チョコレートでさかなを釣る
苦しくて、苦しくて。
一番大切なものをほとんど全部失って、僕は掌の上にあった大切なものをもう一度探しなおした。
そうして、そういえば、彼女だけは一番大切なものに関わりのない大切な人だと気づいた。

彼女は決して、僕にバスケの話を持ちかけなかった。
僕がバスケの話をして、それに相槌を打つだけだった。
青峰君に会うのも、僕を通してだったし、赤司くんに対しても黄瀬君に対してもそう。
彼女は決して、僕を無視しなかった。

僕はどうしようもないくらい弱い男で、それに気付いてしまってからは彼女に会いたくて仕方なくなった。
学校へも行かず、わざわざ彼女が僕の家に寄って、明るい声で僕の名前を呼んでも無視していたのに。
そんな僕がどうして彼女に会えるだろうと思った。
だけど、どうしても、会いたくて。

「すみません、」
「別に謝んなくたっていいじゃん。それに、弱いのは私もおんなじだし!」

同じなんかじゃない。

あの夏の日のように、名前さんさんは新作のお菓子を持って僕の部屋に来た。
僕はあのときの本当は苦手な炭酸の、その口に広がる甘酸っぱくピリピリした感覚を思い出していた。

名前さんさんはあの時の眩しい太陽のように、笑っていた。

「それで、テツヤはどこに行くのか決めた?なんかバスケ馬鹿たちはみんな違う高校行くらしいけど…あ、桃井ちゃんは青峰と同じって言ってたな。腐れ縁だねえ」
「名前さんさんはどこへ?」
「誠凜っていう新設校だよ、めっちゃ綺麗でさートイレね!最高!」

名前さんさんはキセキの世代という単語をあまり知らない。
バスケが特に好きでもなく、興味もない彼女にとってそんな特殊な言葉は必要ないのだ。
彼女にとってバスケ部のレギュラーの面々は皆一様に、バスケ馬鹿。
その単純さが今は心地よかった。

僕は今の今まで高校について考えていなかった。
しかし、今の名前さんさんの言葉で決めた。

「僕もいきます」
「誠凜?」
「はい。そこはたしかバスケ部もあります。試合を見たことがありますから」

名前さんさんはその形のいい瞳を一瞬見開いた。
しかし、すぐに細める。
彼女が心底嬉しそうに笑うので、僕も嬉しくなった。

「テツヤなら平気だよ、私と成績同じくらいだもん」
「はい。でもこれから勉強します」

僕と名前さんさんは同じくらいの成績。
どちらかというと、名前さんさんのほうがちょっとだけ上。
今度、僕が休んでいた分のノートを借りさせてもらおう。
欲張りを言えば、一緒に勉強したい。
本当に僕は汚い。

「あーあ、私が桃井ちゃんに背後から刺されたらテツヤのせいだからね」
「…さすがにそこまではないですよ」
「分からないよー?恋する乙女は恐ろしいんだから」

桃井さんに限ってそんなことはないと思う。
名前さんさんも本気にはしていないのだろう、笑って冗談半分な様子だ。
恋する乙女が恐ろしいのであれば、恋する男子はどのようなものなのだろう。
意外と臆病なものかもしれない。
少なくとも、僕はそうである。

「名前さんさん、来週から暇なときに勉強に付き合ってくれませんか」
「うん、いいよ。その代わりお茶請けはテツヤ持ちね!」

お菓子で名前さんさんが釣れるならいくらでも。
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