風呂に行くかどうか悩んでいると、リドルが助け舟を出した。

『監督生専用の浴室はかなりいいと思うよ。僕の代と変わってなければね』


監督生の浴室があるというのは初耳だった。
リドルに教えてもらってたどり着いた先は、「ボケのボリス」の像の前。
どうやらここで合言葉を言う必要があるそうだ。

『さすがに合言葉は変わってるか』
「そっか…」
『おっと…ちょうどいいところに』

リドルは廊下の先を見つめて、目を細めた。
その先には人影があった、背の高い人だ。
なまえは目を細めて、その人を見た。

「あれ、なまえ?どうしたんだい、こんな時間に…」
「セドリック先輩」

廊下の先から来たのは、セドリックだった。
片手に第一の課題で手に入れた金色の卵を抱えている。
きっとその卵について考えていたのだろう。

それにしても、セドリックの朝は早いらしい。
同じようなことをきっとセドリックも考えているのだろう。
彼も驚いたような顔をしていた。

考えが似ているのかもしれないとセドリックは少し頬を綻ばせた。
なまえはそんなセドリックを見て、小首をかしげるばかりだ。

「あ、先輩、監督生でしたよね」
「そうだけど…あ、もしかして監督生の浴室目当てだった?」
「そうなんです、今朝は寒くて目が覚めて。それで、お風呂に入りたいと思って」

リドルがちょうどいいところにといった意味が、寝ぼけたなまえにも理解できた。
セドリックなら間違いなく浴室の合言葉を知っている。

「今朝は寒かったからね。合言葉は“松の香り爽やか”だよ」
「ありがとうございます」
「この時間帯は誰もいないよ」
「はい。…もしかして、セドリック先輩も入りに来たんですか?」

この辺りは外につながる道もなく、この先は行き止まりだ。
そうなれば、彼は返事をしなかったが、浴室にきたに違いなかった。
もともと監督生の浴室なのだから、監督生が優先されるのは当然。

「僕は今度にするからいいよ、冷えてるわけでもないからね」
「でも」

セドリックはなまえに譲る気だった。
しかし、なまえは申し訳なく思ったのか踵を返そうとした。
セドリックはなまえの腕をとっさに掴み、それを止めた。

なまえはすぐにその手を振り払った。

「冷え切ってるじゃないか、入りなよ。じゃあね」

セドリックは怪訝そうな顔をしていたが、それはなまえの身体が思ったよりも冷えていたからだった。
彼はそれだけ言って、なまえが止める暇もなく速足で去って行ってしまった。
取り残されたなまえはその背中を少しの間眺めていたが、仕方がなく「ボケのボリス」の像に向き直って“松の香り爽やか”とつぶやいた。

浴室は豪奢で理想そのものだった。
大理石張りの浴室には豪華なシャンデリアの光が満ちている。
風呂はこれまで見てきた中で最も広く、美しい。
なまえはぼんやりと浴室を見ていたが、身震いした身体ではっと我に返って、湯船にお湯を張り始めた。
お湯を張っている間に、軽く体を洗うのは完全に癖だった。

広さの割にお湯は早く溜まったように感じた。
お湯には入れてもいないのに、泡が立ち込めている。

「わ…」

色とりどりの泡の中のお湯は入るのにちょうどいい温度だった。
お湯を入れる際に温度を気に留めていなかったので、熱いようなら差し水をしようと考えていたが、その心配はなかったようだ。
優しい香り、洗いたての洗濯物の匂いがする。
なまえはそっと目を閉じて、ゆったりと浴槽に背をゆだねた。

『なまえ、寝ないでね、危ないから』
「…リドル、出てこないで」
『誰だっけ、僕の前に裸で出てきたの』
「いつの話よ、それ」

リドルが寝ているなまえを起こしにあらわれた。
なまえは薄く目を開いて、怪訝そうに彼を見る。
彼は笑いながら、なまえに昔の姿を投影した。

それは出会って間もないころ、夏休みのこと。
あのころは、女らしさなんてほとんどなかった。
裸でリドルの前に出てきても恥じらうのはリドルだけで、なまえは気にも留めていなかったのに。
今では色恋沙汰まで発生しており、それこそ年頃の女そのものだ。

『そんな頃もあったねって話』
「そうだね」

なまえは軽くそう返すだけだった。
ぱちん、と泡がひとつ弾けた。




西向きの窓からは仄暗いオレンジの光が射しこんでいる。
なまえはこの光が好きで、この場所も好きだった。
鼻孔をくすぐる紅茶の香り、人の声の届かない静かな空間。
一緒にいるセドリックも何も言わなかった。
沈黙を守り、夕日色に染まるなまえを見ているだけだった。

「そういえば、第二の課題の謎は解けたんですか?」
「うん。なまえのおかげでね」
「?」

なまえは外の風景を見るのに満足したのか、セドリックに向き直って声をかけた。
数週間前に第一の課題を終えたが、そろそろ第二の課題が出てくるころだ。
第一の課題で手に入れた金の卵がヒントであるということをいっていたが、金の卵を開くととんでもない騒音がするらしい。
セドリックは少し前までヒントが分からず困っていた。

しかし、もう解けたらしい、しかもなまえのおかげで。
なまえは何もした覚えはないので、小首をかしげた。

「ほら、前になまえと監督生の浴室の前で会っただろ?その時、僕は本当に浴室に行くつもりはなかったんだ。ただ、卵について考えながら散歩をしていただけで。でも、なまえが浴室に行くって勘違いしたから、卵を持ってお風呂に入るのも悪くはないと思ったんだ」

金の卵の中の騒音の正体は、人魚の歌声だった。
人魚の歌声は普段は騒音でしかないが、水の中で聞くと美しい歌となる。
セドリックは浴室でそれに気づいたそうだ。

「それで、ヒントはなんだったんです?」
「探しにおいで声を頼りに、地上じゃ歌は歌えない、探しながらも考えよう、我らが捉えし大切なもの、探す時間は1時間、取り返すべし大切なもの…たぶん、水中に僕にとって大切な何かが捉えられているから1時間以内に取り返せってことだね」
「なるほど、1時間水中にいなければならないんですね」

水中に1時間いるとなると、魔法を駆使していかなければならない。
そういった魔法があるのだろうが、なまえには想像もつかなかった。
なにより、その大切なものが何であるのかが分からない。
どんな大きさなのか、重さなのか。
それが分からないため、どこまでも不確定要素は増える。

なまえは席に座って、紅茶を静かに口に含んだ。
豊かな香りが口いっぱいに広がる。

「泡頭呪文を使おうとは思っているんだ…というか、それ以外に方法が思いつかなかった」
「私も調べてみます…力になれるかはわからないですけれど。あとは宝をどうやって取り返すかですね」

泡頭呪文の概要は知らないが、名前から察するに頭部に気泡をつけて呼吸をするというものだろう。
そうなると、その気泡を割らないようにしなければならないし、その気泡が泳ぐ邪魔になる。
もし宝物が大きく重いものであるとすると、持っていくことが難しい。
なにより、取り返すという言葉通り、水の中で何者かと戦闘がある可能性がある。

そうなったときに、水中生物と同等に戦わなければならない。
それは難しいことだ。

「たぶん、水の中っていうのは湖だろう」
「じゃあマーピープルあたりが大きな敵ですね」
「そうだね。別段泳ぎがうまいわけでもないから、それに対しての対処も必要だな」

どうやら課題は山積みのようだ。


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