結局、うまく言い包めて(うまくはなかった、お互い傷ついただろう)同じ傘に入って帰ることに成功した。
バイトはないらしく、疲れた体を引きずるようにして名前さん先輩は帰路についている。
「家、どこでしたっけ?」
「ここから2時間くらい」
「…嘘っすよね?」
大学近くでバイトをしているので、家も近いものだと思っていた。
今の時間は夜9時、名前さん先輩が家に帰るころには11時近くになっている。
「え、泊まってきます?」
「なんでそうなるの」
「いやだって、今から帰るって…効率悪すぎるっすよ?」
男の家に泊まるのは抵抗があるかもしれない。
だけど、2時間かけて実家に帰るくらいならそうしたほうがいいと思うのだ。
少なくとも俺は名前さん先輩との関係を一時の欲で崩すほど馬鹿ではない。
下着くらいは買えばいいし、講義に使う教科書なんてそんなにないだろう。
だが、名前さん先輩はそんなことお構いなしに、考えることもなく、即答した。
「帰る」
「いやでも…」
「知らない人の家で眠れなくなるよりも、2時間かけて実家に帰ったほうがいい」
正論ではある。
確かに気を遣うし、寝にくいかもしれない。
俺はそれ以上の反論が思い浮かばなかったので、口をつぐんだ。
さあさあと細い雨が傘と地面の間を吹き抜けていく。
傘をさしている意味はあまりないのかもしれない。
名前さん先輩は眠たそうな瞳に街灯の光を灯していた。
あまりにも濃い黒は、闇に溶けきっている。
とても夜の似合う人だ。
「名前さん先輩は、好きな人とかいないんすか」
「いない。いらないし。今までも多分これからも」
いらない、いらないとそう呟く名前さん先輩は壊れたラジオによく似ている。
自分をそう洗脳するかのように、いらない、いらない。
名前さん先輩は完全に世界を拒否している。
誰かと親身になることや理解すること、愛されること、愛すること。
それらをすべて放棄して、自分だけの世界に浸っている。
揺蕩う水面に身を委ねて、静かに眠っている。
「欲しいと思わないんすか」
「いらない。思わない」
自己暗示、いらない、欲しくない。
どうしてそうも頑なに、何かを得ることを恐れるのか。
世界は変わるかもしれない、しかし、変わらないでいることなんてありえない。
それを最低限に抑えようとしているのだろうか、そうだとしたら馬鹿馬鹿しい。
それに、俺には名前さんが、
「嘘つき」
に、見える。
名前さんは零れ落ちた俺の言葉を拾うこともなく、ただ、暗い道を歩いた。
嘘つきだ、欲しくないなんて、いらないなんて。
傘から出ないようにと竦められた肩が少しだけ揺れたのを俺は見逃していない。
「本当は欲しいんでしょ。どうして素直に欲しいって言えないんすか」
「いらない」
「嘘だ。ねえ、いくらだって欲しがっていいんすよ。俺、いくらでもあげますから」
「いらないの」
名前さんが望むなら。
俺はいくらだって好きを与えたい。
空っぽでひび割れた名前さんを満たすように、浸すように、たっぷりの好きを、愛を。
名前さんがこんなに頑なに閉ざす必要がないくらいに、たくさんのものを。
受け入れてほしい。
俺の初めての好きを。
それは俺のエゴであって、でも、きっとうまくいけば、ウィンウィンってやつ。
「俺、名前さんのことが好きだから。名前さんがどれだけ、俺のこと嫌いでも」
「…そう」
大好きだ。
この思いをどこにぶつけよう。
名前さんが楽なら、俺のこと嫌いなままでもいい。
だけど、好きでいさせて。
この迸る思いを受け取ってほしいと思うのは我がままだろうか。
「嫌いよ。黄瀬君のことなんて」
「それでも俺は、名前さんのこと好きだから」
「・・・好きにすれば」
ああ、大好きだ。
名前さんは俺を受け止めてくれる。
俺は名前さんの手を軽く握って、駅から逸れる小道に入った。
名前さんは何も言わずに、俺の手を振り払うこともせずに、ただついてきた。
それは夜道の月のようについてきた。