Lost data
忘れっぽい彼女と最初に会ったのは、女子トイレだった。
僕は男だから、そんなところにいた時点で変態認定をされてしまう。
見つからないように気をつけていたはずだったのに、彼女に見られてしまった。
彼女はぼんやりとした眼でこちらを見て、視線をちらりと下に向けて一言、男だといった。
その言葉を聞いた瞬間、僕はオブリエイトの魔法を彼女にかけた。

その次に彼女に会ったのは、図書室だ。
今度はこちらから声をかけた、こんにちは、その参考書使ってもいいかな?と声をかけると彼女は相変わらずぼんやりした様子でどうぞ、と気の抜けた返事をくれた。
彼女はすっかり僕のことを忘れていた、忘却魔法はきっちりと効き目を表していた。
一応、彼女のことを知っておこうと思って自己紹介をした。
トム・リドルと言う名は好きではない、嫌悪に値する名でこの口から吐き出すのでさえも苦しいが、もう慣れた。
辛酸だって吐きすぎれば喉が慣れる。
彼女の名前は、名無しさん・名無しさんと言うらしかった、東洋の島国に出自なのだといっていた。

時々、彼女の姿を目にすることがあった。
名無しさんは思った以上にアクティブなようで、さまざまな場所で見かけた。
レイブンクローの寮の近くの天文塔、動く階段の踊り場、中庭、地下階段…どこにでもいた。
あるとき、暇だったから声をかけてみた。

「やあ、名無しさん。魔法薬の調合録編纂の進みはどう?」
「…ああ、まあまあかしら」

名無しさんは変わらずぼんやりしていた。
僕が声をかけると、こちらを見るものの、見ていないような感じがする。
その後も他愛のないことを話した、図書室で読んでいた参考書のこととかスラグホーンのえこひいきの話とか、そんなくだらないことだ。
彼女は差しさわりのないような答えを返してきた。
どれに関しても、自分の意見と言うよりかは、曖昧で適当な返事だった。

違和感があった。
何であるのかは、いまいち掴めなかったが、名無しさんが人とは大きく違うような気がした。
それは僕が猫を被って生きているのとどこかにているような気がした。
だから僕はそれが気になって彼女を観察してみた。
そしてある答えに達した。
彼女は殆どの人に関する記憶を覚えていられないということ。

レイブンクローの生徒に聞き込みをしたところ、誰も彼女とそこまで深い仲である子がいなかった。
“友達”と呼べる相手は存在せず、いるのは“知り合い”ばかり。
僕は思い当たる節があって、彼女達に聞いてみた。
「彼女は君たちのことをなんて呼ぶの?」…答えは皆、分からないだった。
そりゃ分からないだろう、だって彼女は決して人の名前を呼ばないのだから。
聡明なレイブンクロー生だが、そんな基礎的なところには気づけなかったようだ。

「ねえ、名無しさん」
「何か?」
「僕の名前、分かる?」

いつか、僕はそう聞いた。
名無しさんは目を丸くして、必死に何かを考えるように目を逸らしていたが、やがて視線を落とした。

「ごめんなさい」

彼女は静かにそういった。
項垂れ、垂れた髪が彼女の顔を隠してしまって、表情は見えない。
声は少し震えていて、今までの空っぽで空ろな彼女とはまた違う姿だった。

彼女はぽつぽつと話し始めた。
昔から人の顔と名前を覚えられないこと、認知が出来ないこと。
他人に対する興味がわかないということ、どうしてなのかも分からないこと。

「でも、私これを治したいとは思わないの。だって、面倒だもの。治すのも…人と付き合うのも」

はっきりとした彼女の意見だった。
名無しさん・名無しさんは人が好きではなかった。

人は人とコミュニケーションをとることで世界を広げる。
つまりは他人からの刺激で、自分を広げることが出来る生き物だ。
だが、彼女はそれを全面的に拒否し、自分を箱に押し込め、いつまでも変わらないものとして認知をしている。
彼女は、変わらないものを記憶しておくことに長けている。

名無しさん・名無しさんは、人との付き合いを避けることで自分をなんとか認知しているのだ。
逆を言えば、彼女は人を認知した瞬間に、自分を認知できなくなる。
そう考えれば、彼女が自己防衛的に人との付き合いをやめていると考えれば、それは仕方のないことだ。

「と、僕は思うのだけど」
「そうね」

恐らく、僕のこの考えは既に彼女の中でしっかりと確立した説なのだろう。
名無しさんは別に驚くこともなく、僕の意見を軽く嚥下した。

それから、僕はしばしば名無しさんのもとに現れるようになった。
理由は簡単、僕にとって彼女は都合のいい存在だからだ。

人を個人として認知できない彼女は、人をすぐに忘れる。
だから彼女の前であれば、僕はありのままの僕で居られた。
どうせ、名無しさんは僕のことを覚えてはいられない。
僕がどんなに猫を被っていようと、いまいと、彼女はすぐに忘れてしまう。

「ああ、こんなところに」

今日も、僕は彼女の姿を探した。
名無しさんは僕が本当の僕を認知して覚えておくために、とても重要な存在だ。
彼女が忘れてくれる分、僕は覚えていられるのだから。


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